第三章第三話(六)ソニアの愚心
「それじゃ、アルン、悪いけれど膝の上に乗せてね――」
「――巫山戯るな。
断る」
ソニアが提案を言い切る前に、アルンは断固とした口調で退ける。
阿呆なことを言うな、と付け加える。
「ええ?
なんで?
緊急事態なのよ?」
ソニアは抗議する。
「あのな、俺だって健康な男だ。
女を膝の上に乗っけて身動きの取れない状況ってのは困るんだよ」
「困るって何が?」
「俺の意志で制御できないものが制御できなくなるんだよ。
言わせるな」
アルンは苦渋の表情で説明する。
スティールはニヤニヤと笑う。
「いや、そこは短時間なんだからなんとかしてもらわないと――」
「――なんともならないから断ると言っているんだ。
俺は理不尽に殴られたくない」
「殴るなんてそんな……。
私は気にしないよ。
それじゃ何があってもお互い気にしないということでどうかしら?」
ソニアは縋るように懇願する。
ね? ね? と両の掌を合わせ、拝みこむ。
「……本当に何があっても気にしないんだな?」
「うんうん。
だから早く行こう?」
ソニアは我儘な子をあやすように笑う。
アルンは、吠え面かくなよ? と呟く。
「話はついたかね?
それじゃ行くぞ」
スティールは急かす。
アルンは後ろの車両に自分とソニアの荷物を置き、フック付きのネットで固定する。
そしてアルンは中央車両の重力列車の座席に寝転がるように座る。
そして五点式シートベルト締める。
「シートベルトは重要?」
ソニアは不安そうに訊く。
「事故が起きた場合はどのみち助からんな。
G対策じゃよ。
Gの強さと方向が変わってゆくからな。
固定しておかないと車内で踊ることになる。
早く乗んな」
スティールはぶっきら棒に応え、手に持ったベルトを振る。
ソニアは、じゃあお願いね、と言ってアルンの膝の上に座る。
スティールはベルトでソニアをアルンの膝の上に固定する。
スティールは風防を閉める。
風防はアルンの顔、そしてソニアの頭上すぐ上に迫る。
「中の空気は減圧され、純酸素に入れ替わる。
落下直後は無重力状態になって徐々にGが座席方向にかかりだす。
暴れんじゃないぞ」
スティールはそう言ってから、前方の車両に乗り込む。
パールとシメントの二人も既に前方の車両の座席に座っている。
――ピロロロロロー
大きな音が響き渡る。
列車は、ガクンッ、と揺れ発進する。
ソニアはアルンの上でアルンの胸に押し付けられる。
列車は徐々進み、勾配にさしかかる。
列車は速度を上げ、垂直に落下してゆく。
車内は重力を失う。
アルンにかかっていたソニアの体重が消える。
アルンは手を伸ばし、座席の横のバーを掴んでいる。
ソニアはアルンの腕を腕置きのようにして、その先のバーを握っている。
「ここでの重力加速度は現実と同じくらい?
九・八でいいのかな?」
ソニアは独り言のように言う。
アルンは返答しない。
ソニアの真っ赤な髪の毛が重力から開放され、アルンの顔の前で広がる。
アルンは迷惑そうに顔を横に向ける。
風防の外は定期的に光の輪が現れ、重力列車はその輪を潜ってゆく。
「凄いね、アルン!
無重力だよ!
体が浮いているよ!」
ソニアはアルンに言う。
凄い! 凄いよ! 七十キロを落下するんだね! ソニアは嬉しそうに言う。
ソニアはバーから手を離す。
無重力を味わうように。
「無重力状態は最初と最後のほんの一時だけだ。
その後は緩やかに座席方向にGがかかってくる」
「うん、判っているよ」
ソニアがアルンの言葉に応えたときには既にソニアの体重はアルンの胸元から太腿にかけて緩やかにかかってくる。
ソニアの赤い髪もアルンの顔を撫で下げるように動く。
「髪の毛が鬱陶しい。
結んでもらうんだった」
アルンは愚痴を零す。
「え?
ごめんなさい」
ソニアはアルンを見るべく顔を左上に捻る。
「うわ!
動くな!
髪はいいから動かないでくれ!」
アルンは慌てるように言う。
「え?
どうして?」
ソニアは意味が分からないというように体を左に傾け、アルンを見ようとする。
「だから腰で股間を擦らないでくれ!
それに胸が左手にあたっている!」
アルンは怒気を含む余裕の無さそうな声で言う。
「え?
ああ。
まぁ狭いから仕方がないわね。
私は気にしないから大丈夫。
そう言ったでしょう?」
ソニアは左側から仰け反るようにしてアルンは見ながら言い、目を細めて笑う。
ソニアの左の二の腕がアルンの肘の上に乗っている。
そしてソニアの左の乳房がアルンの手首の上に乗っている。
座席が狭いので手の逃げ場もない。
ソニアは両手で赤い髪を顔の右側で三つ編みに編んでゆく。
アルンからは、髪の毛を纏めたソニアの貫頭衣の衿元からソニアの右の乳房が見える。
そしてさらに奥、白い脇腹までが、周期的に通過する光の輪によって照らされる。
光の輪は速い速度で幾度も通り過ぎてゆく。
「お前、ワザとやっているんじゃあないよな?」
堪りかねてアルンは訊く。
「え? なにが?」
ソニアは怪訝そうな顔でアルンを上目遣いで見る。
アルンはソニアの問いに応えない。
「私の事をお前呼わばりするなんて貴方とマリアくらいなものよ?
別に良いけど……」
ソニアはそう言い、よっ、と体を再度捻り、前を向く。
そして上半身を起こすようにして三つ編みの先を貫頭衣の襟首の中に入れる。
「動くなって言うのに」
アルンの言葉は弱々しいものになる。
「え?
ちょっと!
え?
なに?
何かお尻にあたっているんだけれど」
ソニアは少し慌てながら両手を自分の尻の下に差し入れる。
「うわ!
手で触るんじゃない!」
アルンは慌ててソニアの両手を引き抜く。
「だから困るって言ったんだ!」
アルンは心底困ったように叫ぶ。
ソニアは腰を浮かせようとするが、ソニアの腰はスティールが締めたベルトで拘束されていて一定以上アルンの腰から離れることができない。
「え?
嘘?」
ソニアはベルトを緩めるべく留め具を探すが見つからない。
腰のベルトを見ようと上体を起こそうとするが風防に阻まれ、下を見ることもままならない。
「本当に頼むから動かないでくれって言ってるんだ!」
「と言うか、なんとかしてよ!」
ソニアは懇願するように言う。
「だから動くと余計に状況が悪くなる!
動くな!」
Gは強くなってゆき、殆ど地上と変わらなくなる。
ソニアの腰はアルンの腰に押し付けられる。
アルンは両手でソニアの腰を持ち上げて少しでも自分の腰から離そうとする。
「何お尻触っているの!
離してよー!」
ソニアも涙声になって首の付け根をアルンの胸に押し当て仰け反り、アルンの手から逃れようとする。
しかしスティールの締めたベルトが一定以上の腰の浮きを拒む。
「俺はお前のためにやっているんだ!」
「何が私のためよ!」
アルンは叫ぶ。
列車は空気抵抗により失われたエネルギーを補うため、断続的に不自然な加速を行う。
そのたびにGの方向が前後入れ替わる。
ソニアの体がアルンの上で前後に流れる。
ひぃ! ひぃ! と言いながら、ソニアは仰け反る。
「なぞるなー!」
ソニアは泣きながら叫ぶ。
ソニアは尻を護ろうと手をアルンと自分の間に挿し入れよとするが、ソニアの腰を支えるアルンの太い腕に阻まれる。
「不可抗力だ!」
アルンは断固とした口調で応える。
ひぃぃ! ソニアの叫びは続く。
今や光の輪は視認できないほどの速度で通り過ぎ、二人を照らし続ける。




