第三章最終話(七)イージーリスニング
「こんなことしてて良いのかにゃー?」
チャトラがだらしなくテーブルに顎を乗せて訊く。
チャトラの顔の横にはキウイの根の煮出し汁が置いてある。
場所はナイ・マイカの酒場だ。
店の中央ではテオがリュートの弾き語りを行っている。
その隣ではミケがうっとりした表情で座っている。
「別にいいんじゃない?」
ラビナがエールを飲みながらにこやかに応える。
「物資の流通も盛んになって、私たちの出る幕はもう無いでしょう?
後はジュニアの気が済むまで王様ごっこ遊びをさせて、光の谷を奪還するための準備を始めるのを待つだけよ」
「うん?
別にジュニアは好きにすれば良いのにゃ。
そうじゃにゃくて、だんだんと自分が堕落していっているようで、こんなことしてて良いのかにゃー? と」
チャトラは重力に逆らう術を失ったかのようにテーブルに顎を乗せて、にゃー、と伸びをする。
「気にする必要ないんじゃないの?」
ラビナはグラス越しにチャトラを眺めて呟く。
元々堕落した生物なんだし、と付け加える。
チャトラは反応しない。
ただ、だらしなくテオとミケを眺めている。
テオの周りには緑色の皮膚の、黄色い瞳孔が縦に割れている人形の、恐らくは亜人がいて、テオの歌を聴いている。
テオが歌うのは美しい翠の湖を称える幻想的な歌だ。
緑色の皮膚の亜人たちはおとなしく、しかし熱心にテオの歌を聴いている。
「あの人たち、あんまり見ないのにゃ」
チャトラはどうでも良さそうに呟く。
ラビナも、そうねぇ、あんまり見ないわねぇ、とエールを呷りながら応える。
ラビナもあまり興味がなさそうだ。
「テオが言うには、消毒用アルコールを蒸留水で薄めたものしか飲まないそうだにゃ」
「なにそれ?
どこかの看護師さん?」
ラビナは、きゃはは、と笑う。
「看護師さんは消毒用アルコールを薄めて飲んだりはしないのにゃ。
なんでも普通の食品を食べると死んでしまうそうだにゃ」
「へぇ、それじゃ普通の生物じゃないってことね?」
「そうみたいなのにゃ。
南西のイラーネクという邑に住んでいるのにゃが、そこでは逆に俺ら普通の生物が食べられるものは売っていないそうなのにゃ」
チャトラはだらしなく体をテーブルに預けたまま説明する。
「何、どさくさに紛れて自分たちを普通の生物扱いしているのよ、ずうずうしい。
貴方たちは普通の生物じゃないでしょう?
河豚を食べても死なないじゃない?」
「河豚?
おいしいのにゃ。
でも地球猫はアルコール、苦手にゃよ?」
チャトラは伸びきったまま応える。
「苦手なだけで、飲んでも別に死にはしないでしょ?」
ラビナは、でも面白そうね、と呟き、グラスを持って立ち上がる。
チャトラは相変わらず反応しない。
ラビナは、ツカツカッ、と中央のテーブル、テオの座る席に向かう。
「こんばんわ。
私はラビナ。
混ぜてもらえるかしら?」
ラビナは極上の笑みを湛えながら緑色の皮膚の亜人たちに話かける。
「貴女はテオのお連れの方ですよね?
私はシェーレ。
テオの曲、素敵ですよね?」
緑色の皮膚の亜人、恐らく女性、がラビナに微笑みかける。
上品な微笑みだ。
「よろしくね。
お近づきの印にビールでもいかが?」
ラビナはそう言いながらウェイターを呼ぶ。
緑色の皮膚の亜人たちはざわめきたつ。
「この人たち、俺らが食み喰いしているものは食べられないんだって」
テオが曲を締めくくるべくリュートを奏でながらラビナに言う。
「へぇ?
なんで?」
ラビナは首を右にやや傾けて尋ねる。
何でって言われても、と言いながらシェーレは助けを求めるように同族と思われる人たちを見る。
「私たちはスーン・ハーの者です。
イラーネクの住人。
私たちはリンを含む飲食物を口にすることができないのです。
私たちにはリンが猛毒です」
シェーレの隣に座る緑色の皮膚の亜人、恐らく男性、が応える。
ベルデグリ、良いの? そんな事を教えて、とシェーレは諌めるように言う。
ベルデグリと呼ばれた亜人は、いいんじゃないの? お互いを知ることも重要だし、とシェーレに笑って応える。
「え?
リンって毒なんじゃないの?」
「まあ毒にもなるのでしょうがリンは生命に不可欠な必須構成元素の一つですよ。
多い順に水素、酸素、炭素、窒素、リン、硫黄。
比率はどうであれ、大体貴女たちの食品にはリンが含まれています。
なので私たちはそれらを食べることができない。
ここで食べることができるのは精製した砂糖や塩、アルコール、リンを含まないものだけですね。
ここの店は私たちでも飲める飲み物を出してくれるので助かります」
ベルデグリはラビナに応える。
ラビナはウェイターに、この人たちが飲めるもので一番上等なもの、と注文する。
テオは、俺はエールをお願い、と注文する。
「それじゃ、テオ、会話の邪魔にならない曲をお願いするわ」
ラビナはテオに注文する。
ミケが目を見開き、髪の毛を逆立ててラビナを凝視する。
「うへぇ、久しぶりに聞いたな、そのリクエスト」
テオは文句を言いながらも、良いよ、俺はプロだからどんな注文にも応えてみせるよ、と呟く。
一同から笑いが漏れる。
テオは柔らかな分散和音でリュートを奏で始める。
そして囁くようなファルセットで愛の歌を歌う。
「ムナールの湖のヒ素濃度が高いことと、貴女たちの体、なにか関係があるのかしら?」
ラビナは率直に訊く。
ベルデグリから表情が消える。
「どこまで知っているのですか?」
ベルデグリはラビナに訊く。
「最初と二回目のサルナトの滅びはスーン・ハーにより齎されたってこと、くらいかな?」
ラビナは明るく笑う。
ベルデグリは首を竦め、何千年も前の事ですよ? と苦笑する。
「そうですね。
サルナトの住人と我々はムナールの湖を巡って二度に渡って争った歴史があります」
ベルデグリはラビナを見る。
でもね、遥か昔のことなんですよ? そう言って、ベルデグリはラビナに微笑み返す。
「私の連れはムナールの湖を浄化すると言っていたわ。
湖の東側はもう既にかなり浄化されてしまっているし」
ラビナはベルデグリの顔を覗き込む。
ベルデグリはラビナの視線を真っ向から受け止める。
「ええ、知っています」
「サルナトの災厄って貴方たちのこと?」
ラビナはベルデグリに訊く。
「かつてはそうであったかもしれない。
でも、何度も言いますが昔のことですよ?」
ベルデグリは歌うテオを穏やかな表情で眺めながら応える。




