《転機》2.災禍の魔神
その後は皆も、比較的滞りなく進み、しばらくしてからトウヤの番が回ってきた。
「では、トウヤ。やってみたまえ」
リフィにいざなわれ、式の中央にて呼吸を整える。
呼びたいモノのイメージは特にない。なれば、むしろ無心で呼ぼうと思い、少しの瞑想を経て、トウヤは詠い出す。刀の刃の如き白銀の魔力が式を彩り、式に描かれた紋様が次々と充填されていく。
予定調和の魔術進行にも、トウヤの無心は崩されず、魔術は直に終盤。
無心の最中で、自らの呼吸と心音が響く。
神無の血が目を覚ます。
今までのように急激な発現はなく、白銀の魔力が少しずつ変質する。
段々と無色に近付く経過、それは突如として混じりこんだ。
真紅の焔。
無色透明だった魔力が、紅く染まる。
視界一面を覆う紅を前にトウヤの無心が一瞬崩れ、魔術が一気に収束する。
魔術式に顕れたのは、紅く紅い魔神。
一番に目立つのは、左の頬から首、肩まで拡がる焔の入れ墨。
紅い布地を山吹の帯で着物のように留め、両の腕には蒼の覆い。黒のニーハイはガーターベルトにて留められている。頭には金色の尖り耳が立ち、腰のあたりには同じ色のふさふさが九つ、布地の端を持ち上げて揺れていた。端正な顔立ち、その吊り目気味な紅い瞳はつまらなそうに周囲を見やり、そして召喚者であるトウヤを見定めた。
「お主が妾を呼んだ魔術師か?」
魔神の目線はトウヤをまっすぐに射抜く。
思わず竦んでしまいそうな瞳に、トウヤはしかし怯む事なく答えた。
「俺が呼びかけました」
ひしひしと感じる格の違いが、自然とトウヤの居振る舞いを正させる。
魔神はトウヤをじぃと見つめ、そしてこう言った。
「面白い。妾に直接声をかける者はまま在れど、無欲無心の者は久しく無かった」
カカ、と豪快に笑うと、魔神はトウヤに名乗りを上げる。
「妾の祀名は天廻綾津日神。名を陽炎と言う。災禍の魔神と謳われしこの身を呼び寄せたお主は、既に妾が災いの加護を得た。此れよりは妾を名で呼ぶ贅を許す。縁の証にお主の名を預けよ」
黒髪金毛の魔神、その蠱惑的な笑みに魅入られて、トウヤは自身の名を告げる。
「近衛、トウヤ」
その名乗りに、魔神・陽炎は一瞬眉を吊り上げたが、すぐに表情を元に戻し、言う。
「まぁ良い。今はその名を預かろう」
そしてリフィの方に目線をやり、推何する。
「そこのお主は何か言いたげじゃの。言うてみるが良い」
魔神に問われ、事態を見守っていたリフィはややあって口を開く。
「天廻綾津日神よ、貴女は大いなる魔神の一柱にあらせられる。それが何故このような学院へ?ただ私の生徒からの呼び掛けに答えただけでは無いのでしょう?」
リフィが頭を垂れる程の強大な魔神は、リフィの言葉にイタズラっぽく笑い返した。
「そうじゃのう…災いの気配につられた気紛れ、とでも言っておこうかの」
言って、トウヤとリフィ、それから教室の隅にいたアズへと視線を流す。
「ふむ…粒揃いではあるが、まだまだヒヨッコばかりじゃな。お主と、そこのお主からは中々濃い気配がするのう。特別にお主らにも名を呼ぶ贅を許す」
そう言うが早いか、陽炎の姿が一瞬にして消え去った。
「お主では、まだ妾の足元にも届かぬよ」
刹那の間に肉薄した陽炎に詰め寄られ、アズは背を壁に押し付けられていたのだ。
陽炎の言葉はアズの耳元で囁かれ、その首筋には紅く伸びた爪が添えられている。アズの右手には蒼電が纏わりつき解放を待ちわびている事から、陽炎に奇襲を企てたのだろう。しかし、陽炎の言うとおり、アズの実力では陽炎に触れることさえ叶わないらしい。
「アズュール。貴様を倒す者の名だ。覚えておけ」
アズの精いっぱいの強がりに、陽炎は再びカカと笑った。
「良いぞ。お主の名前、しかと記憶した。お主に加護はやれぬが、相手をしてやる。いつでも妾を呼ぶが良い」
そう告げると、サッと身を翻してトウヤの前に再び戻ってくる陽炎。
改めて見ると、背丈はトウヤと同じくらいで、漂う雰囲気は愛らしさと獰猛さとが共存している。奇妙だが魅力的であり、恐ろしくもある。何より、その真紅の瞳は吸い込まれそうな深さがあるような気がした。
その瞬間、心臓がドクリと脈打ち、泥を吐き出す。
トウヤはそんな陽炎の事を、欲しいと、思った。
「妾が欲しいか?」
その音を聞いたかのように、心の声を聞いたかのように、狙い澄ました言葉を紡いだ陽炎は、口元を妖艶に歪めた。
「妾が欲しければ、強くなれ。お主のその血の力で奪ってみせよ」
そう告げると、陽炎は胸の前で手を合わせる。手の平から炎が上がり、ゆっくりと距離を空けると、手の平から一振りの刀が現れていた。
「銘は“紅山茶花”。妾との縁の証に此を持つが良い」
真紅の鞘に金の山茶花の意匠。握り手は朱色の拵え、刃は90センチ程で、今使っている刀とほとんど変わらない。トウヤがその刀を受け取ると、内に籠められた魔力を感じ、熱波とともに巨大な金毛九尾の獣を幻視した。
「それこそ妾の真の姿。刀に念じれば、それは妾に届く。必要になったら呼ぶが良い」
ではまた逢おう。
そんな言葉を残して、魔神・陽炎は焔となって消えた。
後には過度な緊張感から脱した安堵と、静けさだけが残される。
演習場から聞こえる戦闘音だけが、日常が帰ってきた事を告げていた。
この陽炎召喚事件は学院教師たちを大いに悩ませる魔神関連の出来事の発端に過ぎなかったのだが、今はその事を誰も知る由もなかった。
そして、もちろん近衛トウヤにとっても、この出来事はその後の多くに関わる重要な出来事だった。
金毛九尾の魔神。
災禍を司るケモノ。
天廻綾津日神・陽炎は、災禍の化身である。
関わる者に例外なく変化と災いをもたらす嵐。
それは乗り切れば至高にまで昇れるが、乗り越えた者の居ない試練とも称される。破滅の加護とさえ呼ばれる災神の気紛れを受けたトウヤは、確実に今までの道から外れ、新たな運命を手にした。
それが茨の道なのかどうかは、まだ誰にも解らなかった。
そして、災禍の加護を得る運命の者は、近衛トウヤだけではない。
同時刻、演習場にて魔術戦闘を行うヴェルザンディクラスの中に、誰にも知れず運命が変わった者がいたのだ。陽炎の出現により歯車のズレた召喚魔術式は、もう一人の選ばれし者を待ち始めていた。




