《黄金の芽》2.侵入者
魔術学院、中央校舎。
「失礼しました」
そう言って、少女は部屋から退室する。廊下に通じる扉の上部、そこには『教諭室』と書かれたプレートがかけられている。その文字は、どこの世界にも属さない学院独自の文字で書かれており、その不思議な、薄ぼんやりと発光するその文字群は、見た者の意識にその意味の単語を引き出させ、ちゃんと場所を示すプレートとしての役割をまっとうさせていた。そして、その『教諭室』から出てきた少女は、彼女の担任に頼まれた用事を済ませたところだった。
腰まで伸ばされた黒髪を揺らし、少女は教諭室の扉を静かに閉めた。廊下には、窓の外を眺めながら、少女を待つ者がいる。
「ルビア、お待たせ」
少女が声をかけると、ぼんやりと空を見上げていた、ルビアと呼ばれた少女は振り向いた。それから声の主に微笑む。
鳶色の髪に瞳。その背中には、同じ色の翼がある。その瞳は、きっと狩人のように鋭い筈だが、少女に向ける視線はとても優しかった。
「待ってないよ、桜」
短い答えだったが、ルビアの答えには桜と呼ばれた少女を労う気持ちが含まれており、ルビアを待たせていた桜は自然と顔を綻ばせた。
「なにか見てたの?」
外を眺めていたルビアの様子に、桜は同じように外を見る。
職員室は学院の中央部分にあり、その廊下の窓からは、見上げれば立派な枝葉が影を落としている。学院最奥の巨大な樹木、世界樹と呼ばれる神秘の樹は、神話上ではトネリコの木であるとも言われるが、ここに存在する世界樹は、様々な種の特徴を併せ持つ。初めて見たときには桜はとても驚いたが、今ではその陰で過ごすのが日常となり、その風景も見慣れたものとなっていた。
「いつも通りいい天気だなぁと思って」
ルビアも何気なく眺めていただけのようだった。
「お昼食べにいこっか」
午前の授業が終わってから教諭室まで来ていたため、既に昼を少し過ぎている。桜とルビアは連れだって歩き始めた。目指すは食堂だが、きっと込み合っているだろうな、と考えつつ、二人は談笑しながら廊下を歩いていく。
昼時の廊下は人の気配がほとんど無い。学院である以上、生徒たちが食堂へ集まるこの時間帯に人がいないのは当たり前なのだが、桜は何となく、背筋が寒くなるような感覚を覚える。
(なんだろ…気のせいかな)
桜は学院の学徒であり、魔術師である。
そういった感覚は、体調不良などでなければ第六感による所が大きく、桜はすこぶる健康である。だが、桜はそれを気のせいと思い込み、そのまま二人は廊下を進む。学院では古くから染み付いた魔力などにより、時折そういった悪寒を感じる事もあるため、桜はその時さして気にもしなかった。
階段を下って一階につく頃にはそんな感覚は桜の中から消えており、やはり思い過ごしだったのだと判断した。窓の外は気持ちよさげな木漏れ日が落ちており、小鳥たちがさえずる。昼御飯は中庭でも良いねなどと話しつつ、そろそろ一階の渡り廊下に着くか着かないかくらいの所まできた。
校舎と校舎を結ぶ渡り廊下からは、そこに面する中庭に行けるようになっている。世界樹の根本に近い内殻側の中庭は、その立地上、世界樹に日光を遮られる事が多く、木漏れ日がちらほら落ちているだけの薄暗い場所だった。そこに、ふと、目線を送る。そこにはいつも通りの中庭の風景があるだけで、けれど、桜はその事に言い知れぬ不安を感じた。
見慣れぬモノが在るような、ゾクリとする感覚。
視線を巡らすも、そんなものがいる筈も無い。
なのに、桜は足を止めて、ルビアが数歩進み、立ち止まった桜に気付くまで、中庭を見続けた。
それにルビアが気付き、声をかける。
二人の耳に奇怪な音が飛び込んできたのは、そんな時だった。
キイイイイィィィィィ―――――
それはごく小さな風切り音から始まった。
桜が目線を向けていた先。中庭の澱んだ気配のする一角、金属の刃をモチーフとしたモニュメントの陰に、いつの間にか、黒い小さな孔が顕れていた。
それは徐々に大きく侵食を始め、同時に桜と目線の先を同じくしたルビアが息を呑む。
孔が拡がるとともに、風が集まる音のような、何かが徐々に高まっていくような音が、段々と高音に向かう。今や黒い孔は直径3mにも膨れ上がり、その内側には新たな変化が現れていた。
光の文字列、そして幾何学の紋様。
桜たちもよく識るモノ、魔術の発現のための術式が透けて見えているのだ。
即ち、これは学院内へ何らかの干渉をするための魔術である。
同時に、黒い孔の表面にも、赤く光る文字列と紋様が浮かび上がり、警告するように高速で回転し、明滅を繰り返している。
この黒い孔が敵対的魔術であるのは、学院内での魔術行使が演習場などを除き禁止されている事や、孔自体に別の魔術が纏わりついている事から、想像がついた。赤い魔術は学院サイドの防衛機構だろう。
魔術を秘匿すべしという考えが大多数を占めているため、このフラムベル魔術学院には、敵がとても多い。故に、学院には物理的にも、魔術的にも、世界樹を利用した強固な防衛機構が存在する。もちろん万能ではないだろうが、それでも、強大な世界樹をベースとした防衛機構を突破する魔術が並大抵のものである筈がなく、一学徒である二人に、その魔術や術者をどうこう出来る実力など無い。
辺りには、誰も居ない。
この緊急事態に、助けを求められる教師たちが近くに居ないのは、とても危険だ。二人はその事を理解しつつも、その場から動く事が出来なかった。
目前で起こる事態への極度の緊張で足がすくみ、唐突に現れた恐怖に気圧され、黒い孔から流れ出す冷たい魔力が手足を縛る感覚に囚われ。
そして僅かに。
美しく並ぶ魔術式の配列に魅了され、動く事が出来なかったのだ。
学院の魔術しか知らない、もしくは詳しくない二人から見ても、整然と並ぶ文字列と幾何学は、調和と合理の美しさを保ち、刻一刻と密度を増していった。
徐々に孔の魔術式は配列を固定していき、逆に、赤い魔術は動きが鈍く、ひび割れ、消えかかる。
これら一連の出来事は、実際には、僅か一瞬の出来事だったのだろう。
終わりは呆気なく訪れた。
赤い魔術は消え失せ、白い魔術は球体を創り、黒い孔が破片となって砕け散る。
一瞬の事だった。
息をのむ。
その術式の完成度に。
その魔術の美しさに。
目の前の危機を一瞬忘れてしまうほどの魔術式は、しかしすぐに弾けた。
黒い雪のように降る孔の欠片は、地に降りる前に消滅し、光の球体もまた拡散して消え、視界を白く染めた。視界が戻るまでの間に、鋭く冷えた空気が突風となって周囲を流れ去り、そして異常な音は消えていた。
やがて、視界が戻ってくると、中庭は暴風にさらされ、吹雪の跡のような有様だった。
地面に残る風の跡、吹き荒ぶ雪の残滓、折れた植栽の枝葉。
桜とルビアの立つ場所は距離が離れていたために無事だったらしく、孔の周囲は大きく荒れている。そして、孔の中心だった場所には、刃のモニュメントにもたれるように、一人の少年が倒れていた。
「何事だっ!?」
「さっきの音は何かね?」
音を聞きつけたのか、魔術を感知してか、ようやく教師たちが駆けつけたらしく、桜とルビアはここでようやく自分たちがとてつもない危険にさらされ、そして無事だった事を認識した。
途端、力が抜けた桜をルビアがなんとか支えた所で、教師たちが中庭に到着する。
「なんだ、これは…?」
驚愕の表情をしつつも、憔悴した桜たちを下がらせ、教師の一人が倒れる少年へゆっくりと近づく。
そして探査の魔術をかけ、生きているものの、意識は無いことを確認すると、ようやく息をついた。そのまま拘束のための魔術を少年にかけると、続いて念話の魔術を用いて呼びかける。
「第四庭園にゴーレム小隊を頼む」
警備隊ゴーレムを呼びつけ、教師は復旧と、侵入者への対応を始めた。
その最中、ルビアに支えられた桜は、今は地面に転がされた少年を見ていた。
「なんだよ、これ…」
「事故?事件?学院内で?マジ?!」
「あれっ?あれってウルズの近衛とルビウスじゃね?」
昼時の食堂付近だったため、野次馬となった学徒たちが集まってきている。
既にちょっとした人だかりになりつつあるが、ゴーレムたちが規制線を張ったために、遠巻きにしか見えていないようだったが、どちらにせよ、今の桜には、そんな雑音はほとんど耳に入ってなどいなかった。
こちらに背中を向けるように転がされた少年。
顔は見えないが、長めの黒髪に着物を着て、その上に羽織を纏っている。後ろで一つに括られた髪には、白い羽飾りの結い紐。暴風や吹雪の影響は受けておらず、その服装にほとんど汚れはついていないようで、その背中にあるものはよく見えた。
「………――――――」
正方形をベースにしたモノクロの紋章。
とある世界における財閥の象徴であり、裏では魔術大家として知られている魔術師の系譜、その家紋。
少年の羽織りには、それがしっかりと見て取れた。
***
時刻は夕方。
魔術学院城下町のとある喫茶店にて。
魔導書、文庫、ノート、辞書に埋もれた隅の席。
その隅の席を含めて常連しかいないため、マスターもその状態を見過ごすし、マスター自身も学院卒の魔術師であるために、学徒には優しい喫茶店の中。
「なぁ、そいえばあの噂、聞いたか?」
珈琲片手に読書をする二人の男がいた。そのうち太っている方が、ふと思い出して相方に話しかけると、病的な方の男は視線をあげずに答える。
「ん?どの話だ」
思い当たるものはいくつかあるものの、病的な男はなんとなく察していた。
「あれだよ、昼休みの侵入者の件」
やはりか、と痩せた男は思った。
「あぁ、アレか」
しばしの沈黙は、噂を思い出していたためだろうか。
下位クラス所属の彼らは、上位クラスの噂をよく耳にするし、積極的に情報収集する対象でもある。今回のアレ、とは、ウルズクラスの女生徒二人が、学院への侵入者を撃退したという噂の事だ。侵入者の情報自体は少ないが、桜とルビアの姿がはっきり目撃されており、学院内での魔術事件または事故という事もあり、学内での伝達は特に早かった。昼時の食堂付近で、なおかつ盛大な爆発音も伴っていたこともあり、目撃者が多すぎるのも原因だろう。
「いくら才能あるからって、侵入者撃退するとかどんだけ運に恵まれてんだ?」
学院に直接干渉するなどという蛮行は、しかし、その魔術師の力量が高い事を示している。世界樹による結界魔術が、一定以下の魔術を無効化するためだ。
今回の事も、仮に外部からの干渉だとすれば、その魔術の術者は、世界樹の根本に近い部分に、堂々と昼間から、防衛機構を撃ち破って魔術を放っている。
防衛機構による反撃、学院魔術師からの追撃を考慮すれば、ハイリスクローリターンの攻撃だと理解できる。それでも魔術事件が起きたという事は、その術者はそんな追撃などものともしない凄腕であり、学院と学徒両方への脅迫が目的だったのだろう。
そして、そんな魔術師を撃退する生徒など、もはや生徒の実力の範疇には収まらない。
噂は二人が凄い魔術師だというものと、教師が処理したというもの、そして自作自演説もあったが、今回のものは教師が処理したのだろうと、病的な男は踏んでいた。
だが、太った方が話したかった内容とは少し違ったらしく、微妙な反応を返す。
「うむ。まぁそれはそうなんだが、また違う噂が流れてるらしいぞ」
「ほぅ。どんなのだ?」
興味半分で先を促すと、太った男は忌々しげにこぼす。
「クラスのスイーツどもいわく、その侵入者は実は転校生で、近衛桜の縁者で、イケメンなんだとさ」
要約すると、かなりの実力がある魔術師で、それなりの家柄でもあり、美少女の縁者で、イケメン。
許すまじ、イケメン。言葉にでない言葉が聞こえた気がしたのは、特に最後の部分に力が入っていたからだろう。重要なところだ。
ただの怨嗟の塊になりつつある相方に、対して。
「…それなんてギャルゲ?」
魔術師になる前の、素の自分がポロリとでる。
そんな恋愛シミュレーションゲーム主人公のような出自の侵入者に、思わず忌々しげな態度をとるのも理解できるような神様の厚待遇である。
もし仮に、それが本当の転校生ならば、間違いなくそんな手段は取らない。正規の転移ポータルを申請して、そちらからやってくる筈だ。わざわざそんな事をするメリットなど無いし、むしろ退学のリスクすらある。
だが、そんな男がいるのなら。
「あー、そいつ地獄に落ちねぇかなー」
羨ましい、と思うだろう。
そして、妬ましくも。
仮に容姿がなくとも、その魔術の才を羨む者は数多く。
魔術師としても並の、クラスカースト底辺の男たちにも届くほどの噂は、それ故に、すでにほとんどの生徒に広がっているのだろう。
「ほんとそれ」
男たちの愚痴は止まらない。
こうして、侵入者の噂は静かに、遠くまで浸透していった。