37-2 届かぬ切望②
見慣れ過ぎて目をつぶってでも移動できる光景が目の前に広がっている。サクが立っていたのは、自宅の玄関だった。
雑に脱ぎ捨てられた母さん専用の赤いサンダル。その横には父さんの革靴があり、さらに隣にはサクの履いていた高校指定の革靴がある。いつもと変わらぬ玄関の姿がそこにはあった。
変わっていないのであれば、それがあるはず。サクは玄関の下駄箱の上に置いてるはずのデジタル時計へと視線を移す。日付や時刻以外にも、気温や湿度が分かる優れものだ。
「……え」
サクの口から出たのは驚きの声。その時計に表示されていた日付に、唖然とするしかなかった。
『2006年08月20日』
あり得ないはずの日付。そう、あり得ないのだ。何故こんな日付が表示されているのかサクは理解できない。
「俺が事故に遭った日は、4月20日……。何でだ。俺って死んだはずじゃ――」
「たっだいまー」
「!!」
背後からの声にサクは飛び跳ねて驚き、振り返る。聞き慣れた声、いや、他から聞こえるないはずの声。その声は、冴久のものだった。
眼前にまで迫った冴久は、サクの体をすり抜けて家の中へと入っていった。サクの存在に気づかないままリビングの扉を開け、奥にある台所の方へと歩いていく。その後ろ姿をサクはゆっくりとした足取りで追った。
閉じられたリビングの扉をすり抜け、中へと入り込んだ。サクが事故に遭った当時は庭の倉庫に入れられていた扇風機が出されており、エアコンが冷房設定で全力稼働している。夏の様相となっていたリビングで、冴久が重そうなビニール袋の中身を冷蔵庫へと移しながら口を開いた。
「適当でいいんだよな?」
「重なる場合は重いものは下、軽いのは上にしてちょうだい」
「ほいほい。あ、母さんもやしー」
「母さんはもやしじゃないわ」
「ごめんごめん。じゃがいもだったか」
「完熟してるからマンゴーだって前に言ったでしょ」
「へいへい。そんじゃ、今日使うもやしここに置いとくぞー」
「はーい」
くだらない親子の会話だった。ふざける母に乗っかってサクもふざける。先にどちらかが折れない限り延々と続くそのやり取りは日常茶飯事のもの。変わることなく元気そうな母の声を聞いて、サクは安心していた。
全ての物を入れ終えた冴久は生ゴミ用袋として再利用できるようにビニール袋を小さく折り畳み、各種ごみ袋専用の引き出しの中へと放り込む。手伝いをやりきったサクは背を伸ばしながら、リビングにあるソファーの方へと向かっていった。
二人掛けソファーにはすでに先客がいる。そこに座ってテレビのニュース番組を見ているのは、冴久の父。そのそばへとサクも近づいていくが、視界の端に入り込んだものを見て思わず吹き出してしまった。
「……つけたの父さんだな。下げすぎだろ」
見たのは壁の収納スペースにはめられたエアコンのリモコン。その表面に表示された設定温度は18°となっていた。冷房エコとかそういったことをガン無視している。サク自身は感じないが部屋はキンキンに冷えているはずだ。
毎回食事の手前で母さんが適正温度に設定し直すのが夏の定番の光景となっていた。恐らく、今日もそれが繰り返されることになるのだろう。そうしたことを想像して小さく笑うサクの瞳は、再び潤み始めていた。
リモコンからソファーへと視線を戻すと、そこに座る冴えない親子2人が母に聞かれぬよう最小限の声で会話していた。気になって近づいたサクだったが、すぐに事情を察することができた。今日は20日。例の雑誌の発売日である。
「父さん、最新号、どう思う?」
「ほう。今回は新人が表紙か。いいおっぱいを持ってるな」
「流石だよな」
「流石だな」
そういって2人は静かに握手を交わすと、鼻の下を伸ばして雑誌の表紙を眺めている。雑誌の名は『月刊巨乳エクスタシー』。毎月20日に発売される、サクと父の必需品だ。
ちなみに流石といっている相手は、この雑誌の編集者に対してだ。毎回サクと父の好みを射抜くその内容の数々にお世話になっているため、心の底から尊敬していた。
中学から続くその協力関係が事故後も続いていることに、サクは苦笑いした。他人の視点から見れば、父子が血眼になって雑誌をみている光景は異様としか言いようがない。
「冴久、あなた、運ぶの手伝って!」
「「は~い」」
母に呼ばれた2人は同時に返事をすると、雑誌を慣れたてつきでソファーの下に隠す。その下には、母に気づかれぬうちにサクと父が雑誌を隠すための施した細工があるのだ。無駄な手の込みようはエロを愛するからこそ培われた賜物だった。
台所へと向かった2人は、指示に従ってテーブルへと料理を運んでいく。変わることのない、平凡な、いつもの日常だった。しかしながらそこにいるのは”サク”じゃない。”冴久”だ。
あわよくば自分もその中に混じりたい。一緒に食事をしたい。サクがそう願うと、まるでそれを許さないかのように目の前の光景に変化が生じていく。
「っ――!?」
まばゆい輝きがテーブルのあたりから広がり、サクの視界を遮る。真っ白になった視界がはっきりとした時には、別の様相が出来上がっていた。
窓の外に広がるのは夜の闇。家の中はそのままで照明器具によって明るく照らされているのだが、サクは違和感を覚える。家具やフローリングの床など、家の至る所が真新しく感じられたのだ。
『……静かに寝てるね』
『そうね。見てよこの可愛い顔。まだあなたみたいな冴えない顔じゃないわよ』
『ああ、本当に可愛い。男の子だけど、顔は君に似てほしいな』
『確かに。でも、性格はあなたに似て誠実な方がいいと思うわ』
困惑するサクの耳に入り込んだのは、買って間もない二人掛けソファーに座る両親の声。母が腕に抱いているのは赤ん坊。気持ちよさそうに眠る小さな存在を父は愛おしそうに隣からのぞき込んでいた。
父は指先で赤ん坊の頬を優しく突っつく。すると赤ん坊は眠ったままで柔らかな笑みを浮かべた。とても愛らしい存在だが、若々しい両親の姿を見たサクはその子の正体に気づいてしまう。その答えを両親は口にしていく。
『いい子に育てよ~。『冴久』~』
『ふふっ……。最初はどうかと思ったけど、今じゃぴったりな名前に思えてきたわ』
『だろう? 僕と違って冴えてる時を永久に、健やかに生きてほしいって意味があるんだ。これは、数十個は考えた名前の中でも一番――』
『分かった、分かった。あんまり騒ぐと冴久が起きちゃうから、静かにしてね』
『……はい』
赤ん坊は、”冴久”だった。名付け親であり、そのことを誇らしく語ろうとした父は母によって止められた。それだけ、この名前には自信があったのだろう。
今の自分を改めて見つめ直してみるが、とても冴えてて健やかな存在だとは思えず、サクは苦笑いしてしまう。結局は、冴えない父に性格も性分も引っ張られてしまったのだ。
こうした光景をサクは微笑ましくも、恥ずかしくも、悲しくも思えていた。深層意識に眠っていた記憶なのだろうが、早く消えてほしいと願い続ける。でなければ、心が持たないようなきがしていた。
「――ああ、ちくしょう」
こらえきれなくなった一粒の涙が零れ落ち、頬を伝っていく。一度出始めた涙はもう止まらなかった。
「――なんだよ、これ」
とめどなく涙が流れ出る中、一帯は変貌していく。涙で滲んだ視界は、次々と変わっていく光景をしっかりと捉えていた。
『――お父さん、おかえりー』
『おかえりなさい、あなた』
『ただいま、2人とも。冴久、幼稚園は楽しかったか?』
『楽しかったよー。博人と仮面ライダーごっこしたのー』
『おおー。そうかそうか。そりゃ楽しそうだ』
『そうなのー。でね、でね。他にもね――』
『――手を離しちゃだめだぞー! 前を見てこぎ続けろー!』
『うん!』
『さあ、行けー!』
『うおおぉぉぉぉ、行けたぁぁぁぁあ!――』
『――ただいまー』
『おかえりー。手洗いうがいちゃんとしなさいよー』
『はいはーい。さってと、何処だ父さんー?』
『お父さんなら庭よー』
『そっか。ありがとう母さん』
『お、来たなサク』
『やってるね父さん。進捗はどう?』
『完璧だよ。もう収納ポケットはここまで出来た。これを母さんがいないときにソファーの裏に……』
『流石だね、父さん』
『当たり前よ。変態紳士として、エロを追及する者として、隠し場所を作るのは当たり前のことだからね――』
『――ついにやったか、サク』
『ああ。やったよ、父さん』
『では現物を見せてもらおうか』
『はい、『月刊巨乳エクスタシー』』
『フフっ……。ついに独り立ちの時がきたということか』
『お世話になりました、父さん。いえ、師匠! このご恩は絶対に忘れません――』
『――ちょ、泣くなよ母さん。恥ずかしいだろ』
『いや、我慢しようとしてたんだけど、いざその時になるとねえ……』
『入学式で泣いちまうなら、卒業式とかどうなるんだよ。涙で洪水でも起こす気か?』
『できちゃうかも……』
『否定しないんかーい』
『あっはは。まあ、とりあえず高校入学記念で写真を撮ろうか。とりあえず泣き止める、母さん?』
『頑張る』
『その意気だよ。あ、すみませーん。ちょっとこのカメラで写真撮ってもらっていいですか――』
帰宅した父を出迎える幼稚園児のとき。保険の教科書から性に目覚めて変態紳士としての道を歩み始めてしまった小学生時。中学を終え、県立高校へ進学した際の入学式。その他にもよく覚えている光景が形成されは消えを繰り返していた。
忘れたくない、忘れられるはずもない、大切な思い出の数々だった。何故こうしてそれらを夢で振り返っているのかの答えは、その原因となる光景が映されたことでサクは思い知らされた。
『気張れ。俺。こんな奇跡も、チャンスもないんだ。地を這いつくばっても、惨めな思いをしてでも、今を繋ぎ留めろ。家族のことは……』
それは、一昨日の夜の自分だった。
『家族への感謝は忘れない。そのうえで、頑張ればいい。實本 冴久は、それでいいんだ』
「――そっか。この時からもう、心は揺らいでたのか」
自らに言い聞かせるはずが、逆に自分を追い込んでしまっていた。そして昨日も夢を見て、今日もこうして夢を見た。サクは、もう戻ることのできない元の世界に強く焦がれていのだ。
その気になれば戻ることができるのだったら、こうはならなかったのかもしれない。しかしながら、帰るのは不可能なはず。帰ったところで、そこには”冴久”がいる。彼らにはもう会うことは、できない。現状をしっかりと認識してしまったサクの心は大きく揺さぶられた。
育ててくれた恩を返すことができない。与えてくれた愛のお返しをすることもできない。その最後を息子として看取ることも、できない。 ただひたすらの無念がサクの心を覆いつくしていく。
この夢は、心の底に押し隠した記憶と、完全に断ち切れていない繋がりを通して見えた元の世界の情景。見れば耐えられなくなると分かっていたから、追いやったもの。だが、こうして溢れ出してきてしまった。まだ成熟しきっていないサクの精神の弱さが招いた結果だった。
『『『いただきまーす』』』
「――おいおい、嘘だろ」
サクが歩き出した。それでも、再び形成されたリビングでの和やかな光景はどんどん遠ざかっていく。気づけばサクは全力疾走していた。
あそこにいたい。話をしたい。少しの間だけでも構わない。懇願するサクを嘲笑うかのように、サクがいるべきだった場所は小さくなっていった。
吸血鬼状態にもなれず、体力の限界が近いサクは徐々に速度が落ちてきてしまう。手の平ほどの大きさになってしまった光景に対して、サクはすがるような涙声で叫んだ。
「――夢ならいいじゃねえか!!」
点になった光景に、必死に手を伸ばす。それをつかみ取るように開いた手を閉じる。その後、周囲は真っ暗になった。
何もない殺風景の空間の中で、サクは握った手をはなした。分かり切ってはいたが、そこには何もなかった。
流れる涙が空間に落ち、消滅していく。せめて夢であっても、一緒にいたかった。話をしたかった。自分は元気にしていると伝えたかった。
揺れ動く心に耐えきれず、サクは膝をついた。溢れる感情を抑えきれるずに、たった一人しかいない孤独な空間の中でサクは咽び泣く。
その声は、涙は、誰に届くこともない。それが分かっていても、そうしたかった。そうすることでしか自分を慰められないと思った。
嗚咽が響き渡る。殺風景な空間に取り残されたサクは、ひたすらに泣き続けていた。




