第三章第二話(一)ソニアの説諭
――崩壊歴六百三十四年の五月三十一日の夕刻
「私の拳も痛いのよ?」
ソニアは床に正座するアムリタに言う。
ソニアもアムリタに相対し床に正座している。
ジュニアの道具屋の二階、彼女たちの自室だ。
「ええ、ソニー。
貴女の拳の痛みが分かるわ」
アムリタは猫背になり、背筋を伸ばして座るソニアを見上げるように応える。
アムリタの右目の下に青い痣がある。
「分かってないわ!」
ソニアは両手で床を、バシン、と叩く。
アムリタは両肩を吊り上げて体を引く。
「航空機の操縦桿を無理やり奪おうとするのはハイジャック行為と言って重大な敵対行為よ?
射殺されても文句言えないのだから」
ソニアは尚も厳しい口調でアムリタに言う。
「知らなかったの、ソニー。
私が悪かったわ」
アムリタは背を丸め、下を向く。
超高層ピラミッドからの帰路、アムリタは無視界計器飛行をしているソニアから操縦桿を無理やり奪おうとした。
そして嫌がるソニアの左裏拳を右頬に受けて、キュー、と言って後ろに弾かれ、倒れたのだ。
エリーがアムリタを抱き止めたが、アムリタは失神したままカルザスに到着した。
駐機場でソニアに叩き起こされ、連行されて今に至る。
エリーは用事があると言い、ジュニアの道具屋には未だ帰ってきていない。
「アムリタ、貴女、親御さんから殴られたことはある?」
ソニアはアムリタに問う。
「いいえ、無いわ」
「そう。
凄く忍耐力の有る親御さんね。
羨ましいわ。
私はマリアに殴られ、蹴られて育った」
ソニアは腕組みをし、アムリタのやや上を見ながら不幸な生い立ちを告白する。
「そ、それはお気の毒に……。
でもおとうさまの眼球を抉り出したり、ご両親に戴いた体に穴を開けたりすると、さすがに蹴られても仕方がないかなー、なんて――」
――バシン!
アムリタ素直な感想を述べようとしたとき、ソニアは両掌で床を叩き、アムリタを剣のある眼で睨みつける。
「な、何でもないわ……」
アムリタは怯えた目でソニアの顔を見る。
「私は子供ができたら決して殴るまいと考えていたの。
あんな思いを自分の子供にさせるものかと」
「そ、そうなんだ。
良い心がけよ、ソニー。
ところでジュニアもマリアに折檻されて育ったの?」
アムリタは恐るおそる訊く。
ソニアの顔から表情が消える。
「……ジュニアがマリアに殴られているのは見たこと無いわね」
ソニアは忌々しそうに応える。
「ええ?
なんでソニーだけが折檻されて育ったの?」
アムリタは重ねて訊く。
一瞬ソニアの顔が歪む。
バシン! ソニアは両掌で床を叩く。
「――!
折檻されて育った子供は、自分の子供に折檻することを厭わなくなると言うわ。
私はそんな親にはなりたくないの」
ソニアはアムリタの質問を無視し、話を続ける。
アムリタは黙る。
「子供の教育に折檻を使ってもなんら良いことは無いと思うから。
暴力は暴力を生み、不幸の連鎖となる。
私で負の連鎖を断ち切らなければならない。
だから私は子供ができたら決して殴るまいと考えていた……」
ソニアはそう言い、空中を睨む。
暫し時間が流れる。
「だから、私の心も痛いのよ?」
ソニアは言う。
アムリタはますます背を丸め、俯く。
ソニアは更に暫しの時間空中を睨む。
ソニアは立ち上がる。
「貴女には座学が必要だと思うな」
ソニアはアムリタを見下ろして言う。
「ざ、座学?」
アムリタは正座を崩さず、猫背でソニアを見上げ問い返す。
「ある瞬間を生き残ることに関しては、貴女の持つ能力は大したものだと思うよ。
バギーの操縦しかり、重機しかり。
でも、機械を恒常的に維持し、性能を保つのには、貴女の運転は失格ね。
あの後、バギーのメンテにどれだけお金がかかったか分かっていないでしょう?
重機の修理にだって相当お金と時間がかかるのよ?」
ソニアは立ったままアムリタに言う。
「ごめんなさい、そこまで気が付かなかったわ」
アムリタは小声で謝罪する。
「本来、バギーや重機はそれほど速度を出すものでは無いから未だ良いのだけれど……、飛空機ともなると周囲に与える影響の大きさが桁違いになるわ。
民家に落ちると死ぬのは私たちだけでは無いのよ?
市場に落ちると大惨事よ?
貴女が激しい操縦で摩耗させた機体を次の人が気付かずに飛ばしたら、死ぬのは貴女じゃなくて次の人よ?
「機械は想定された使い方、摩耗の仕方、メンテナンスの仕方があるの。
それを知らないで限界を極めるのは機械の寿命を縮めるだけでなく、突然の事故を誘発するわ。
多分、貴女はそれでも貴女の能力によって死にはしない。
犠牲になるのは貴女が乗っていないときの誰かよ」
ソニアは立ったまま、アムリタに語りかける。
アムリタは、全く仰るとおりです、私が間違っていました、と頭を垂れる。
「だから貴女には座学が必要なのよ」
ソニアは中腰になり、両の掌をアムリタの両肩にのせ、アムリタの目を見て言う。
「分かったわ、ソニー。
で、座学って何をすれば良いのかしら」
アムリタはソニアを見上げ問う。
「立って」
ソニアはアムリタを立たせる。
そしてテーブルに積み上げられた本を指差す。
「バギーの運転教本、操縦マニュアル、安全運転指南書、メンテナンスマニュアル、その他色々。
これらを読んで頭に入れるのよ」
ソニアは本をビシバシと叩きながら言う。
「相当な量ね」
アムリタは本の物量に怯む。
「これを読み終わるまで、バギーの運転は禁止ね」
ソニアは冷たく言い放つ。
試験するからね、と付け加える。
「え?
えぇ?
……はい分かりました」
アムリタは悄気ながらも素直に返事をする。
ソニアは、その応えに満足したのか、言葉を続ける。
「それと、こっちは飛空機の操縦教本、機体のマニュアル、機体整備教本、航空力学、構造、材料、燃料各種の教本、緊急時行動指針、サバイバル教本、アクシデントケーススタディ、その他諸々」
ソニアは床に置いてあった本の山をテーブルの上に積み上げる。
「どのような操作がどのような結果を引き起こすか……、そんな事は命を張って調べるべきことではないのよ。
まずは座学で先人に学べば良い。
試行錯誤で機体を痛めて学ぶより遥かに早く経済的よ。
「もちろん座学だけで飛空機が飛ばせるようになるわけではないわ。
飛空機の操縦は熟練した教官が添乗して実機練習するとより安全に練度を上げることができる。
「その先も有る。
敵機との空中戦を想定すれば、機体や搭乗員の耐久度限界ギリギリの操縦が必要になるかもしれない。
それに備えて、ある程度機体を損なうことを覚悟しての練習も必要になる。
「でもね、やはり前提としての基礎はどんな場合でも必要なのよ。
ソニアはそこまで言い、アムリタを見る。
アムリタは、そうね、勉強が必要ね、とやや俯きながらソニアを上目遣いで見て応える。
「これをすべて頭に叩き込んだら、飛空機の操縦練習を始めるよ」
ソニアは口調を変えず言う。
そして、私が教えるから、と付け加える。
「まぁ、ソニー、ありがとう。
貴女は女神のように心が広いのね」
アムリタはソニアを抱きしめる。
「アクロバット飛行を極めるのは、せめて飛行時間が二百を超えてからにしてね」
ソニアはアムリタが抱きしめるままに任せて付け加える。
アムリタは、もちろん基本を習得してから次の事を考えるわ、と応じる。
階下で、カラン、という音がする。
店のドアが開く音だ。
「エリーが帰ってきたみたいね」
アムリタは、ソニアを離し、階段を降りる。
ソニアもそれに続く。




