第三章第三話(三)小さき者たちの世界
ソニアは夢幻郷のゲートの前に立つ。
空は明るい紫色に輝く。
ソニアの格好は白を基調とし、朱色の縁取りのある貫頭衣である。
胸が大きく開いていて、肩甲骨の間、やや下にある眼窩が露出している。
帯は無く、左右で重ねられとじられた一枚の布が膝丈まで続く。
下はゆったりしたズボンで足首が紐で縛られている。
足には革紐で幾重にも縛られたサンダルを履いている。
肩には白い布のポシェットのようなバッグをかけている。
ソニアはバッグの中を確認する。
白いハンカチ、小型のスタンガン、スタンガン用の燃料棒、手鏡に櫛が入っている。
ソニアがいつも持ち歩いているものに似ているが、微妙に違うものだ。
なんだろうこれ?
ソニアはバッグの中身を不思議に思う。
どういう基準で携行品が選択されるのだろう?
ソニアはスタンガンを確かめる。
動くようだ。
スタンガンをバッグにしまい、手鏡を取りだす。
そして手鏡を天空に翳す。
ソニアは両の目を瞑り、胸の眼で見る。
この世界は可怪しい。
どこまでも怪しい。
ソニアの胸の眼は夢幻郷の地球を回るたった一つの人工衛星の俯瞰カメラ画像を映す。
その衛星の軌道が可怪しい。
その俯瞰カメラに映る映像が可怪しい。
なにもかもが可怪しすぎる。
とは言え、今はその可怪しさを指摘することは重要ではない。
所詮は夢の世界。
ソニアは、こういうものだ、と無理やり自分を納得させる。
重要なのは自分の立っている環境、目的地、そしてそれに至る経路だ。
ソニアの人工衛星は夢幻郷の地球(と言って良いのか)をたった十四分で周回する。
ソニアは自分の立っている位置を人工衛星の俯瞰映像で確認する。
地上には多くの光点がある。
その中のキラキラ輝く一点がソニアの手首の動きに同期して見える。
そこか?
ソニアは手鏡の角度を調整する。
見つけた。
大体の位置が判る。
人工衛星は一瞬で通り過ぎてしまうので、記録映像で確認する。
ソニアが立っているのは大きな大陸の南端。
クワガタムシのツノのような東西二つの半島で作られる潰れた落花生のような形状の大きな内海の南。
弧を描く西側の半島の東の先端付近にある小高い丘の麓。
ソニアはそこ居る。
ソニアは今、立っている場所、周囲にあるものを探ってゆく。
南東に向かって川沿いに道があり、街がある。
そこが噂に聞くアルタルの街だろう。
更に南に行くと港町があるようだ。
西方向には起伏の激しい地形が連なり、容易な旅路になりそうもない。
なるほど西方向への旅路はかなり困難そうだ。
幾つかの集落があるが、それほど大きな街はない。
アルタルを目指して、地球猫の協力を仰ぐべきか?
ソニアは腕組をして考える。
地球猫を頼るにしろ陸路を行くにしろ、はたまた海路を行くにしろ、先ずは川沿いにアルタルを目指すのが良いように思える。
しかしソニアが求めるスピード感にそぐわない。
さてどうしたものか?
ソニアは考える。
考えながら、周囲になにか気配があることに気付いている。
人工衛星の俯瞰映像を再生し、周囲を探索しなおす。
小動物くらいの黒い影が動いているのが見える。
小動物たちは、とある岩陰から次々と現れ、点在する岩に隠れながらソニアを遠巻きに観察しているようだ。
ソニアはバッグの中に手鏡をしまい、代わりにスタンガンを取り出す。
ソニアはそのままスタンガンを左手の掌に握り込む。
喧嘩上等、ソニアは小声で呟き、小動物が出てきた岩陰を目指す。
岩陰には人が一人通れる程度の岩穴がある。
岩穴は深くふかく地中にゆるやかな坂となって続いているようだ。
中から微かな音が聞こえる。
ソニアは胸の眼で暗闇を見て進む。
ソニアの胸の眼は極度に視力が悪い。
これは屈折の問題ではなく人工網膜上の撮像素子の密度が薄いためだ。
だからボンヤリとしか見えない。
とは言え、見える波長域が人間の肉眼に比べて広い。
かなりの帯域の赤外線域と、僅かであるが紫外線域までを見ることができる。
かつてこの眼をジャックが所有していたときは、モノクル(片眼鏡)の光学フィルタで人間の可視光波長域に制限していたらしい。
ソニアはこの第三の眼に実視野としての機能を期待していないため、裸眼で放置している。
しかし今は実視野としてのこの第三の眼で暗闇でも空間を把握することができている。
「ジャックのためにならないと思って巻き上げたけど、意外と役に立つわね、これ」
ソニアは呟きながら一本道をツカツカと進む。
進むに従い洞窟が黄緑にボンヤリ光だす。
音楽が聞こえだす。
壁面の、天井の、苔が光っているようだ。
音楽は電子楽器のような音で奏でられる。
明るい早い曲調だ。
「ん?」
ソニアは訝しむ。
夢幻郷にそぐわない曲調、使われているであろうよく判らない楽器。
それがなんでこんな鬱蒼とした地下で?
曲はこの先の大きな空洞から漏れ聞こえてくる。
面白い。
どう私を楽しませてくれるのだ?
ソニアは歩調を早める。
心とは裏腹にソニアの顔から表情が消えてゆく。
ソニアは狭い地下道を抜け、空洞に入る。
「人間!
勝手に入ってくるんじゃない」
なんだ?
甲高い声がする。
ソニアは空洞の中入り口の先に、ソニアの行く手を阻むように立つ小動物を見る。
身長四十センチにやや欠けるか。
姿形は人間の少年に見えるがサイズが小さい。
長い黒い髪に丸い大きな耳が二つある。
黒いスモッグのような服を着ていて、尻には細長い灰色の尻尾がある。
「御機嫌よう、私はソニア。
旅の者よ。
貴方たちは誰?」
ソニアは薄く笑いながら小動物に声をかける。
「我らは地下鼠、地下世界の支配者だ。
我らの版図に許可なく入るんじゃない」
小動物、地下鼠たちは見るみるうちに数が増えてゆく。
その動きはソニアの眼で追えないほど早い。
ソニアは立ち止まり、無表情のまま地下鼠たちに相対する。
地下鼠たちはソニアを遠巻きにするようにソニアを取り囲む。
大きいもので身長五十センチ程度、小さいものは二十センチ程度しかない。
その地下鼠の数が眼にも止まらぬ速度で増えてゆく。
ソニアを取り囲む地下鼠の輪が濃いものになってゆく。
電子楽器のような音で奏でられる曲は空洞全体に響きわたる。
「あら、そうなの?
てっきり私はここにお招き頂いたのだと思っていたわよ?
貴方たち、ずっと私を見ていたでしょう?」
ソニアが言うと、周囲は騒がしくなる。
「我らに気付くとはやるな、人間の女。
だが、我らはお前が我らに仇為す者か監視していただけだ。
用が無いなら立ち去れ、人間の女」
地下鼠たちの輪が切れ、ソニアの正面に一際大きな地下鼠だけが残る。
身長は五十センチ程度か、年配の風格を漂わせている。
「用……、私は人を探しているのよ。
ジュニアとラビナ。
そう、それに金髪と黒灰色の髪をした二人の女の子。
知っていたら教えてほしいのだけど?」
ソニアは問う。
ザワッ、地下鼠たちが騒がしくなる。
ラビナだって、ラビナの仲間だ、地下鼠たちの輪がソニアを恐れるように広がってゆく。
「ラビナは面白がって地下鼠を捕らえて猫にやるって言ってた」
「猫に弄ばれてボロボロになって逃げ帰ってきた者が何人いることか」
地下鼠たちは小声でラビナへの恐怖を口にする。
地下鼠たちはラビナを恐れているようだ。
――ドシン!
ソニアの右肩に衝撃が走る。
ソニアの右肩に地下鼠の少年が立っている。
紫がかった灰色の髪の少年だ。
ソニアは右肩を見ない。
「帰れよ。
齧るぞ」
地下鼠の少年はソニアの耳元で言う。
「シメント、よせ!」
一際大きな地下鼠がソニアの前に立ち、叫ぶ。
ソニアはまた右肩に衝撃を感じる。
シメントと呼ばれた少年はソニアの右肩から消える。
――トン!
ソニアの左肩に軽い衝撃が走る。
優しいものだ。
今度は地下鼠の少女がソニアの肩に立っている。
輝く銀色の毛の少女だ。
「あの者はお気になさらずに。
ラビナは今日の朝までナイ・マイカに居たと聞きます。
ジュニアは廃都サルナトを復活させ、王となりました。
でも今はサルナトは閉ざされています」
「――!」
銀髪の少女の言葉にソニアは内心驚く。
しかし顔は無表情のままだ。
「パール!
余計なことを言うな!」
シメントと呼ばれた地下鼠の少年が叫ぶ。
ラビナの左肩に軽い衝撃が走り、左肩の地下鼠の少女、パールが消える。
代わりにまた強い衝撃とともに右肩にシメントが現れる。
「ラビナの仲間なら、無事には帰せない」
シメントはソニアの髪を掻き上げ、ソニアの右の耳を露出させる。
そして小さな口で噛む。
シメントの小さな口から血が流れ落ちる。
「ラビナへの恨みを私で晴らすということね?」
ソニアはシメントを見ず、前を見たまま問う。
可哀想な子、ソニアは呟く。
シメントはソニアの耳から口を離す。
「シメント、その人、ラビナ以上に怖い人だぞ?」
背後から声が聞こえる。
低い男の声だ。
アルンが空洞の入り口に現れる。
「アルン、この子たちは貴方のお友達?」
ソニアは尚も前を、一際大きな地下鼠を見たまま背後のアルンに問う。
「全部とじゃないけどな」
アルンは短く応える。
「ふうん?
お友達なんだ?
それじゃ、半殺し程度で止めてあげるわね」
ソニアは笑いながら言う。
アルンは、お手柔らかに、と応える。
シメントは莫迦にしたような笑みを浮かべる。
「人間に俺ら地下鼠の速度を追えるのか?」
シメントはそう言ってソニアの肩を離れるべく動く。
ソニアはそれに合わせるように右の肩を引く。
たいした速度には見えない。
しかし。
「ふあ?」
シメントはソニアの肩を蹴りそこなって前に落ちる。
ソニアは右手でシメントの尻尾を掴む。
シメントはソニアの右手で宙吊りになる。
シメントは右足でソニアの右手を蹴り払おうとする。
ソニアはそれに合わせるように右手で尻尾を引く。
シメントの蹴りは宙を掻く。
ソニアはシメントの右足首を掴む。
そして掴んだ手をそのまま捻り、シメントの左足に絡め、地面に俯せに組み伏せる。
さらに右足で尻の上を踏みつける。
「あんまり小さい子を虐めたくないのだけれど……、耳、齧られたしね」
ソニアの首筋に血が流れ落ちる。
ソニアは冷たい笑みを浮かべて言う。
そしてソニアは右手をシメントの左のうなじに忍ばせる。
「なんで大きな耳が有るのに人間みたいな小さな耳もあるのかしら?」
ソニアはシメントの小さな耳を摘まむ。
耳が四つも有るなんて変ねえ?
ソニアは楽しそうに言う。
「千切ろうか?
要らないよね?
立派な耳があるんだし」
ソニアは壮絶な笑みを浮かべながら耳を引っ張る。
耳に吊られてシメントの頭が仰け反るように持ち上がる。
「いてて、勘弁!
かんべーん!」
シメントは甲高い声で泣き叫ぶ。
ストン、と音がしてソニアとシメントの間にパールが現れる。
ソニアの握られた左の拳がパールの右のこめかみに添えられている。
パールはソニアの左手を気にすること無く優しくソニアの右腕を両腕で抱く。
「弟が失礼をしました。
本人には後で謝罪させます。
どうか怒りをお収め下さい」
パールは落ち着いた声でソニアの眼を見て言う。
ソニアは右手で掴んでいたシメントの耳を離し、次いでシメントの腰を踏みつけていた右足を外す。
シメントは怯えた顔でソニアを見、トンッ、という音とともに消える。
「まあ、いいけれど。
私の質問に答えてもらえるのなら」
ソニアはパールの両肩に手を乗せて、一際大きな地下鼠を見て言う。
ソニアの右手はしっかりとパールの右肩を掴んでいる。
「儂はガンメタル。
地下鼠の長だ。
知るかぎりを教えよう。
だから、その子を離してやってくれ」
大きな地下鼠は言う。
ソニアは笑顔で、ええ、いいわよ、と言ってパールの肩から右手を離す。
パールはソニアを見上げる。
周囲が突然明るくなる。
原色の、パステルカラーの、様々な色の光に彩られたオブジェが明滅する。
空洞の周囲にある大小様々な出入り口が光によって明らかになる。
「地下鼠の地下世界へようこそいらした。
其方を客人として迎えよう」
ガンメタルは宣言する。




