00 サクとハク
「――んお?」
冴えない顔の男子が、まるで寝起き一発目のような腑抜けきった声を漏らした。そのやる気のなさそうな顔にぴったりな半開きの目に映る光景は酷くぼやけており、周囲をきちんと把握することができずにいた。
そんな状態でも分かったのは、自分が二本足でしっかり立っていることと、周囲が”明るかった”こと。しかしながら冴えない男子にはそのことに違和感を感じぜらるを得ない。何故なら、つい先ほどまで彼は街灯でぼんやりと照らされる夜道にいたからだ。
状況が理解出来ず、困惑する冴えない男子。何も分からない今、動くことは危険だと判断した彼がしばらく動かずにいると、ぼやけた視界がようやく晴れ始めた。
「……え? どこここ?」
はっきりとした視界に映りこんだのは目に優しそうな緑色。柔らかな日差しに照らされる木々の葉は優しい風に揺られて大変清らかな音を耳に届けてくれている。冴えない男子は見慣れぬ森の真っただ中にいた。
夜道からいつの間にか森の中。それも陽光が降りそそいでいることからして真昼間であることは間違いない。幻覚でも見ているのかと目を何度か擦っても景色は変わらず、頬をつねっても痛いしどこかしらをつねっても痛いから夢であるとも思えなかった。
理解不能な状況だが、冴えない男子は自らの服装と持ち物には変化がないことに気づいた。寝巻のまま財布とスマホをポケットに入れ、左手には購入した『月刊巨乳エクスタシー』と夜食が入ったビニール袋が握られている。いつものコンビニ帰りの装備(?)だった。
最後に残っていた記憶では、帰り道の交差点で信号待ちをしていたはずだった。早く帰って自家発電をしたくて下半身のムスコが帰宅を望んでいたのもよく覚えている。
「ん~……。何が何だか……」
冴えない男子は半開きのやる気のない眼で周囲を見渡す。どこまでも広がる森に若干の嫌気を感じ、ぼさぼさに伸びた黒髪の頭をボリボリと掻いた。
分からないことだらけの状況だったが、とにかく歩くことを決めた。幸いにも履いていたのは運動靴。サンダルかどちらかの二択でこれを選んだ数分前の自分を称賛しつつ、森の中を進み始める。
こういう時は川が見つけられれば、それを下っていった先に町とか村があるはずだとテレビ番組でやっていたのを思い出した。浅いサバイバル知識だが、無いよりはましだろうと割り切って草木をかき分けていった。
風で揺れる木の葉の音。鳥の囀り。あまり馴染のない清らかな音の数々。「こんなのもたまにはいいかも」、呑気にそう考えていると、何か違うものが聞こえてきた。
「――悲鳴? 猫か何かか?」
小さな断末魔だった。小動物の鳴き声だと思われるか細い悲鳴。聞いているだけでも辛くなってくるそれが気になり、冴えない男子はその声がする方へと向かった。
声を頼りに進み、しばらくして森の中で少し開けた場所に出た。他と違って人の手が入っているようで、邪魔となる草の類が刈り取られた跡が残っている。そこ中央に、悲痛な声の主がいた。
「マジか。ファンタジーだなおい」
そこにいたのは、”手のひらサイズの小さな白銀の竜”だった。ゲーム等で見ることがあったトラバサミにその小さな足を挟まれ、苦しそうにもがいている。
それなりに動物は好きだったが、彼は実際に”竜”は見たことがなかった。というか見たことがあるわけがない。架空の生物なのだから。しかしながら今、目の前にいるのである。
周囲を確認したが、人の気配はない。隠しカメラで見つけた竜を助けるかどうかを検証するドッキリでもなさそう。目を擦ってみても、耳の穴をほじっても竜の存在は消えなかった。
信じ難いものに遭遇したことに冴えない男子は素直に驚いていた。どうするべきかと迷い続けている間も、竜は痛々しい声を上げ続ける。厄介ごとに関わるのは嫌だったが、こんなにも痛そうにしているのを見過ごして後になって罪悪感に苛まれるのも嫌だった彼は、ゆっくりと竜へと近づいていった。
近づいていく中でトラバサミをよく見れば、薄い紫色のドーム状の『何か』が覆っていた。その中心に挟まれた竜がいるのだが、どうやら物理的な痛みだけでもがいているのではないような感じがした。
「はっはー、すげーなー。竜に続いて今度は魔術的なアレか。よくできた夢だわ」
棒読み気味にそんなことを口から漏らしながら、ゆっくりとその手をトラバサミへと近づけていく。そういえば、これ素手で開けることができるのかと今更になって疑問が頭の中に浮かぶ。某サバイバルゲーム4の序盤ではこれに挟まれている犬を助けたが、あの主人公と比べても圧倒的に非力であるのは自分自身でも分かっていた。
だが、その心配は無駄に終わる。ドーム状の何かはその手が触れた瞬間に消滅したからだ。それと連動するように、トラバサミも解除される。
苦痛から解放された白銀の竜は、その場にぐったりとした様子で倒れこんだ。まだ未発達の小さな羽がぴくぴくと動いている弱々しい竜を冴えない男子はこれ以上傷つけることがないよう、そっと持ち上げた。
表皮は小さなころに動物園の触れ合いコーナーで触ったことのある爬虫類の表皮のようにザラザラしている。しかし爬虫類と違ってその体温は温かく、人肌と同じくらいに感じられた。
脚の出血を抑えてあげたいが、残念ながら清潔な布などは持ち合わせていない。雑誌を破って巻き付けることも考えたが、使われているインクが害になる可能性と裸の女性が写されているものを使うのはどうかと思い、止めた。
ふと耳をすませば、水の流れる音が聞こえてきた。竜の声で聞こえなかったが、近くに川があるようだ。ぐったりとしたままの竜を抱きかかえてその方角へと歩いていく。
たどり着いた先には穏やかな流れの川。水も透き通るほど綺麗。これであれば問題ないと判断し、傷口を洗ってやろうと傷ついた脚を水に着けてあげた。
すると次の瞬間、
「おおっと」
小さな竜は目を覚ました。その手の中から離れると、小さな口で川の水を結構な勢いで飲み始める。気づけば脚の傷は塞がっており、滲み出ていた血も綺麗に消えてなくなっていた。
少々驚きはしたが、元気になったその様子に安心した冴えない男子は河原にある大きめの石に腰かけた。おもむろに見上げた空は、雲一つない快晴だった。
いつもの夜道から見慣れぬ真昼間の森の中。そこで初めて出会ったのはファンタジーな存在。次に何が来てももう驚かないような気がした冴えない男子は、麻痺し始めていると思えた自らの感性に苦笑いしてしまった。
空を眺めたままこれからどうするかと考え始めた時、小さな白銀の竜がその可愛らしい小さな手足を使ってこちらに駆け寄ってきた。足から上り、顔までたどり着くとザラザラした舌でまるでじゃれる子犬のように冴久の顔を舐めてくる。
(ありがとう! 助けてくれて!)
(直接脳内に……!?)
何処からともなく頭の中に響いたのは幼い少女の声。つい先ほど何が来ても驚かないといった思いは秒で覆されることとなってしまった。
周囲に目をやるが、人影はおろか生物らしき存在も見当たらない。これまた信じ難いことだったが、お礼を精神的干渉で述べたのはぺろぺろしてくる竜だとしか考えられなかった。
嬉しそうにじゃれ続ける竜を一旦両手で抱き上げ、顔から離す。顔の大半が唾液まみれになってしまった冴えない男子は、とりあえず意思疎通を試みることにした。
「えーっと、俺の言葉わかる? 日本語はできるの?」
(言葉では何言ってるかわかんないけど、心からならわかるよ!)
(あ、そうなのね)
口から放つ言語は通じないが、心でならば会話ができるようだ。便利だなと思いつつ、さらに問いかけてみる。
(お前さんの名前はなんてーの? 俺は『實本 冴久』っていうんだけど?)
(サク? サクって名前なのか! よろしく、サク!)
(おう、よろしく。んで、お前さんの名前は?)
(名前か。私、名前ない!)
(マジか名無しの権兵衛か)
(ごんべー?)
(いや、こっちの話だ。気にしないでくれ)
名無しの竜は心越しに会話するだけで無邪気に喜んでいた。長い首の先にある大きめの綺麗な金色の瞳が興味津々といった様子で冴久を見つめている。
これからを考えても名前がないと呼ぶのに困る。どうでもいい知識が詰め込まれた頭を回転させ、パッと思い浮かんだ名前を提案してみた。
(じゃあ、その見た目からとって、『ハク』って名前でどーよ)
(ハク! 私、ハク! サクとハク! サクとハク!)
(気に入ってくれて嬉しいわ。よろしくな、ハク)
某パヤオ作品の登場人物と被っているが、ちょうどいい名前だと思った。もうちょっとましなネーミングセンスがあれば、もっとファンタジーっぽいいい名前を付けられてかもしれないが、過ぎたことはしょうがない。
名を与えられて、『ハク』は嬉しそうにしている。非現実的な見た目だが、『サク』はそれをみてほっこりしていた。
右も左も分からないこんな状況だが、可愛いい相棒ができたことは素直に心強いと思えたサク。夢とも現実とも分からないこの場所を進んでいく勇気が、静寂を好む冴えない心に芽生えたのだった。
◆
――首尾は上々。送り込んだ予備の駒の機能も確認。
現地勢力の末端の掌握、完了。本体は静観。抵抗の兆しは無し。造作もない。
『私』を恐れているようだな。”負”に塗れながらも勝ち目がないのを理解する思考はあると見える。
末端を介し、駒へ接触。現地勢力を活用して撹乱を開始。最終的には……、”例の方法”の実験地とする。
『僕』の邪魔立てが目的ではないと推測したが、”繋げてしまった”のが運の尽きだ。
平凡でありながら他の世界へ接触を試みるなどおこがましい。ましてや、それが『俺』の最後の一歩となる地。無神経にも程がある。
取るに足らぬ塵芥。『私』の手で消し去ってくれよう。それが嫌ならば抗って見せろ。
――出来るものならばな。