限界に到達したその先には
洞窟を進むと、徐々に薄暗くなる。
だが、エメラルドの力のおかげか、視界はある程度は確保できており、明るい。
更に奥へ。
上下に触手の根元が蠢いている。
しかし先端に力を加えているせいか、根元部分は思ったより暴れていない。
今の内に本体を叩く。
『いた』
洞窟を曲がるとすぐに広い空間ができる。
そこには巨大な魔物がいた。
周囲は明滅する鉱石が無数にあった。
部分的に壁が光を放っている姿は幻想的だったが、魔物を照らす光源でもあった。
奴は、俺に気づいていない。
水面の音には敏感なのに、ここまで近づいても気づかないとは。
触手を解くのに夢中らしい。
知能が低いという点は助かった。
『時間がない。戦うにしても二分程度が限界。
それ以上戦うと、途中であたしの力が切れる』
自分で息を止めることを考えても、時間の余裕はあまりない。
できればエメラルドの言うとおり、二分以内で決着をつけたい。
魔物や魔王に殺されるでもなく、溺死するなんてごめんだ。
俺は間隔をあまり置かず、壁の陰から飛び出た。
クラーケンは全長十メートルはあった。
目や口がどこにあるのかわからない。
クラーケンには六つの触手があった。
二つの触手は短く、五メートル程度しかない。
多分、近場の敵を倒すためのものだろう。
しかしクラーケンはまだ俺に気づかない。
目が悪いのか?
ならば、このまま。
そう思い、即座にクラーケンに近づく。
と。
『動いた!』
奴まで五メートルというところで、短い触手が俺に向かってうねる。
気づかれた。
だが、距離はかなり近い。
このまま、本体を攻撃する。
俺は刀を抜き、切っ先を正面へ伸ばす。
そのままバタ足で泳ぎ、急所であるだろう、眉間辺りを目指した。
かなりの速度だ。
だが、触手の動きの方がもっと早かった。
刀が触れる前に、触手が俺の眼前に到達。
俺は身をよじり、何とか触手の攻撃を避ける。
打撃の軌道を避けると同時に、後方へと一回転しながら体勢を整えた。
今までの触手と違い、速度が尋常ではない。
しかも機動力も高く、安易に近づけばやられる。
掴まれたら終わりだろう。
さてどうするか。
『一分経過した!』
エメラルドの声音に焦りが滲む。
無感情な彼女がここまで切迫した声を出すとは、かなり危険な状態らしい。
わかってる。
早く倒さないと俺は死ぬだろう。
そう考えた時。
俺は高揚した。
死ぬか生きるかの瀬戸際。
日本では味わえない感覚だ。
平穏で、慎ましやかな生活も悪くない。
俺は平均的で普通の人間だ。
普通に生きることに抵抗はないし、つまらないとも思わない。
だけど。
こういう状況も悪くはない。
身を守るため、何かと戦うために俺は武術を習い、剣の腕を磨いたのだから。
だがその興奮も一瞬のものだった。
冷静さを欠いてはならない。
感情を抑制し、戦いに挑む。
そうでなければ勝つための道筋を見失う。
俺をけん制していた触手が左右から俺に迫る。
速度は確かにあちらが上。
だが、動きは単調だ。
俺は寸前まで触手の動きを見て、接触の瞬間その場で横に回転した。
二本の触手が交錯し、俺の身体を素通りする。
浮かびながら回避した後、俺は水を掻き、本体へ向かった。
当然、奴の手に先回りされてしまう。
俺は瞬時に刀を振るう。
水中での刀は鈍重な動きを見せたが、それでも研鑽された腕力により、相手を切断することはできる。
触手を斬ると、妙に引っかかるような感触が腕に伝わる。
切断した。
が、触手は構わず俺へと伸びる。
『無駄! 触手は斬っても、意味ない!
斬るなら根元から斬らないと!』
それはわかってる。
だが根元まで行って斬ることができるのなら、本体に攻撃している。
回避は何とかできるが、攻撃はできない。
じり貧だ。
『二分経過! 急いで!』
エメラルドの叫びを受け、俺は思案する。
数秒だけの思考を経て、俺は一気に本体へと加速した。
一か八か。
後方から迫る触手を無視して、一直線に本体へと向かった。
本体まで三メートル。
足に何かが触れる。
もう限界だ。
本体まで二メートル。
足に触手が絡みつく――前に俺はその場で回転し急減速した。
高速状態を保っていた触手はそのまま本体にぶつかる。
だがクラーケンはびくともしない。
自滅を狙っていたわけではない。
奴に打撃はあまり有効ではないことは理解していた。
俺はその場で回転しつつ、足を延ばした。
水中にできた土の足場を蹴ったのだ。
土魔術により、強固な足場を作成した。
シールドの応用で、小さめに圧縮した土の盾は俺の体重を完全に受け止めてくれた。
急減速からの急加速により、俺の身体は奴の本体に向かう。
そのままクラーケンの眉間辺りを狙い、刀を突き刺した。
ずぶっと気色の悪い感覚が骨に伝導する。
加速と、刀の異常な切れ味のおかげで、刀身は根元まで埋まった。
『やったの!?』
やめろ。それは言うな!
そう思うが、声にはならない。
当然。
フラグが立ったテンプレ的な現実は、望まぬ結末を迎える。
と言ってもテンプレーションをしていないので、自然的なテンプレ現象と言えるだろう。
ここまで幾度もテンプレ的現象に遭遇したが、遭遇しない場合も多々あった。
例えば異世界転移、王都の邂逅、受付嬢が美人だったり、というものだ。
しかし、テンプレ的な展開が起きなかった場合もあった。
だがそれらは時として俺の能力、テンプレーションでテンプレ的現象に変更されている。
何もせずとも自然的なテンプレ展開が起りえることも確かにある。
そしてその前段階で、フラグが存在する。
スイッチとも言えるその前提的な出来事が起こるからこそ、テンプレ展開は完成する。
そして、そのテンプレ、いやフラグは現実になった。
やってなかったのだ。
奴は生きている。
奴は暴れていた。
危険なのは理解しているが、この機会を逃せば、勝機は失われる。
俺は喰らいつき、刀を何度も突き刺した。
『時間が!』
タイムリミット。
息が。
苦しい。
「ごぼっ!」
口腔から水泡が生まれて浮かび上がる。
息ができなくなった。
俺は息を止める。
ここからは俺の肺活量にかけるしかない。
と。
俺は抱き着いているエメラルドを突き放した。
『ルゥッ!』
触手が俺の身体を掴む。
奴はまだ生きている。
しつこい奴だ。
俺は触手を斬り、逃れようとしたが、二本の触手がぬるぬると俺にまとわりついた。
しかも、外で絡ませておいた触手達も洞窟内に戻ってきた。
それらが俺に迫る。
エメラルドが俺に近づこうとしたが、俺は彼女に視線を送り、近づくなと伝える。
眼光から理解したのか、怯えたようにエメラルドは動きを止める。
そして。
俺に、六本の触手が襲いかかる。
細長い、太い、早い、短い触手達が俺の眼前に迫る。
『ルゥゥゥッ!』
エメラルドの叫びが脳内に響いた。
だが俺の頭の中は。
ひどく静かだった。
明鏡止水。
静かな心音だけが聞こえる。
視界はゆっくり、何もかもが明瞭に見える。
これは能力ではない。
これは死期を悟った者の視界ではない。
これは――人間の生み出した技だ。
俺は全身を脱力したまま。
半ば無意識のまま、刀で弧を描いた。
次の瞬間、全ての触手は、切断され辺りに飛び散った。
ついでとばかりに、俺はクラーケンの眉間を二度斬った。
それがトドメになったのか、奴の動きは鈍くなり、全身の色が突然真っ白に変わった。
まだらな部分がなくなり、白色の肉塊になったクラーケンは、動かなくなる。
巨体を後方へ傾け、壁に体重を預ける。
そのまま。
奴は死んだ。
【神奈流奥義――刹那の流水】
極限の集中の中で、人は最大限の力を発揮できる。
俺にはまだ、ほんの一瞬にしか維持できないが、鋭敏になった五感はすべてを認知し、身体能力はすべてを凌駕する。
筋力は通常時の数倍。
しかし、ほんの数瞬だけの煌めきだ。
それで十分だった。
『や、やったの!?』
それはやめてくれ。実は生きていたパターンもあるから。
だが、二度目の「やったの!?」は現実に影響を与えなかったらしい。
所詮はただのフラグ。テンプレ的展開とは微妙に違う。
絶対的に現実になるわけでもない。
それでも心臓には悪いが。
「ごぼぼっ!」
息が苦しい。
こんな洞窟の奥で、時間をかなりオーバーしてしまった。
限界間近だ。
苦しくて肺が心臓が肉体が悲鳴を上げ始める。
『は、早く、地上に!』
エメラルドが俺の手を引き、洞窟の外へと誘導してくれる。
苦しさから徐々に身体が動かなくなってくる。
冗談じゃない。
こんなところで死んでたまるか!
俺は口元を手で押さえつつ、必死で足を動かした。
洞窟の外に出ると、意識が薄れていく。
このまま泳げば、一分もかからず水面に出られるはず。
これはまずいな。
途中で気絶するかもしれない。
時間切れから四分以上が経過している。
ここまで意識を保てているのが奇跡だ。
しかも身体を動かしているので余計に酸素が抜けていく。
『頑張って、あと少し!』
エメラルドが泣きそうな顔をして必死に俺の腕を引いてくれている。
ああ、なんだそんな顔もできるのか。
やっぱり精霊は人間と同じじゃないか。
轟音が響いた。
俺が緩慢に振り向くと、洞窟からは触手が這い出ていた。
二本だけ。他の触手はここまで来ていなかった。
あいつ、まだ生きてたのか。
だが動きがおかしい。
痙攣したり、ふらふらと動いたり、奴も危険な状態のようだ。
死の間際。
俺と同じってことか。
洞窟から伸びる触手から逃れるため、俺達は地上へ向かう。
エメラルドの能力が切れているので、俺の身体はひどく重い。
彼女は水中で迅速に動けるようだが、俺を引っ張ってはあまり速度を維持できていない。
触手が俺達のすぐ後ろに迫る。
最後の力を振り絞り、俺達を巻き添えするつもりか。
俺の足を触手が掴んだ。
一本、二本と腰まで巻きついた。
くそ、思った以上に力が強い。
息が、限界だ。
意識が薄れる。
『ルゥッ!』
エメラルドに触手が伸びる。
このままでは彼女まで巻き込む。
ダメだ。
それはダメだ。
彼女は関係ない。
エメラルドはただここで暮らしていただけだ。
その平穏な生活を魔族が壊した。
生きていると魔族に悪影響を及ぼすからと、こんな目に合っている。
人間は彼女を助けず、彼女の事情を知りもしない。
それなのに、命を落とすなんて。
そんなことは許せない。
意識が戻り始める。
力が戻った。
俺は刀を抜き、触手を一気に切り刻む。
今までで一番の一閃。
その剣弧は触手ごと水を斬った。
斬撃はそれだけに留まらず、後方の壁まで斬り離す。
過去、感じたことがない手ごたえ。
俺はあまりの出来事に呆気にとられたが、エメラルドに手を握られて我に返る。
そのまま、光で煌めく水面へ。
届く。
空が見える。
手を伸ばした。