意地と矜持
サロック村から少し離れた場所にその湿原はあった。
湿った草原の中に沼地や小規模の池がある。
それが点在しているため、足元に注意しなければいけない。
草は水気があり、力なく項垂れている。
踏むと水音がして、足元から不快感が込み上がってくる。
ちなみに俺は制服姿だけど革靴は歩きにくいので、ブーツに履き替えている。
もう大分慣れたが、俺を見る人は奇異の視線を送ってくることもある。
泥と植物の青臭さが鼻腔に届いて、何とも気分が悪い。
ジークを先頭に、無言で一同は進んだ。
なぜかクラウスは自信満々でどんどん進んでいる。
だが、トマリはおどおどとして、周囲を警戒していた。
何とも、不安を煽るパーティーだが、大丈夫なのだろうか。
俺は嘆息し、三人の後ろに続いた。
魔物の姿はない。
思ったより、生息数が少ないのだろうか。
見晴らしは悪くない。
木々の類があまりなく、岩場も少ないからだ。
しかし生物の姿は見えない。
と、よくよく地面を見ると、小さな虫が所々にいた。
沼地や池の中にも蠢く何かが見える。
対象はフォレストフロッグ、つまりカエルだ。
「しかし、魔物の姿が見えないな!
私としてはもっと、魔物と戦っても構わないんだがね!」
リザードマン一体に負けた男の台詞である。
俺の記憶通りならば、リザードマンはランクDの討伐依頼で出てくる。
しかもソロ用。
これ以上の言及はよそう。
しかし、なぜ貴族が冒険者になっているんだろうか。
何か事情があるのか。
「ふふ、私にかかればフォレストフロッグなんて羽虫のようなものだ!」
根拠のない自信を見せているクラウス。
隣でトマリは呆れたように、疲れたようにため息を漏らしている。
俺は思考を止めた。
これは少し、早まったかもしれないな。
まさかこういう面倒くさい状況になるとは思わなかった。
さっさと終わらせよう。
しばらく歩く。
湿原中央付近に来ると、ジークが足を止めた。
俺は辺りの気配を探る。
生き物の息吹がそこら中にあるので、気配が探りにくい。
しかし、俺は近くの沼地に視線を向けた。
「おや、どうかしたのかい? あっちに何かあるのかな?」
クラウスは不用意に、俺の視線の先へと移動した。
「おい、そっちに行くな」
「うん? どうしてだい? 特に何もないが」
俺の警告を無視して、歩きながら肩口に振り返る。
そのせいで、沼地の変化に気づいていない。
汚泥の表面に波紋が生まれ、その輪が無数に広がっている。
それがどんどん激しくなり、やがて地面が揺れた。
さざ波が生まれる。
「へ? なんだい、この音は?」
クラウスは沼地間際でようやく違和感に気づいた。
ごつごつした何かが沼地の中央から現れた。
激しい水音共に隆起したそれは、ごつごつとして、ぬめぬめとした表皮をしている。
緑と黒と白とまだら模様。
ギョロッとした目を縦横無尽に動かし、舌を伸ばしたりしている。
カエルだ。
正しくカエル。
一つだけ違うのは。
巨大だということ。
でかい。
めっちゃでかい。
三メートルくらいある。
気持ち悪い。でかいのに妙に柔らかそうな身体が嫌悪感を煽る。
目の前にいる異形の存在に、クラウスが怯えていた。
彼の背中は震えている。
それはそうだろう、こんな化け物が突然、目の前に現れたら、そうなる。
「ひ、ひぃっ!? な、なんだこの化け物はああっ!?」
クラウスは慌ててその場から飛び退いて、俺達のところまで逃げてきた。
異常なほどに俊敏だった。
「なな、なんだあれは!?」
「あ、ああ、あっ、あ、う、うそ……」
ジークとトマリも明らかに動揺している。
足がすくんで動けない様子だった。
「あれがフォレストフロッグじゃないのか?」
「ち、違う。い、いや、フォレストフロッグだとは思うけどよ、あんなでかくはねぇ!」
ふむ、ということはあれか、突然変異みたいなもんか?
確かにあまりに規格外。
でかすぎる。
俺達が逡巡していると、フォレストフロッグがぎゅっと足を折り曲げた。
おい。
冗談だろ。
俺が想像した光景は、現実になる。
フロッグが巨体を空に放ったのだ。
つまり跳んだ。
三メートル近くの体躯が虚空に。
俺達の頭上まで跳躍し、そのまま落ちてきた。
「逃げろ!」
俺が叫ぶと、ようやく全員が動き始めた。
跳ねるようにその場から逃げる面々。
同時に、フォレストフロッグが地面に落下した。
間一髪、ギリギリでフロッグのボディプレスを避けたが、水が飛び散り、身体がびしょ濡れになった。
最悪だ。上着は一つしかないのに。
そう思いつつも魔物に向き直る。
この巨躯。
どうやって戦うか。
多少の巨体でも関節があれば戦える。
しかし思いのほか動きが早い上に、唯一関節技をかけられるだろう指はかなり太い。
脚力も相当なものだろう。
不用意に近づけば蹴り殺されるかもしれない。
素手だと圧倒的に不利だな。
何か武器でも買っておくべきだったかもしれない。
今さら遅いけど。
「ち、ちくしょう! やってやる!」
あ、今のジークの台詞ちょっとやばい、フラグ立ってる。
その台詞を言ったキャラはまず間違いなく。
そう考えていたら、ジークは大剣を抜き、フロッグに立ち向かった。
が。
素早く吐き出された舌で吹き飛ばされてしまった。
ジークはかなり大柄の男。
装備も重量級だ。
それが舌を伸ばしただけで後方数メートル弾かれた。
見えるし避けられるが、かなり早いな。
しかも舌は蛇のようにうねうねと動いている。
これは、厄介だ。
ジークは地面に背中を打って、痙攣しながら起き上がる。
表情には明らかな恐怖が浮かんでいた。
まずいなこれは。
そう思った瞬間、ジークはじりじりと後退していった。
そして。
「お、俺は逃げるぜ!」
「待ちたまえ! 依頼はどうするんだ!」
「し、知るかよ! こんな化け物が出るなんて聞いてねぇ!
ま、前払い分は働いたからな! も、もう知るか!」
ジークは剣を納めながら逃げた。
それは見事に逃げた。
颯爽と、慣れた様子で逃げた。
あいつ。
見かけ倒しだったな……。
偉そうに言っていた癖に。
いや、しかし強敵を前にして、戦うよりも逃げた方が賢くもあるかもしれない。
それにみんなの反応からして、こいつは別格のフォレストフロッグ。
なら普通のフォレストフロッグを探せばいい。
わざわざ強い相手と戦う必要はない。
と俺は考えていたのだが。
「おおおっ! 私はクラウス! 冒険者のクラウスだ!
貴様、よくも我が仲間をやってくれたな!」
やられてない。逃げただけだ。
でもクラウスの中ではやられたことになったらしい。
クラウスは剣を抜き、無謀にもフォレストフロッグに立ち向かっていった。
だが、フロッグの舌で弾かれ、後方に吹き飛ぶ。
ビシャッと水をまき散らしながら地面に伏したが、諦めず立ち上がった。
「まだまだあああああああっ!」
愚直に正面から立ち向かう。
吹き飛ばされる。
立ち上がる。
また立ち向かう。
それをクラウスは続けていた。
相手に傷を与えていない。
それどころか、フロッグはクラウスをいたぶって楽しんでいるようだった。
俺は横からその様子を見守った。
まあ、素手だと何もできないしな。
腕を組んでクラウスの意味のない特攻を見守る。
そして。
隣に佇んでいるだけのトマリを一瞥した。
「おまえは逃げないのか?」
「……に、逃げたくても、逃げられません……だって旦那様の命令だから……。
クラウス様の傍にいろって、世話をしろって」
震えた声で答えるトマリ。
俺はただ漫然とクラウスの戦いを見守った。
彼は一人、無為な戦いを続けている。
俺達に何も言わず、一人で。
俺はあえて手伝わなかった。
トマリは言葉を繋げた。
「いつも、こうなんです。無謀で、絶対に勝てない相手にも、こうやって立ち向かう」
「そりゃ勇敢だ」
「勇敢? 違います。ただの蛮勇です! 弱いのに、何もできないのに!
ああやって自分は強い、勝てる、負けない、大丈夫だって思いながら無茶をして。
それで迷惑を被るのはいつも僕なんです!
いつも危険な目にあって、いつも尻拭いをして……。
あの人を、あいつを抱えて逃げたことなんて一度や二度じゃない!」
クラウスは笑いながら、まだ戦える、負けてないと叫びながらフロッグに戦いを挑んでいる。
逃げればいいのに逃げない。
逃げたジークより圧倒的に弱いクラウスが、戦っている。
わざわざ戦う必要はない。
依頼を放棄してもいいし、別の標的を探してもいい。
しかしクラウスはそうしない。
クラウスがふざけているわけではないことはわかる。
笑顔だが、目は真剣そのものだったからだ。
「わ、私は逃げないぞ! 絶対に勝つのだ! 貴様を倒す!」
体中泥だらけ、痣だらけ、もしかしたら骨も何本か折れているかもしれない。
身体を引きずり、尚もクラウスは立ち上がった。
だが無残にもフロッグの足で踏みつぶされそうになる。
間一髪逃れたが衝撃波でクラウスは吹き飛んだ。
俺達の場所まで弾かれ、地面に倒れてしまう。
「ま、まだ、まだだ……わ、私はまだ、や、やれるぞ」
そんな彼の姿を見つつ、トマリは肩を震わせた。
そして、叫んだ。
「もういい加減にしてくださいッッ!」
クラウスは立ち上がった。
震えながら、限界を超えながらも、尚も立ち上がる。
「どうして、どうして逃げないんですか、どうして、そこまで……。
いつもいつもいっつも! 僕が巻き込まれて、迷惑してるってわからないんですか!?
いい加減、気づいてくださいよ……あなたは、何もできないって!
もう、家に帰りましょう。冒険者はもういいでしょう……もう十分でしょ!
十分やった。だからもう」
クラウスが振り返ると、トマリは目を見開く。
クラウスはもう笑ってはいなかった。
まるで別人のように真顔だった。
「十分……? 何を言ってる。私はまだ……な、何もしてない」
グッと剣を握り、クラウスはフロッグに向かい、疾走した。
「あああああああああああああっ!」
気迫と共に、一閃。
だが、そんな未熟な攻撃が通じるはずもなく、フロッグの舌を受け、クラウスはまた俺達のところまで跳ねた。
「わ、たしは……ま、だ、や、やれる……ま、負けて、ない」
その言葉を最後に、クラウスは気を失った。
執念を感じた。
あまりに無謀で愚直。
しかしなぜかその行動と姿勢は、俺の心を打った。
隣でトマリは顔をしかめている。
「馬鹿です……この人は、本当に……何が、したいんですか……」
「さあな。それは俺にもわからないけど。一つだけわかったことはある。
こいつは多分、村を救いたかったんだろう」
「サロック村を……?」
「宿の店主が言ってただろ? いつもと違う奴が来たって。
多分、このデカブツのことだろ。普通じゃない見た目だしな。
クラウスは、こいつを倒して村の被害を抑えようとした、ってとこか」
クラウスは宿で村の事情を知ろうとしていたし、恐らくは間違っていない。
やり方は愚かだし、合理性に欠ける。
だが、その心情には好感を持てた。
「ふ、ふふ、そうやって無茶をして、結局、被害を大きくしてる。
何の意味もない。むしろ何もしない方がいいじゃないですか。
弱い人間は何もしない方がいい。強い人に任せればいいんです」
「弱い、ね。確かにこいつは弱いな。びっくりするくらい弱い。
だけどこいつは気づいているんだろう。自分が弱いことに。
それでも譲れない何かのために戦ってるんじゃないのか?」
「それでこんなにボロボロになって、何もできてないんじゃただの馬鹿です……!」
「同感だ。こいつは馬鹿だろうな。はっきり言って無能だ。
だけど何もしないで文句ばかりで口だけ出す奴よりは、率先して行動して、自ら傷だらけになる奴の方が、俺は好きだな」
自覚はあったのかトマリは顔を赤くした。
「あ、あなただって何もしていないじゃないですか!?」
「ああ、まだな。これからする」
「ま、まさか戦うつもりですか!? む、無理です! 勝てっこない!
あなたも勘違いしてる! あなたに声をかけたのはただ近くにいたからです!
クラウス様に仲間を見つけて来いって言われて、見つからなくて仕方なく声をかけただけ!
あなたの力量を見込んでのことじゃない!
Eランクの魔物とCランクの魔物は別格です!
勝てっこない! クラウス様と同じようになりたいんですか!?」
返答しようかと思ったが、トマリに何を言っても無駄だと思った俺は黙して返した。
俺はクラウスを一瞥して、フォレストフロッグに向き直る。
奴は俺達に興味をなくしているようだった。
クラウスがあまりに弱かったからだろうか。
知能が低くても、敵を見下すことはあるらしい。
確かに素手だと対抗は難しいだろう。
俺はクラウスの剣を持ち上げた。
「借りるぞ」
柄には少しだけ装飾が施されている。
高級品ではないだろう。貴族が持つにしては実戦向きな剣だ。
見た目を気にしているだけの人間はこんな剣を持たない。
手入れもしっかりしている。柄にはかなり握った後がある。
使い込んでいることはわかる。大事にされていることも。
そしてこの剣は業物ではない。上流貴族であればもっといい剣を買えるだろう。
だがこれは俺でも手の届く品。
つまり、恐らくこいつは自分が稼いだ金でこれを買ったのだろう。
ここまで。
ギュンター家という上流貴族でありながら『クラウスは一度もその名を名乗らなかった』のだ。
それが彼の矜持なのではないか。
俺はそう考えていた。
俺はゆっくりとフロッグに近づいた。
自分に近づく矮小な人間、魔物の考えはそんなとこだろう。
その証拠に、明らかに俺を侮っている。
ある程度、近づくまで何もしなかった。
相手との距離、二メートル程度。
そこまで近づいて、ようやくフロッグは動き出した。
瞬時に口を開き、舌を伸ばす。
その行動を読んでいた俺は、即座に身体を傾けて回避。
伸びた舌を剣で寸断した。
「は?」
それはトマリが漏らした声だった。
一瞬の静寂の中で響いた声音だったから妙に耳に響いた。
切り裂かれた舌が地面に落ちる。
フロッグが痛みに呻く。
そして怒りのままに、俺に向けて前足を振り下ろした。
俺は半歩に移動し、跳躍した。
足が地面に着弾。
同時に俺はフロッグの顔面に到達し、奴の目を突き刺した。
「ゲゲ、ゲゲェ、ゲゲコッ!」
痛みに悶えるフロッグ。
俺は剣を突き刺したまま、フロッグの頭部に乗った。
暴れるフロッグの身体の上でバランスを取り、剣に捕まった。
体重をかけてそのまま根元まで剣を刺す。
と、しばらく激しく動いていたフロッグは、次第に動かなくなった。
水しぶきを生み出しつつ、倒れたフロッグは、何度か痙攣した後、死んだ。
俺は剣を引き抜き、トマリの近くまで戻る。
「う、嘘……こ、こんな簡単に倒すなんて、あ、あなたは何者なんです?
異人はみんなそんなに強いんですか!?」
「いや、俺だけだと思うぞ」
武術を習っている人間自体少数派だしな。
俺は刀身を布でふき取り、クラウスの腰に差さっている鞘に剣を納めた。
「ど、どうして、もっと、早く倒さなかったんですか!
そうしたら、こんな風にならなかったのに!」
トマリはクラウスを見てから激昂した。
その様子を見て、俺は首をかしげる。
「おまえはクラウスを嫌っているわけじゃないんだな」
「……っ! ぼ、僕は、こ、こんな人、好きじゃないです!」
「そうかい。まあ、いいさ。ナイフあるか? ヒレ採取したら帰るぞ」
「…………はい」
トマリは不服そうにナイフを持って、恐る恐るフロッグの傍に移動した。
俺はそれを見送り、クラウスの横顔を見た。
苦しそうに、悔しそうに顔は歪んでいた。
●リンクログ
▽ログ
…50 :強そうに見えるキャラが実はへたれ
…100:うざいキャラが実は良い奴
…150:主人公は武器を簡単に扱える
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