19 冴えてた三日間
蛇口から出る水を手に溜め、屈んで洗面台に近づけた顔に浴びせる。いたって普通な洗顔。それを気分がはっきりとするまで数回、サクは繰り返した。
濡れた顔を上げた先にあるのは鏡。そこに映るのはもちろん、冴えない自分自身。いたって普通な光景に思えるが、普通ではないものも映りこんでいた。
「はい、タオル」
「ああ、すまん」
隣にいたアイリスから受け取ったタオルで顔の水分をふき取っていく。美少女が洗顔を補助してくれる日が来るなど、ここへ来る前の日常では想像もできなかったことだ。
さっぱりしたところでもう一度鏡を見るが、冴えない顔に変わりはない。そんなパッとしない顔を隣にいるアイリスは鏡越しにのぞき込むような目で見つめていた。
「顔色良くなったわね」
「だな。パッとしないのはいつも通りだが」
「もう準備の方は終わってるけど、夕食は食べられそう?」
「大丈夫そうだな。少しでも食って体力にしねえと」
「良かった。じゃあ先に行ってるわね」
「おう」
微笑んだアイリスは洗面所を後にし、サクはそれを見送った。その後一人きりになった所で、サクは今一度鏡に映る自分を見つめた。
日中における戦闘の傷跡は、痕も残さず綺麗に消えている。治癒魔法もそうだが、吸血鬼状態における再生能力の高さをここにおいて再認識していた。
そうした中で、サクはおもむろに上半身の衣服をめくり腹部を確認する。鍛えていないがために柔らかそうなその腹部はいつも通りのだらしなく見える。この腹部を≪アラガミ≫と称されるあの『何か』の放った槍に貫かれた瞬間の記憶は、恐らく一生忘れることはできないものになったとサクは確信していた。
ただただ、痛かった。いつも通りの日常ではあり得ない痛みは壮絶で、身心に深く刻み込まれている。これが繰り返されるかもしれないと考えると、気が気でなくなってしまう。
「――ふぅ」
そうだとしても、きっとまたあの時のように自分を好きになってくれた存在が傷つけば動き出してしまうであろう自分を容易に想像できてしまったサクは、小さくため息をついた。
この異なる世界にいれば、今回のような状況に立たされることは非常に高いと思われる。その度に戦い、傷つくことになるだろう。だとしても、そうだとしても、そこに大事な人がいるのなら、サクのすることは決まっていた。
「気張れ。俺。こんな奇跡も、チャンスもないんだ。地を這いつくばっても、惨めな思いをしてでも、今を繋ぎ留めろ。家族のことは……」
鏡に映る自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いでいたサクだが、それは途中で止まってしまった。もう会えないかもしれない家族の姿が、脳裏によぎってしまったからだ。
忘れることなどできるはずもなく、忘れたいとも思わない。ここに来てから何度思いを馳せたのかは分からない。可能であるならば、せめて一言だけでいいから、ここまで育ててくれた両親への感謝をサクは告げたくて仕方がなく思えていた。
家族のことで揺れた自らの心に渇を入れるように、サクは自らの両頬を言うも通り叩く。そしてなよなよしい自分自身を押し込めるため、鏡に映る自分へ言い放った。
「家族への感謝は忘れない。そのうえで、頑張ればいい。實本 冴久は、それでいいんだ」
「サ~ク~? まぁだぁ~?」
「おっと。ごめんなハク! 今行く!」
決意を新たに今を生きることへ全力を尽くそうと思い至ったサクに、待ちきれないといったハクの声が入り込んできた。タオルをタオル掛けにつるした後、サクは大切な存在のために急いで洗面所を後にするのだった。
扉を出て数歩たらずのところにあるのは結構な大きさの広間。昨日も泊まったホテルの最上級クラスとされる一室は、サクにとって身に余るものとしか感じられない。柔らかなカーペットの弾力を靴越しから感じながら進む先には、ハクたちの姿があった。
「おお。さっきも言ったけど、やっぱすげえな今回の夕食は」
大きな円形のテーブルを囲むようにして椅子が並び、その上には豪勢な料理の数々が並べられていた。どれも美味しそうな品ばかりで目移りしてしまうサクに、既に椅子に座って輝かしい瞳をより一層輝かせるハクが興奮した様子で告げる。
「だよね! だよね! だから早く食べよう! 今すぐ食べよう! 冷めないうちに食べよう!」
「分かった。分かった。待たせてごめんな。それじゃ、食べ始めようか」
「うん! いただきまーす!」
「ちょ、はええ!?」
我慢できなかったハクは他の3人を置いて1人で食べ始めてしまった。それも結構な勢いで、見る見るうちにハクの周りの料理が消えていく。圧巻の光景に各々は感嘆の声を漏らしていった。
「わぁ~。凄い勢いですね~」
「最大の功労者だし、あれだけ力を使ったなら当然の結果じゃないかしら」
「そっか。なら、仕方がないか」
「サク、そのお肉ちょうだい!」
「おう。あんまり食べ過ぎんなよ」
「ハクは食べ盛りですね~」
「ほんと、よく食べるわね。ほら、私のもあげるわ」
「ありがとう!」
早くも食べ切ってしまった肉料理が恋しいハクは、他の3人の前にある同じもの要求してきた。それに対し躊躇うことなく3人は差し出し、ハクは満面の笑みで大好きな肉料理を頬張っていくのだった。
美女の姿ではあるが、その笑顔は無邪気そのもの。見ているだけで癒される天津万爛な様をサクは微笑ましく見守りながら自らも食べ始め、手を進めながらアイリスにとある一件について問いかけた。
「そういえば、部隊のこととか、諸々の話はついたのかアイリス?」
「ええ。明日から私たちだけで首都に向かう許可も下りたし、何の問題もないわ」
「ならよかった。そんじゃあ首都まではいい旅夢気分だな」
「ですね~。楽しみです~」
これからの道中についての悩み事もなくなったサクは、心置きなく料理を楽しみ始める。疲れ切った体に絶品の数々は最大限の癒しを与えていくのだった。
アイリス率いる遊撃部隊はついさっきまで行われていた会議の場で、一時的に他の遊撃部隊と合流して活動することが決定。これでアイリスは何の気兼ねもなく、首都へと戻れるようになった。明日の朝出発し、随所の街で寝泊まりしながら今この部屋にいるメンバーで首都に向けて旅立つ。遊撃部隊とゲイリーには騎士団の車を使うことを勧められたが、旅を楽しみたいということで却下したのだった。
資金に関しては、アイリスの手持ちと電報とともにアイリスの祖父から送られてきたものがあるので問題なし。サクはアイリスに深く感謝することになった。
「やっぱり驚きだわ。サクが異世界からの転移者だなんて。それにお爺様も関わってた……。気付けなかった私はまだまだ未熟者ね」
「とはいっても、特別何かが秀でてるってことはないけどな」
「じゃあその能力は? 以前から使えたんじゃないの?」
「こんなとんでも能力が使えるようになったのは、ここに来てからだよ」
「へえ」
「そもそも俺の故郷じゃ魔法だか、そういった類は空想の物でしかなかったから、ここにきて驚きの連続だわ」
「そうなのね。意外だわ」
「そうなのー」
「そうなんだー」
「そうなんですね~」
「何か、息ぴったりねあんたたち」
食事の最中で、改めてサクが転移者であることを知ったアイリスは驚いていた。ちなみにしゃべるきっかけになったのは、伝言を教えてもらい、アイリスに祖父の写真を見せてもらったことだった。
その写真の老人は、サクがここに来る直前に横断歩道の向こう側で白いローブを着ていたそれだった。鮮明に覚えているために、間違いない。
巨乳の美女が好きだという点も合致していた。サクはこのクロノスというアイリスの祖父から話を聞くことが、新たな目的の1つとなった。
まだ分からないことだらけだが、とりあえずはやることが見つかって安心しているサク。首都に着いた後に執事としてやっていけるか若干の不安があるが、まあどうにかなるといった根拠のない自信をもつことにした。
「食べたー!」
「よく食べましたねハク~」
「楽しいときはあっという間ってやつだな。終わったらこの鐘を鳴らすんだっけか」
「そうよ。すぐに片付けが来てくれるわ」
そんなこんなで談笑していると、気づけば食事の時間は終わっていた。昨日と同様にサクは小さな鐘を鳴らすと、従業員が駆け付けてくれた。
手早く片付けを行う様子に感心していたサクだったが、あることに気づく。従業員たちの顔が、神器騎士の4人組に似ている気がしたのだ。
そうとしか思えず、気になって仕方がなくなってきたサクは、片付けが終盤に差し掛かったところで思い切って質問をしてみた。
「なあ、あんたたち。もしかしてテンガの――」
「「「「はい、そうです!」」」」
「お、おお。やっぱりそうか。何でここに――」
「「「「お小遣い稼ぎです!」」」」
「あ、そう」
「「「「では!」」」」
完全にシンクロして返答してきた四人組は、素早く部屋を後にしていった。塵1つ残さずに綺麗になったテーブル。消臭処理も完璧。見事としか言いようのない手際に、サクは改めて感服していた。
とりあえず一段落。アカベェにて色々とあり過ぎたためか、サクは結構な疲れを感じていた。いつでも寝落ちしていいように洗面所へと歯磨きに向かう。
するとそれに合わせるように、部屋にいる4人全員が歯磨きをし始めることとなった。しかも誰1人として洗面所から出ようとしない。
狭い中をかき分けてコップの水を口に含み、しっかりとゆすいで吐き出す。一番乗りで出ようとしたサクだったが、美しい女体に行く手を阻まれて出られなかった。
仕方なく全員がゆすぎ終わってから洗面所から出た。素直に、何故一緒に行動するのかとサクは文句を言いたかったが、それはカーラの一言によって遮られる。
「これで準備完了ですね~」
「え? 何が?」
「転移者であるサクは知らないかもしれませんが、あんなに早く歯を磨いということは、そういうことなんですよ~」
「だから何――」
問いただそうとしたサクの口を、カーラの唇が塞いだ。昼間と同じ圧倒的な舌技がサクを襲う。
訳が分からずに真っ赤になって硬直するサク。それと同様に、アイリスも硬直していたが、ハクは先を越されたといった感じで悔しがっていた。
しばらくして解放され、サクはと力なく近くにあった椅子に腰かけた。もはや問いただすことのできる気力はサクにはなかった。
「食事の後すぐに歯を磨いたということは、キスする相手を気遣っているということ。それを夜、それも女性がいる時にすることは、『したい』という合図。大胆です~、サク~」
「い、いやいやいや! 俺知らないぞそんなこと! どうなんだよアイリス!」
「……カーラの言ってることは本当。グリールにおける恋愛常識。まあ、異世界から来たあんたじゃ知らなかっただろうけど」
「本でこのことは知ってたから急いだのに!」
「残念でしたねハク~。一番乗りは私です~」
そんな後出しじゃんけんされても知らないものは知らない。本当に疲れているので早めに寝たいという思いのサクは、その気はないことを伝えようとしたが、予想外の発言に再び遮られた。
「わ、私でもいいなら、させてあげるけど……」
「……!?」
したくない組みに属すると考えていたアイリスが頬を染めながら告げる。それを聞いたサクは言葉を失う。
この場面であれば、アイリスならいつものノリで変態といって罵り、反対してくると思っていた。恥じらいつつ、うつむいたその様子に、サクは心を奪われる。
そんなのありかよ。ここにきてアイリスにときめくことが多くなっていることに驚くサク。可愛いは正義と昨今では言われたりするが、こんなに可愛らしい存在を目の前で見ることになるとは。
2人の様子を見たハクとカーラは、何かを思いついたように顔を見合わせる。そして、行動に移した。
「じゃあ最初はサクとアイリスで~」
「楽しんで~」
「え!? ちょ、ちょっと待て2人とも! 拒否権はないのか!?」
「「ありません~」」
笑顔の2人に引っ張られ、サクは真っ赤になっているアイリスの目の前へと連行される。
向き合う2人。恥ずかしいためか、アイリスはすぐにうつむいてしまった。その状態のまま黙り込んでしまう。サクはそんな彼女が意を決してくれるその時を静かに待つ。
すでに煙を上げ始めているアイリスが、ゆっくりと顔を上げる。上目遣いで、困ったように眉を八の字に曲げて、告げた。
「優しく……、してね?」
それを見た瞬間、サクは初めて冴えない自分の理性が吹き飛んだのを感じた。こんなにも可愛い子が勇気を出して言ってくれたのだ。自分にはそれに応える義務がある。そうに違いない。
自らの欲望に従い、サクはアイリスの肩に手を置いた。それに驚き、アイリスは体を震わせる。その様も、大変可愛らしかった。
「大丈夫。頑張る」
「……ん」
小さく頷いたアイリス。震え続けるその体。サクは絶対に無茶はしないと心に決めた。
そして、旅立ち前の長い長い夜が始まろうとしていた。
◆
ハローワールド。おはようございます異世界さん。實本冴久こと、サクです。眠いです。サクはどこの誰に対してでもない挨拶を屋上にて心の中で行っていた。朝日の輝きが、体に染みる。
ギンギンに目が冴えたままで深夜は過ぎ去って、結局まともに眠ることができなかった。かといって、すぐそばに美女と美少女がおり、彼女たちの体温と香りが感じられる中にいれば興奮で気がどうかしそうなので、手早く着替えて屋上に来たのだった。
「――はぁ」
結局ヘタレスキルが一緒に寝た時点で全力で発動し、手を出すことはできなかった。一度飛んだはずの理性がすぐに「ただいま」といって早々に帰宅したのが今でも鮮明に覚えていた。
ハクとしたときは、向こうから積極的に来てくれた。もとい、襲い掛かってきてくれたから身を任せることは出来た。だが、自分から女性の神秘に触れるだけの勇気は、残念なことにサクは持ち合わせていなかったのだ。
その時を待ち続けて瞳を閉じて待っていてくれたアイリスもやがて深い眠りにつき、それに乗じて寝たふりをすることでサクは危機を脱した。しかしながら実際に眠れることなく、現在に至る。
風の音が聞こえるぐらいで、それ以外の雑音はほとんど聞こえてこない。疲れ切ったその体を伸ばしていると、少し離れたところにある出入り口の扉が開いた。
「――サク?」
「おお、ハクか。おはよー」
やって来たのは、ワンピースを身に纏った美女、ハクだった。嬉しそうな笑みを浮かべ、こちらにやってくる。サクの隣までくると、一緒にアルーセルの様子を見始めた。朝早いためか、仕事に向かう人や、学校へと向かう子供たちの姿が確認できた。
和やかな風景を眺めつつ、ハクは隣にいるサクをちらりと見た。疲れ、とても眠そうにしている姿がそこにある。大きくあくびをしたサクは、その右肩辺りを指でつつかれた。何かと思って右を向くと、ハクが正座をしている。そして、ここを枕に使っていいと表現するかのように、膝の上を叩いて見せた。
こりゃあ最高級の枕だ。さぞ寝心地がいいに違いない。そんなことを考えながら、サクは屋上に寝転がってハクの膝に頭を乗せた。
いい匂い。柔らかくて暖かい。空を見上げれば2つの大きな山の向こうに、微笑むハクの顔。ああ、最高の絶景だ。
「すまん、ハク。これ、マジで寝るかも」
「分かった。あ、でもちょっと待って」
そういうと、ハクはサクの頭を支えつつ、彼の上半身をゆっくりと持ち上げ始めた。
寝ぼけた頭で何をするのかとサクが思っていると、ハクは静かに唇を重ねてきた。そして離すと、女神の如き柔らかな笑みを浮かべる。
「おやすみのチューだよ」
「……ありがとう、ハク。おやすみー……――」
「うん。おやすみ、サク」
再びその頭をハクの柔らかくて温かい膝の上に乗せる。ゆっくりと、心の底から安心しながら、サクは眠りについた。
地平線から離れ、太陽は天へと向けてゆっくりと昇っていく。冴えに、冴えに、冴えていたサクの三日間が終わりをつげ、新たな朝がやってきたのだった。




