始まりの終わりの後の始まり
柔らかくて温かい。
気持ちいい。なんて気持ちいいんだ。
適温の風呂に入っているかのようだった。
俺はまどろんでいる。
現状はよくわからないが、身体が蕩けそうなくらいに、気持ちがいい。
触覚は機能しているのに、自分の身体は思うように動かない。
いや、自分の意思がまともに機能していないのだ。
でもこのままでいいや。
だって気持ちいいし。
「んっ……」
甘い吐息がどこからから漏れた。
それが何なのか、自分ではわからない。
わからないが本能が勝手に身体を動かした。
「……っ、はぁ……」
耳にくすぐったさが生まれる。
手にはむにゅっとした感触が伝わる。
なんて柔らかさだろうか。
そしてほんのりと温かい。
ずっと触っていたいような衝動に駆られる。
「あっ……ルゥ……」
声が聞こえた。
しかし、俺の頭はまだ働かない。
それどころか両手を動かし、この気持ちいい何かをまさぐってしまう。
細いのに、適度な弾力がする。
触り心地がいいとはよく言うが、これはそんな表現を超えている。
一生触っていられる、そう断言できるほどだ。
「……んんっ」
掠れている声。
切ない声。
何かを乞うような声。
それが耳朶を震わせる。
体温が伝わる。
俺はそれを思わず抱きしめ――ん?
抱きしめ?
「はっ!?」
俺は瞬間的に目を開けた。
視界に入ってきたのは、エメラルドの顔。
瞼を閉じ、上気した頬が見えた。
切なそうな表情で、ほんの僅かに震えている。
そして緩慢に瞼を開き、俺を見上げた。
「…………いいよ」
何が、だろうか。
俺の頭は混乱している。
混濁した意識の中で、俺の感覚は、一点に集中していた。
手である。
俺は自分の手を見下ろした。
それが伸びている先にはエメラルドの身体があった。
はっきり言おう。
エメラルドの服の中に、手を入れていた。
服の上からではなく、中にである。
「ご、ごめっ!?」
俺は思わず、手を引く。
寝ぼけていたとはいえ、なんてことをしたのだろうか。
俺は女の子の身体に直接触れてしまったのだ。
精霊だけど。
しかし、感触は間違いなく、人のものだった。
以前、抱き合った時も思ったけど、人と遜色ない。
むしろ同じだ。
だから、精霊だとか人間だとか、そんなことは今はどうでもよくて。
目の前にいる、女の子が恥ずかしそうに唇を引き絞って、潤んだ瞳で俺を見ている。
縋るような、何かを求めるような視線を俺に向けている。
鼓動が早くなる中、俺は必死に現状を把握しようとした。
というかようやく、俺はエメラルドから距離をとろうと、後ろに下がった。
瞬間、ベッドから落下してしまう。
「いつっ!」
情けなくも、床に叩きつけられる。
しかしその痛みが、寝ぼけていた意識を覚醒させてくれた。
ここは宿の一室。
俺達は同じ部屋で、別のベッドで寝ていたはずだ。
俺は立ち上がり、俺の寝ていたベッドを見下ろす。
エメラルドは緩慢に上半身を起こして、俺を見つめている。
俺のベッドの上で。
「おい、エメラルド」
「なあに、ルゥ。続き……する?」
「し、しない! いいか? 昨日言っただろ? 別々のベッドで寝ようって」
そうなのだ。
最初はエメラルドとは別の部屋に寝ようと思った。
しかしそれではかなりお金がかかるし、エメラルドもそれは嫌だと駄々をこねた。
結果、俺達は一緒の部屋で寝ることになったのだ。
しかし、同じベッドで寝るのだけは拒否した。
エメラルドは一緒に寝たがったのだが、俺は抵抗した。
エメラルドのことは嫌いじゃないし、可愛いと思う。
でも、同衾するかどうかは別問題。
そういうのはきちんと好きだと把握して、責任をとると覚悟を持ってからするべきだ。
ということで、別々で寝たのだが。
朝起きたら、エメラルドが俺のベッドに入ってきていた。
「一緒に寝たかった。ルゥは嫌だった?」
「嫌じゃないけどさ……昨日、約束しただろ?」
「してない。ルゥが言ったことを、とりあえずは受け入れただけ。
でも、あたしはやっぱり一緒に寝たかった。だから寝た」
エメラルドは自分の考えを曲げることを良しとしない。
説得すれば理解はしてくれるが、譲れない部分は譲らない。
俺の望みに従うことはあるが、それはすべてではない。
少なくとも、一緒に寝ること自体は、俺は嫌じゃない。
それをエメラルドは感じ取ったのかもしれない。
いや、しかし、これはまずい。
精霊だし、そういうことを知らないのではないかと思ったけど、違う。
知ってるぞ、こいつは。
ほんのり頬を赤くして、ちらちらこちらを見ているその仕草は、完全に知っている。
このままでは俺の貞操が危ない。
「とにかく、今後、一緒に寝るのなし! ダメ! 絶対ダメだぞ!」
「どうして?」
「どうしても!」
俺も男だ。
我慢にも限界がある。
衝動的に襲ってしまうかもしれない。
そうはなりなくはない。
据え膳くわぬは何とやらというが、俺には無責任な男の言い訳にしか思えない。
身体を重ねるならば、やはり覚悟が必要だし、理解をすべきだ。
何も考えず、ただ欲望に身を任せるなんて、ただの獣だ。
俺はきちんと考え、受け入れた上でそうしたいと思う。
だからダメ。絶対にダメ!
エメラルドは、俺の言葉を受けて、不機嫌そうに視線を逸らした。
「……けちんぼ」
「何とでも言ってくれ。ダメなものはダメなの!」
「むぅ、ルゥのけちけちけちんぼ!」
表情の変化は乏しいが、明らかに不満そうだ。
その横顔は愛らしいが、内心は不満で一杯だろう。
これから一緒に行動するならば、一線は守らなければならない。
少なくとも今は。
それからしばらくはすったもんだがあったが、結局エメラルドが折れてくれた。
俺が必死に説得したからだろう。
仕方ないと言ったエメラルドの顔は明らかに仕方ないとは思っていなかった。
やれやれと呆れていると突如として思考が顔を出す。
あれ?
なんだ。
この光景、前に見たことがあるような気が。
気のせいか?
……中二病じゃあるまいし。
どうやらただの勘違いのようだ。
俺は気にせず身支度を整え始めた。
……あれ?
視界が。
揺らいで。
「ルゥはけちんぼ! 本当にせこい!」
ぷりぷりと怒っているエメラルドは俺をじっと見つめる。
俺は膝を折り、地面に倒れ込む。
しかしエメラルドは俺の様子に気づいていないように、反応しない。
俺を見ているのに。
俺の異常を察知していない。
頭が重い。
どうなってるんだ。
なんだこれ。
黒い。視界が黒く塗りつぶされる。
◆◇◆◇
暗い。感覚がない世界で、俺の意識はまどろんでいる。
心地よさを感じ、この時間が永遠に続けばいいとさえ思う。
しかし突然、何かの刺激が生まれる。
俺の身体を誰かが揺すっている。
気づいていながらも、俺は意識を深く暗い海の中へ沈めたまま。
放っておいてくれ。
俺の願いを知らない何者かは俺の身体を強引に揺すった。
眠い。起こさないで欲しい。
ああ、だめだ。
起きてしまう。これ以上は寝ていられない。
俺は不快感と僅かな怒りを抱きながら意識を覚醒させた。
「お兄ちゃん!」
バッと目を開けると、真っ白な天井が目に入った。
白い。木目ではなく、壁紙が。
横を見ると、俺を見下ろす誰かが立っていた。
「お兄ちゃん! 遅刻するよ!」
腕を組んで呆れような顔をしている。
「……凛花?」
「そうだよ。お兄ちゃんの妹の凛花だよ。まだ寝ぼけてるの?」
それは確かに、俺の妹の凛花だった。
見慣れた妹の顔を見ていると、徐々に頭が働き始める。
「ど、どうなってんだ?! い、異世界は? 魔王は!? エメラルドは!?
仲間達は一体どうなって」
「あーもー! お兄ちゃん、何言ってるの? 変な夢でも見たの?」
妹は高校の制服を着ている。
その事実にようやく気付き、俺は部屋を見渡した。
自室だ。
現代の、地球の、日本の部屋。
現代にしかありえない素材や道具や家具が次々に視界に入ってくる。
どういうことだ?
俺は確か、エメラルドを仲間にしたはず。
その後、街に戻ろうとして……。
あれ? その後の記憶が曖昧だ。
いや、その後に記憶があることはわかる。
断片的だが。
ただ不鮮明なだけで、ノイズがかかった光景が浮かんでは消える。
あれは夢?
まさか。あんなにリアルな夢があるものか。
あれはたしかに現実だった。
現実だったのに、現実じゃなくなったのか?
「ほら、起きてよ。遅刻するよ」
高校生になったというのに、まだ幼い顔と髪形をしている妹。
確かに俺の妹だ。
性格も見た目もまったく同じ。
ということはやはりここは日本で間違いないのか。
俺は連綿と浮かぶ疑問を払しょくできずにいたが、妹にせかされて仕方なく制服に着替えた。
先に階下に降りた妹を追い、リビングに向かう。
すでに朝食は用意されていた。
父さんと母さんがいつものように、いつもの位置で食事を始めようとしている。
俺は戸惑いながらも食事を終えると、凛花と共に家を出た。
見慣れた光景。
なんだ。
どうなってるんだ?
俺はいつの間にか日本に帰ってきたのか。
記憶が曖昧だ。
何が何だがわからない。
「もう! お兄ちゃん、何してるの! 行こっ!」
凛花に手を引っ張られ、俺は学校へ向かおうとした。
と。
「累君。待ってよぉ」
後方から追いかけてきたのは幼馴染の真美だ。
おっとりとしている性格そのままを容姿に反映させているような感じだ。
たれ目で、スタイルがよく、若干ふくよか。
いつも俺の後ろを歩いていた記憶ばかりだ。
彼女は毎日俺と妹を迎えに来てくれる。
俺達が先に出発して、後から追いかけてくることが多いけど。
「もう! 真美ちゃん遅いよっ!」
「はうっ! ご、ごめんねぇ、リンちゃん」
凛花と真美は仲がいい。
凛花の方が年下だし、幼い部分もあるが、真美の方が怒られることが多い。
まあ、仲がいいのなら別に口出しすることはないだろう。
二人を連れて、俺は学校へと向かった。
◆◇◆◇
教室に着くと、見飽きた顔が俺に向けられた。
「よう」
「……おう」
親友兼悪友の新だ。
幼稚園から高校まで学校だけでなくクラスまで一緒という腐れ縁。
なぜか妙に女の子の情報に詳しい。
悪い奴ではないが、女子にはだらしない。
俺は自分の席に座る。
長期間経過していても、自分の席というのは覚えているものらしい。
朝に比べて冷静になっているというのも理由だろう。
原因はわからないが、俺は日本に戻ってきた。
それは間違いない。
だが、周りの反応からどうやら、俺がいなかった時期はなかったことになっているらしい。
「毎日毎日おまえはうらやましいね。可愛い妹と幼馴染と登校するなんてさ」
「別に、ありがたいもんじゃないけどな」
「ありがたいもんなんだよ! おまえは恵まれていることに気づけ!」
「……泣きながら言うなよ」
今ならこの悪友の言葉が少しは分かる。
俺の頭にはテンプレの情報が入っている。
どうやらラブコメの主人公的な環境に酷似しているようだ。
まあ、だからといってありがたいとは思えないが。
親友と他愛無い話をつづけながら、俺はふと気づいた。
なんでこんな簡単に状況がわかることに気づかなかったのか。
俺はスマホを取り出すと、日時を確かめた。
そして言葉を失う。
「……嘘だろ」
デジタル時計が示す日時は、間違いなく俺が異世界に転移した日だった。
一気に全身に鳥肌が立つ。
これが事実なら、俺は単純に日本に帰ってきたわけじゃない。
転移したこと自体がなかったことになっている。
どういうことだ。
本当にわからない。
だが、今日が本当に転移した日なのであれば、間違いなく起きることがある。
俺は始業時間をじっと待った。
やがてチャイムが鳴り、正面の扉から先生が入ってくる。
その後ろに……いた、転校生が。
間違いない。
今日はあの日だ。
俺が転移した日、転校生がいた。
目の前にいる女子は間違いなく、その転校生だった。
これで決まりだ。
俺は『転移した日に戻った』のだ。
なぜ、どうして、何があったのか。
疑問は尽きない。
だが間違いなく、俺は過去を遡った。
異世界での経験や出来事はすべてなくなったのか。
クラス中で可愛い転校生に質問をする中、俺はそんなことを考えていた。
◆◇◆◇
俺は女の子達の勧誘や一緒に帰ろうという誘いをすべて断り、一人で下校していた。
一人で下校することは珍しい。
満たされた日々だった記憶はある。
だが、誰か一緒にいることが多く、それが煩わしく感じることもあった。
そして今日、この日、俺は一人の時間に充足感を抱いていた。
その後、何が起こったのか。
記憶は鮮明だった。
このまま帰れば、間違いなく起こることがある。
俺の目の前で女の子がひかれそうになるはずだ。
それがわかっていながら、俺はゆっくりと道を歩いていた。
なぜならば、あの出来事がなければ、俺は異世界に転移しなかったからだ。
つまり、女の子を助けなければ俺は日本での生活を続けられた。
異世界で様々な出会いをすることも、苦労することも、日本のみんなと別れることもなかった。
俺は岐路に立たされている。
以前は、反射的に動き、選択肢などなかった。
でも今の俺には僅かに時間がある。
このまま少し足を止めるか、道草を食うか、別の道を行けば。
俺は異世界に行くことはない。
だがあの女の子は死んでしまうだろう。
では先んじて女の子を助ければいい。
そう、つまり俺には二つの選択肢がある。
ここから走って女の子がひかれないように、先に対策を講じる。
それか普通に歩き、女の子がひかれる瞬間に遭遇し助け、死んで、異世界へ転移する。
どちらにしても女の子は助かる。
だが俺は死ぬか生きるかの選択を迫られている。
正直、迷っていた。
日本での生活に不満はない。
このままの人生を過ごしても、きっとそれなりに幸福な時間を過ごせるだろう。
だが、異世界で出会った人達、異世界の人達をすべて見捨てることになる。
リザは俺が魔王を倒さなければ、あちらの世界は必ず滅ぶと言っていた。
俺が転移しなければ、別の人間が転移するという可能性はある。
だがリザの口ぶりからすればその可能性は低いように思える。
俺は選ばなければならない。
日本のみんなか、異世界のみんなを。
マールさん、アメリアさん、レミさん、クラウス、トマリ、ガストさん、エメラルド。
出会っていない人達、関わりがなくも同じ世界に生きている人達をすべて見捨てることになる。
異世界へ行けば、日本のみんなとはもう会えない。
みんな悲しむだろう。もしかしたら妹の凛花は立ち直れないかもしれない。
それほどに愛情を感じてる。これは自信過剰ではないと思う。
何をしても、誰かが犠牲になる。
でも俺は選ばなければならない。
遠目で件の交差点が見えた。
奥の道で、小さい女の子が一人できょろきょろと辺りを見回している。
横断歩道を渡ろうとしていることは明白だった。
信号は青。渡っても問題ない。
女の子が渡ろうとした時、エンジン音が聞こえた。
同じだ。
あの時と。
だというのに、俺はまだ決断できていない。
今ならば早い内に女の子を助けられる。
俺が死ぬこともない。
だが、俺の足は動かない。
みんなの顔が浮かぶ。
日本のみんな。
異世界のみんな。
交互に浮かんでは俺の決断を迷わせる。
時間がない。
不意に映像が浮かんだ。
エメラルドと共に街に戻った後、様々な経験を得て、新たに仲間になった奴らと共に、俺は魔王と対峙していた。
一気に記憶の波が押し寄せる。
そうだ。
思い出した。
エメラルドとの出会いから数年。
成長した俺達は魔王に戦いを挑んだ。
勝てると思っていた。
だが……負けたのだ。
仲間達が死んでいく中、俺だけが生き残った。
そして。
最後の手段として俺はテンプレーションを使い、世界を『夢落ち』にしたのだ。
俺の歩んだ時間はすべてなかったことになり、やり直すことになった。
だから俺は夢から目を覚ました。
異世界転移するその日に。
そうだ。
思い出した。
その時の俺が考えていたことも。
そして俺は。
決断した。
迷うことなんてないじゃないか。
俺は地面を蹴った。
女の子は車に気づかない。
車も女の子に気づかない。
俺だけが気づいている。
走った。
必死で、すべての迷いを振り切るように。
車が迫る。
女の子が車に気づき、悲鳴を上げようとする。
もう間に合わない。
そう思える瞬間に俺は女の子に飛びついた。
◆◇◆◇
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そこは白い世界だった。
見たことがある場所。
生命の息吹を感じない、現世とは異なる世界。
俺はそこに立ち、ただ漫然とすべてを受け入れた。
やはり戻ってきたのか。
「戻ってきた?」
背後から聞こえる声に振り向く。
リザ。
異世界の神である少女は、変わらない姿でそこに立っていた。
「どういうこと。あんた……一体……」
神であるリザが戸惑いを覚えている。
どうやら俺の力に関して、リザ自身も把握していない様子だった。
俺はまっすぐリザを見据え言った。
「魔王を倒す。だから力をくれ」
驚きのままにリザは目を見開いていた。
しかし、やがて頷くと俺に手を伸ばした。
また同じ時間を過ごすことになろうとも、俺は決めたのだ。
仲間のためにも、出会った人達のためにも、異世界の人達のためにも。
魔王を倒すと。
俺に迷いはなかった。
身体に注がれる力の奔流を感じつつ、俺の胸中には強い意志だけが灯っていた。