第三章第二話(二)あなたの寝顔を眺めて
エリーは超高層ピラミッドからのカルザスの街に帰還した後、ジュニアの住む共同住宅を訪れる。
ジュニアが宣言している旅の期間は未だ終わっていない。
しかし予定外に早くジュニアが帰ってきているかもしれない、そんな淡い期待がエリーを後押しする。
共同住宅の一室のドアを鍵で開け、中に入る。
鍵は預かっているものの、ここに来るのはジュニアたちが夢幻郷に旅立って以来初めてだ。
とんでも無いことをしでかしてしまうかもしれない、エリーは自分が信じきれなかった。
ラビナの意識を読んでしまうだろう。
ジュニアの意識も読んでしまうかもしれない。
数日前、それでジュニアとラビナを窮地に陥れてしまった。
同じことを繰り返してしまいそうで怖かった。
だからエリーはここに来れなかった。
しかし超高層ピラミッドでの経験を経て、幾分気持ちの整理がついていると自覚する。
今なら弱い自分を受け入れることができる。
弱い自分を支えてくれる友人たちがいる。
少なくとも彼女たちの期待を裏切ることはすまい。
エリーは内心で誓う。
部屋の中にはシェルタイプのコンパートメントカプセルが六機並んでいる。
その中の二つに青いランプが灯っている。
エリーはカプセルの中に眠るジュニアを見る。
続けて隣のカプセルにラビナが眠るのを見る。
二人の顔はカプセルの中で水面上に出ているが、白衣を着た体はカプセルに中に満たされた液体に浸かっている。
液体は適温に保たれ、老廃物を濾過し、清潔に保つ。
生命維持の一環として腕に挿入されたカテーテルからは栄養が補給される。
カプセルは幾重も安全装置が設けられ、緊急事態に備える。
このカプセルの中にいるかぎり、そう簡単に死ぬことはない。
エリーは二人のバイタルを示す計器を見る。
ありえないくらい心拍数が落ち、体温も異常に低い。
しかしこれが夢幻郷に行っている者たちの通常の状態であるという。
新陳代謝が極限まで下がり、現実の世界の生命を維持する。
ジュニアはその通常の機序に加え、コンパートメントカプセルによる生命維持を行い、万全を期している。
――万が一の場合でも数十年は生命を維持できるはずさ。
出発前、ジュニアは朗らかに言っていた。
ジュニアとしても数十年も夢幻郷に滞在するつもりはないだろう。
エリーたちを安心させるためのアピールだ。
しかしエリーは不安になる。
数十年、私はコンパートメントカプセルを眺め続けることになりはしないか、と。
エリーは一緒に夢幻郷に行けない我が身を恨む。
エリーは夢幻郷に入れない。
理由は分からないが禁止者に指定されているらしい。
夢幻郷に入るにはいくつかの資格を試される。
ラビナ曰く、人間であること、正気であること、人間の範疇にあること、過去に追放されたことがないこと、等々。
他にもあるらしい。
エリーは、今の自分が人間の範疇に無いのかしらん? と想像する。
腹ただしく思うが、死んでも転生し続けるおかあさんと同じ体になった現状、確かに人間の範疇から逸脱しているのかも知れない。
エリーはそう思わなくもないが確認する方法を知らない。
夢幻郷で死ねば、現実世界での体も結局は死ぬことになるらしい。
現在のジュニアとラビナのバイタルを見るかぎり生きている。
問題は感じられない。
彼らの夢幻郷での旅は続いているのだろう。
今は確認しない。
確認は誰かがいるときにすることとしよう。
コンパートメントカプセルを満たす液体の濾過フィルタは未だ交換する必要はない。
燃料棒も殆ど減っていない。
現時点、なにもする必要がない。
エリーは部屋を出て鍵をかける。
ジュニアの住む共同住宅には人の気配がしない。
アルンも帰宅していないようだ。
エリーは右手で空中に文字を描き、銀色に発光する文章を綴る。
空中の文書は暫く空中を漂い、やがて消える。
エリーはそれを数回繰り返した後、階段を降りる。
路から共同住宅のジュニアの部屋を見上げる。
そして歩きだす。
エリーは買い物のため幾つか寄り道をし、ジュニアの道具屋に帰り着く。
ただいま、とドアを開けると二階からアムリタが降りてきた。
「お帰りなさい、エリー。
ジュニアたちは未だ夢幻郷?」
アムリタは微笑を湛えながらエリーを迎える。
アムリタの右目の下の青痣が痛々しい。
しかし怒るソニアに連れていかれるのを見送り、激しく折檻され、悄気ているさまを想像していたのでエリーは安心する。
アムリタに続き、ソニアもエリーを迎える。
ソニアの顔も穏やかだ。
「ただいま。
二人共カプセルの中で眠っていたよ。
特に問題は無かった。
……二人とも仲直りしたのだな」
エリーは二人の顔をみて言う。
二人とはアムリタとソニアのことだ。
「そんな、仲違いをしていたわけではないのよ。
単に私のいたらない点を正してもらっていただけで」
アムリタは殊勝なことを言いながらお茶を淹れるべくキッチンに向かう。
「その青痣、治そうか?」
エリーはお茶を配るアムリタに言う。
うん、お願い、とソニアが応える。
「ううん、いいの。
この痣は私の戒めとするわ。
本当に反省しているの。
これぐらいすぐに治るし」
アムリタは朗らかに言う。
いや、治してもらったほうが良いって、私のためにも、とソニアは言い募る。
アムリタは、いいの、いいの、と両手を伸ばし、拒否するように掌をエリーに向けて振る。
「青痣は早いうちなら冷やすほうがいい。
メラニン色素が沈着すると厄介だぞ?」
エリーはキッチンで手ぬぐいを濡らして絞り、アムリタに渡す。
アムリタは、ありがとう、と言って右頬にあてるがあまり気にしていないようだ。
「夢幻郷ってどんなところなのかな?」
エリーがお茶を啜りながら呟く。
アムリタとソニアは視線を交わす。
二人共、夢幻郷の話題は気になっていたもののエリーの地雷だと思って触れられなかったのだ。
「そうねぇ、この前行ったときはすぐに帰ってきてしまったからねぇ」
恐るおそるアムリタはエリーの言葉を拾う。
「なんで私は禁止者なのだろう?」
エリーは続ける。
普段のエリーとは異なり、やや幼く感じる。
アムリタもソニアも返答に困って黙る。
「ん?
いや悪い。
二人を困らせるつもりで言ったのではない。
恐らくはおかあさんが過去になにかやったのだろうな、と思っているんだ。
おかあさんと私は、今は一卵性双生児だから」
エリーは薄く笑いながら言う。
「アルンなら何か知っているんじゃない?
夢幻郷のこと。
彼は彼でそれなりに夢幻郷のエキスパートなのでしょうし」
ソニアはエリーに言う。
エリーはソニアを見る。
「過去、黒灰色の魔女が夢幻郷でしでかした悪事について、伝説に残っているのならアルンは知っているんじゃない?」
ソニアは明るく続ける。
アムリタも、そうね、聞いてみるのが良いかもしれないわね、と応じる。
「今日はもう疲れているでしょう?
サマサの定食屋で夕ご飯を食べましょうよ。
そしてアルンを呼び出して話を聞きましょう」
アムリタは嬉しそうに提案する。
「うん、そんなこともあろうかとアルンの部屋にマーカーを仕掛けておいた。
アルンは帰宅して、それから外出するようだ。
多分サマサの定食屋に向かう」
エリーは薄く笑いながら言う。
「まあ、急がなくちゃ。
みんな早く出かける準備をして!」
アムリタはエリーとソニアを急かすように言う。




