64 それぞれの帰る場所
夕飯に必要なものを詰めたビニール袋を片手に商店街へと入っていく。夕飯時に近づいてきたためか、今晩のおかずを求めてやってきた家族連れでにぎわっていた。
夏休みは早くも終盤。もうすぐ9月になる。学校が再開することを嘆く者もいるが、『冴久』はこれといって焦ることも嘆くこともない。冴えない生活を続ける身にとって、通学時も休日時も然程大きな変化がないからだ。
早く涼しくなってほしいと願いながら日本特有の蒸し暑さの中を歩き続ける。時たま見知った顔と挨拶を交わしながら進み、ほどなくして目的の店へと到着した。
「ありがとうございましたー!」
「また来るわね、亜里沙ちゃん」
「はーい! またのお越しをお待ちしてますー!」
冴久が到着した直後に常連であるお婆さんが買い物袋を片手に出ていく。その後ろ姿をいつも通りの元気な声が送り出していった。
自らとは正反対な相も変わらずな明るさを振りまく亜里沙。元気そうな彼女の姿を見た冴久は無意識のうちに安堵のため息をついてしまう。変わらぬ亜里沙を見て、今が現実であると再認識できたからだ。
ポケットの中に入れた例の物が露見せぬよう注意しつつ、少々込み気味な店内へと入っていく。ここへやってきた目的はもちろん野菜類の購入。便利なスーパーで買ってもいいが、やはりここでなければ駄目だと母から念押しされているし、何より冴久も『倉橋』へと行きたいという思いがあった。
お客さんが多いためか、亜里沙は母である『葵』と共にレジを担当していた。その様子からしていつもの流れを実行するのは難しそうに思えた冴久は、必要な物が陳列されている所へ動き出す。
「毎度ありがとうございます~!」
「またね葵ちゃん。キャベツの特売は今度の土曜で合ってる?」
「それであってるわ。早い者勝ちになるから、気を付けてね」
「分かった。それじゃあね」
会計を終えた常連でありママ友である女性と葵は笑顔で会話を交える。亜里沙の母ということもあって中々の美貌を持つ葵の人気が店に貢献しているのは間違いなかった。
容姿もよければ仕事もできる。次のお客さんも丁寧且つ迅速に葵は対応し、それを亜里沙が補助していく。見事な連携だとサクが横目で見ていると、その視線に葵が気づいた。
「――あら。ちょっと、やだ気付かなかった。亜里沙、レジは私に任せて。ちょっと行ってきなさい」
そういって葵はにやにやしながら冴久を指さす。冴久の来店に気づいておらず、葵の意図が汲み取れなかった亜里沙は首を傾げた。
「でもまだ結構お客さんいるけど……」
「冴久君来てるわ」
「え、本当に?」
「本当よ。ほらあそこ。ささ、いってらっしゃい」
「わ、分かった。無理そうならすぐに戻るから――」
「こっちの心配なんていいから。ほら、行った行った」
にやにやし続ける葵に急かされた亜里沙は冴久の下へと向かっていく。到達までのほんの数秒間、亜里沙は見た目に問題がないか店内に設置されていた鏡を使って手早くチェックしていた。
そこまで気遣わなくても問題はないのだが、下手なことを言って機嫌を損ねたくない冴久は何も言わずに亜里沙を待つ。ほどなくして、お客さんをかき分けた亜里沙は目前にまで到達するのだった。
「いらっしゃいませ、先輩。気づけなくてすみませんでした」
「わざわざごめんな。レジの方は大丈夫そうなのか」
「母は心配いらないって言ってました。まあ、何とかしてくれるでしょう。いつものもやっちゃって大丈夫だと思います」
「そうか。なら、いつもの頼むわ」
「はい。いつでもどうぞ」
どんとこいといった感じで身構える亜里沙。頼もしく思える彼女に対し、後ろポケットから取り出した紙切れの内容を言い放った。
「ゴーヤチャンプル、八宝菜、カレー、チャーハンに入れたら旨そうな野菜」
「ゴーヤに玉ねぎ。人参は三種で使うので多めに。ジャガイモと長ネギ、白菜と椎茸。後は筍と、チャーハンにあう野菜となると……」
「どんなのがありそうかね」
「……うちではキャベツと玉ねぎとしめじを多めにぶち込んだやつよく作ります。それと同じ内容でいいですか?」
「んじゃ、それで頼むわ」
「分かりました。お代は……、こんな感じです」
「ほい」
「ありがとうございます。これお釣りです。ちょっと待っててくださいねー」
「了解―。忙しいのにありがとなー」
「いえいえー。お気遣いなく~」
いつもの高速購入劇。混雑している際はやらないことが多いが、葵さんの許可が出ているのであればお言葉に甘えよう。素直に感謝の意を示しながら、てきぱきとビニール袋に各種野菜を詰め込む亜里沙を待つのだった。
それから一分も経たずに一杯になったビニール袋を亜里沙は持ってきてくれた。手渡されたその重みに思わずサクの腕が下がるのを見て、亜里沙はくすくすと笑っている。
「相も変わらず非力ですね~」
「ああそうかい。いつか鍛えるって。いつかな」
「無理はしないでくださいよ。慣れないことやって負傷何て笑えませんから」
「ほほう。心配してくれるんだな。というか、全体的に物腰柔らかくなったな」
「当たり前じゃないですか。先輩に嫌われるのはやだし、それに、えっと、それに……――」
「ん? どうした?」
何の変哲もなく思える会話の最中で、亜里沙は若干頬を染めながら視線を逸らす。そうした恥じらう姿を見て”とある理由”に気づいた冴久は、敢えて質問攻めを開始した。
「それに、どうしたんだ。言ってみろって」
「いや、それは……」
「吐き出した方が楽になることもああるぞ。ほれ、言ってみなさいな」
「む、んぐぐ……!」
「どうしたんだ亜里沙。言ってくれなきゃあ分からないじゃあないか」
「もう! からかわないでください! 分かってるくせに!」
「はっはっは。怒った怒った」
耳まで赤くした亜里沙は興奮した様子でサクを睨み付ける。恐ろしいというよりも可愛らしいその見た目に冴久は思わず笑ってしまうのだった。
「店も混んでるし、そろそろ退散させてもらいますかね。ありがとうな亜里沙。またよろしく頼むわ」
「あ、はい。ありがとうございました。また来てくれるの、待ってますね」
「おう」
店から出ていく冴久をまだ少しだけ赤さを残す亜里沙が送り出す。これまで通りなら店の中で見送り。しかしながら、彼女は店の外まで見送りをしてくれた。
雑な扱いから一転し、このような手厚い対応をしてくれるのには理由があった。成り行きの中で成立し、あり得るはずのなかった理由。冴久の身に余ると思える理由が出来たのは、つい数日前のことだ。
このことをもう一人の自分が知ったらどう思うのか。驚くか羨むかの二択であるのは間違いない。とはいえ、いつまでも続くとは思えないのが現状だった。
いつかは来ると思われるその時が少しでも遠い未来になることを願いながら、自宅に向けて冴久は歩み始める。しかしながら、その歩みは数歩先へ行ったところで一旦止まることとなった。
「先輩! すみません! 忘れてました!」
「んん? どうした亜里沙」
何かを思い出したようで、亜里沙が追いかけてきた。その呼びかけに応じて立ち止まった冴久は振り返り、駆け寄ってきた亜里沙と向き合った。
「毎週水曜がうちの休日であることは知ってますよね?」
「ああ。それがどうした?」
「先輩は、明後日の水曜の予定は空いてますか」
「空いてるぞ」
「なら、何処か行きませんか。夏休みももう終わりで、予定が合わなくなるってこともあると思いまして。どうでしょうか?」
「問題ないぞ。俺なんかでいいなら喜んで。”2人っきり”は”お祭り”の時以来か」
「遠い昔のこと言ってるみたいですけど、お祭りは2日前のことですよ」
「あ、そっか。なんかいつもと違って色々あった気がして、もっと前のことのように思えてな」
「お爺ちゃんみたいなこと言わないでください。まあ、先輩らしいといえばそうとも言えますけど」
「俺の思考はお爺ちゃんのそれだった……?」
「前からですよ」
「前からか」
「そうですよ」
亜里沙は楽しそうに笑う。こんな自分の言ったことで笑ってくれるのは嬉しくも、恥ずかしくも思えた冴久はぽりぽりと頬を掻いた。
「行く場所は決めてませんが、何とかなるでしょう。最悪の場合は先輩しか知らないこの町の秘蔵スポット巡りでもしましょっか」
「俺がこの町を知り尽くしてる前提のお出かけかよ」
「実際そうですよね?」
「否定はしない。でも、とてつもなく地味で、楽しいとは思えないものになるぞ」
「問題ないですよ。先輩がいれば、私はそれでいいですから」
「っ……!」
「どうしました先輩?」
流れに乗って出た発言であり、意識していなかったためか亜里沙はヘタレ男子を喜ばせる一言を発したことに気づいてない。危うく冴久は狼狽しそうになってしまった。
一緒にいるだけでいい。特にとりえのない冴久にとってそう言ってもらえるのはこの上なくうれしいことだった。
激しい動揺を押し隠し、何とか平静を保つ。これ以上話続けようものならヘタレ心がもたないことを確信し、早々に立ち去ることにした。
「い、いや、何でもない。とりあえず、明後日だな。行き先に関しては連絡取りあいながら決めるか」
「そうですね。それでいいと思います」
「じゃ、行くわ。店の手伝い、頑張れよ」
「はい。先輩も、道中お気をつけて」
笑顔の亜里沙に冴久もやれる限りの笑顔を返す。商店街の南側出入り口の向こうへと冴久の姿が見えなくなるまで、亜里沙は店の出入り口で見守っているのだった。
嬉しいのだが、心臓に悪い。冴えない顔をわずかに緩めながら、冴久は公園の外延部に沿って自宅のある住宅街へと目指す。所狭しと遊びまわっていた子供たちの姿は、徐々に減りつつあった。
もう1人の自分との遭遇。片隅とはいえ魔術社会に接触。現実離れした出来事をたったの一日で体験したことを公園を見て冴久は想起する。緩んでいた表情は、次第に感慨深げなものへと変わっていた。
これからどうなるのかは分からないことだらけだが、自分にやれることをやっていこう。そう冴久が胸に刻んだところで、背後から自転車のベルが鳴らされた。
別に違反などはしていない。ちゃんと道の端を歩き、車の邪魔にならないところにいる。ともなれば知人が鳴らしたのだろう。歩みを止めることなく冴久が振り返ると、こちらに泰が近づいてきていた。
冴久の隣まで来た泰は自転車を降り、一緒に歩き始めた。僅かに漂う加齢集を嗅ぎ、いつかは自分もこんな臭いがするのかと考えていると、泰が困ったような様子で話しかけてくる。
「よお冴久。ちょっと聞きたいんだが、俺ってパトロールしてたか?」
「はあ? どうしたおっさん。もうボケ始めたのか?」
「違うんだ。いや、違わないかもしれないけど、何故かいつものパトロールの時間の記憶が曖昧なんだよ」
「酒でも飲んでたんじゃねーの」
「それはない。戻ってからそれの検査をしてみたが、反応は出なかったからな」
本人がそういうのであれば間違いないのだろう。優しくてどこか抜けているイメージの泰だが、やるべき時はやる人だということを冴久は知っている。
だとしたら何故こんなことを自分に聞いてくるのか。それこそ同じ時間帯に散歩している爺さん婆さんに聞けばいいのに。次々と疑問が湧き出てくる真っただ中で、泰が次に言ったことが冴久の心をすっきりとさせた。
「その曖昧な記憶の中にお前がいたような気がしたんだよ。その時は寝間着姿だったんだが、着替えてきたのか?」
「……俺はずっとこの服だぞ。起きながら夢を見るとか器用だな、おっさん」
「そうか……。そうなら仕方ないよな。呼び止めて悪かった、気を付けて帰れよー」
「おーう。そっちも気をつけろよおっさーん」
自転車にまたがり、泰は交番がある方向へと走り去っていった。その姿を見送った後、冴久は大きくため息をついた。
恐らくというか、間違いなく、泰が出会ったのがサクだったと冴久は確信していた。『高望山』から自分が使うであろう公園に続く道は、泰の昼間のパトロールの道と重なっている。あの道は人通りは少ないものの、泰が通るためにそれなりに安全だからだ。
そう考えた冴久は改めてサクが自分自身であることを思い知った。すでにこの世界から去った彼のことを思いながら、おもむろにポケットに手を突っ込む。取り出したのは四角柱のひんやりとした物体。周囲に誰もいないことを確認した後、それを握って自宅の目の前を頭の中でイメージした。
すると、自分の周囲の空間が歪み、気づけば自宅の目の前に冴久は立っていた。この空間湾曲移動は、自分の中で移動する先がはっきりと分かっていればどこへでも行けるらしい。
この時間であれば人がほとんどいないのは分かっていた。人目につかなければ使っても問題ないはず。もらっておいた便利でありながらも未だに少し恐ろしく思えるそれをポケットにしまい、玄関の扉へと向かう。
いつもと何も変わらない自宅。稼働し続けている室外機の音が聞こえてくる中で、冴久はドアノブに手をかけた。
「今度こそただいまー」
「「おかえりー」」
開いた先からの出迎えの声を聞きつつ、冴久は家の中へと入っていく。一旦手に持っていたビニール袋を置き、手早く靴を脱いだ。袋を片手に廊下を歩き、リビングを目指す。
たったの数時間だったのにも関わらず一生忘れることのできない体験をしたような気がする。それによって自分が疲れているのだから、サクも疲れているはずだ。
サクはサクの帰りを待つ存在のために違う世界へと帰っていった。今頃向こうで帰りを待ち望んでいた者たちとの再会を楽しんでいるに違いない。羨ましく思えるが、こちらも満足な生活を遅れているので気にはならなかった。
ここが冴久の帰るべき場所。自分の帰りを待っている両親にリビングの扉を開けながら話しかけるのだった。
「買って来たぞって、寒ぅい!」
◆
少し薄暗い部屋の中で、光が照らす巨大なホワイトボードをカリウスは眺めていた。乱雑に書かれた数えきれないほどの数列や文字で埋め尽くされているホワイトボードの中心に、ようやく完成へと向けて歩み始めた術式名が書かれていた。
どうやっても不可能だったピースをサクがもたらしてくれたものが埋めてくれた。これで、消えかかっていたこの世界に希望が見えてきた。後はこれを使用するための膨大な力をどう補うかだった。
現存する資源。そしてこれ以降得られる資源の大半を注ぎ込んだとしても、術式維持は疎か展開すら出来ない。しかしながら、この術式を展開できなかった先に未来はない。多大な犠牲を生み出すこととなるとしても、やらねばならないのだ。
持ちうる限りの情報と知力を振り絞り、思慮を巡らせるカリウス。近づき難い雰囲気を放つ彼の心に、声が響き渡る。
(順調……とはいい難いようだな)
「そうだな。だが、私は諦めないぞ。これさえ完成させれば、まだ希望はある」
不安を隠しきれない世界に対し、カリウスはそう言い放った。その目にみなぎる活力は、遥か遠い未来に向かられているようにも感じられる。
「お前が寄こした機会を無駄にする気はない。私は何としてでもやってのけるぞ」
(はて。私が寄こした機会とは何かな?)
「とぼけるな。『サク』君のことだ。私の推測が正しければ、”彼はこちら側に一度戻ってくる必要はなかった”はずだ」
(ほぉ。やはり見抜かれていたか)
「繋がりを断つのであれば、お前の部分だけがその場で消えれば事が済む。それを隠し、戻らなければいけないと助言でもしたのだろう。我々と違って純粋な子だ。騙すのは容易い」
(ふふっ。流石だよカリウス)
「とはいえ、サク君から得られた情報で計画は大きく前進した。これ以上その件について私からとやかく言う気はないさ」
(そうだな。そうしてくれると助かる)
カリウスに考えを見抜かれた『世界』はくすりと笑う。彼の言う通り、サクが故郷であるこの世界に一度戻ってくる必要はなかったのである。
しかしながら、それによってサクは諦めていた家族との再会と別れを実現し、カリウスは『世界』存続のための貴重な情報を得ることができた。サクにとっても、この『世界』にとっても、この選択は正解と言えるものとなったのだ。
何の因果か分からないが起きた奇跡。果てに滅びしかない『世界』に希望の”灯”はともされた。後はそれを消すことなく、後世に繋げていかなければならない。
(問題となるのは、やはり『彼ら』だな。『彼ら』の動向は『創造主』の意向そのもののはずだ。崩壊の未来を知った『彼ら』の妨害を受けてもやりきる自信はあるのか?)
「自信がどうとかの話ではない。やらなければ全てが終わりだ。私が愛し、多くの望みを託されたお前を絶対に守り抜く。どんな犠牲を払ってでもな」
(……ああ。私のやれることはもう少ない。頼んだぞ、カリウス)
「任せておけ」
その会話の後、カリウスは中心に描かれた術式名にそっと手を触れた。これの成否によって、世界の運命が決まる。
術式の名は『世界転生』。人をも越え、神の領域をさえ超えたものを、カリウスは作り上げようとしていた。
◆
「……んお?」
サクは素っ頓狂な声を上げて目覚めた。ぼやけていた視界はすぐにはっきりとしていき、青々とした木々がその半開きの目に映りこむ。
森の中にいた。風で揺れる木の葉の音。鳥の囀り。自然を心地よく感じることのできるそこは、数日前にサクが転移した時と同じ場所。どこへ戻ってくるのか知らされていなかったが、まさかここに飛ばされることになるとは完全に予想外だった。
ここでゴウを呼べばすぐにでも迎えに来てくれるかもしれないが、止めておいた。ここに来たのも何かの縁だと考えたサクは、たった一人で懐かしい森の中を進んでいく。
耳を澄ましてみるが、清らかな音以外が聞こえてくることはない。前のように、悲痛な鳴き声が聞こえないことに安心しつつ、その足は大切な存在と初めて出会った場所にたどり着いた。
「――まだあったんだな」
森の中で少し開けた場所の中央。雨風にさらされたためか、錆びついているトラバサミがあった。ハクを苦しめていたそれを手に取り、ずっしりとした重さのそれを観察する。
これを解除するのはテンガだった可能性があった。もしそうなった後のことを考えてみたが、すぐに結論が出てしまったのでサクは苦笑いしながらトラバサミを地面に戻す。『創造主』が見せた超正統派の主人公になるテンガを思い出したからだ。
もしものテンガと今の自分と比べ、あまりに大きすぎる落差にサクは大きなため息をつく。それでも、今からテンガのようになりたいとは思わなかった。あんなにも誠実な態度をとり続け、多くの者の期待と一身に背負い続けることは、サクにとって地獄でしかない。
そんなことを考えながらも、サクは再び耳を澄ました。聞こえてくるのは以前と同じ、水の流れる音。その音の発生源となっている穏やかな流れの川へと歩き出した。
あそこで元気になったハクを服の中に入れ、お世辞にもいいと言えない足場の中を進んでいったのを思い出した。今でもあの道のりはこりごりだとははっきりと言い切れるが、手のひらサイズのハクはとても可愛かったのをよく覚えている。
現在のハクが可愛くないというわけではない。あの時しかない可愛さがあり、今も十分すぎるほどに可愛く、とても美しい。我ながら結構な親ばかっぽいことを考えていることに気づき、サクは自分自身に対して呆れていた。
もう少しで川に着く。喉も乾いてきたので綺麗な川の水を飲もう。サクの足が水分を求めて速度を上げ、間もなくして目的地へと到着したのだが、以前にはなかったものがそこにはあった。
「……テント?」
数人が入れそうな程の大きさのテントが河原の近くに設置されていた。1人でも組み上げられそうなそれの近くには、食事等のための焚き木の跡があった。
こういうところは増水した時に危ないので設置しちゃだめなはず。となるとキャンプ初心者か。しかし、サク自身は学校の行事以外でキャンプなんてしたことがなかったし、超インドア派なためにしたいとも思わなかった。
周囲を見渡してみるが、人影は確認できない。だが、テントの近くにある大きな岩の向こうから何かしらの気配を感じ取った。一瞬だけ吸血鬼化して正体を探ろうとしたが、明確に何が潜んでいるかは分からなかった。
少なくとも敵意は感じられない。そのまま無視することもできないサクは、警戒しつつもゆっくりと岩の方へと近づいていく。しっかりと前を向きながら慎重に進んでいく。だが、その慎重すぎる進み方があだとなり、サクは無造作に転がっていた絶対に踏んではいけないものを踏みつけてしまった。
「うおぉう!?」
それを踏んだ右足が勢いよく滑り、サクはどうすることもできずに体勢を崩していく。視界の下の方には踏んでしまった物体が前方へと飛んでいくのが見えた。
――それは、バナナの皮だった。
もしやここで寝泊まりした人がデザートか朝飯でいただいたものなのだろうか。それだとしても皮を処理せずに捨てておくなんて、マナーがなってない。
焦りと驚きよりも、サクの心は諦めで埋め尽くされていた。色々あった中で帰ってきたのに、この様。もうこの世界にとって俺は用済みなのかもしれないとすら思えてしまった。
傾いた上半身は硬い石が敷き詰められた河原へ向け、頭を先にして倒れていく。これまでの全てが走馬燈のように流れていき、それを見たサクは自らの死を直感した。
前の世界とさよならだけでなく、人生ともさよなら。迫る自らの運命を受け入れ、サクは目を閉じてその瞬間を待った。せめて、痛みは感じずに死にたい。
「……!!」
傾いていたサクの体は腰と頭部に回された腕に引き寄せられたことで事なきを得た。書き換えられた自らの運命にサクが驚いていると、直後にさらなる嬉しい驚きがサクを襲った。
「むぼっふ」
引き寄せられた先に待っていた温かくて柔らかいものにサクは顔をうずめた。この温かさと柔らかさをサクが忘れることなんて絶対にない。これは、ハクのおっぱいだ。
最高の心地よさを感じながらも、呼吸ができずにサクは顔を上へと上げる。ようやく理想郷から顔の半分を出して鼻から酸素を取り入れていると、サクの視界に今にも泣き出しそうなハクの顔が映し出された。
このままいったら大音量で泣き崩れるかもしれない。そうなればまともに会話ができなくなってしまう。そんなことを考えたサクは急いで左手をハクの腰に回し、右手はハクの頭へと移動させた。
お互いを腕の力で引き寄せあいつつ、サクはハクを安心させるために優しく頭を撫でてあげた。口は幸せで埋まってしまっているので、心を通して意思を伝える。
(ごめん。遅くなって)
(……今日でちょうど一週間。『道』が閉じられたのは二時間前)
(もう、閉じてたのか)
(それでも、私は諦められなかった。ボンヤリとだけどサクを感じるここで、ずっと待つことにしたの。だって、だって――)
ハクは心を通して話しつつも、その綺麗な目に涙を蓄え始めた。今にも零れ落ちそうな状態のまま、思いを伝えてくる。
(――大好きだったから。サクがいなくなるなんて考えられなくて……)
(待っててくれたんだな。ありがとう、ハク)
(すごく怖かった。本当に怖かった。戻ってきてくれて、本当に嬉しかった。だから、離したくない。サクを感じていたい)
(おう。思う存分俺を感じてくれ)
そのサクの一言を聞いた後、抑えきれなくなった涙が次々と零れ落ちてサクの頭や顔を濡らした。抱きしめる力も強くなり、ハクは腕の中にいるサクをしっかりと感じ取っていた。
こんなにも自分のことを考えていてくれる。温かな思いが心を通して伝わってくる。帰ってきて本当に良かったと、サクは心の底から喜んでいた。
静かに泣き、喜びながら大切な存在を感じ取る。絶対に切れることのない強い絆が2人の間に形成されていた。恋人としてのものではなく、それは『家族』に近い物だった。
満足したハクは、鼻をすすりながらサクを胸から放した。涙の跡が残るその顔は、サクを真正面に見据えたことで満面の笑みへと変わる。圧倒的に可愛く、美しいそれに胸を射抜かれながらも、サクは笑いかける。
「あのバナナ、ハクが置いたんだろ?」
「うん。踏むとしたらサクだし、絶対に受け止める自信があったからね」
「でも結構怖かったぞー。大丈夫だからよかったけどなー」
「ごめんね、びっくりさせちゃって。そのお詫びとしてはなんだけど、目をつぶってくれる?」
「分かった」
言われた通りに目をつぶるサク。どんなお詫びが来るかと期待していると、ハクの顔が目と鼻の先まで迫ってきたのを感じた。
ハクの吐息の熱が感じられるほどにまで近づき、サクが鼓動を高鳴らせていると、お互いの唇が重なった。これまで以上に思いが込められたキスに、サクはどうにかなってしまいそうだった。
じっくりと味わった後、唇は離れていった。サクが目を開けると、そこには頬を染めつつも女神のように微笑むハクがいた。
「おかえりのちゅーだよ。どうだった?」
「最高だった。……えっと、その、何だ」
「どうしたの、サク?」
感想を述べた後に口ごもったサクにハクは眩しい笑顔を向け続けながらも問いかけた。ここにきて発動したヘタレスキルを何とか抑え込み、サクは自らの欲求を素直に口にした。
「もう一回。いや、気のすむまで、ちゅーを、というかキスをしたい。……だめか?」
「……断るわけないじゃん!」
その提案を受け入れたハクは、大喜びでサクに飛びついた。そして望み通り、気のすむまで2人はキスを続ける。
自らが帰るべき場所へと、サクは帰ってきた。これ以降どんな苦難が待っていようと、ハクたちがいれば乗り越えていける。そう確信しながら、ハクとの最高の時間を心行くまでサクは堪能するのだった。




