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その日も空は曇っていた。どんよりと灰色の空はいつもよりも近くに感じられ、その重みが自分にのしかかるようだった。ゆっくりと、ゆっくりと流れていく雲は、まるで霧のようで、わずかに姿を変えていくその空から目が離せなかった。
水分をしとどに含んでいるように見えるのに、雨は振りそうもないほど空気は乾燥していた。その差にひどく緊張感をたきたてられたからなのか、足は気持ち小走りになっていく。―――なにか、いけないことが起きる気がする。
エマニュエルは、一神教を信仰している。生まれた時からそうだったから、祈りを捧げることはもう体に染み付いている。けれど、多くの一神教徒のようにほかの宗教を信仰する人々をののしるようなことはしなかったし、尊重してきたつもりである。それは、どんな神様でも、平等に愛を与えて下さり、生きる意味や尊さを教えてくださることに変わりはないからだと信じているからである。
そういった意味で、エマニュエルは信仰心を持っていた。
けれど、神の存在を心の底から信じるかと言われたら、素直に頷くことはできなかった。
生まれてから今の今まで、エマニュエルは一日も忘れずにお祈りを捧げてきた。けれど神はエマニュエルに語りかけてはくれていない。母や兄はそんなことを言ったエマニュエルを諌めながら、「髪はいつも空から私たちを見守っていて下さる」と言った。だけど、もしそうなら、このような空模様の時、神さまはエマニュエルに何を説いているのか。無意味に心を騒ぎ立てるようなことをして、神様は私になにを伝えようとしていらっしゃるのかしら、とエマニュエルは空を見上げ上がら考えた。
ひときわ強い風が、エマニュエルの髪の毛をさらう。
気が付けば、いつもの教会の先、国が見渡せる丘のすぐ近くまで足が伸びていた。エマニュエルは片手で軽く髪の毛を抑えたが、やはり思い直して抑えるのをやめた。―――耳飾りを探したら、あとは帰るだけだし…。別に誰に会うわけでもなし、髪の毛が鳥の巣のようにボサボサになってしまっても、もういいだろうと考えたからである。エマニュエルの髪の毛は一本一本が細く、柔らかかった。その手触りは自分でも好んではいたが、直ぐに絡まってしまうのがいやだった。すでにところどころで、絡まりによる毛玉ができているのを感じ、エマニュエルはしかめっ面をした。
この間母たちと教会に行った時に片方の耳飾りをなくしていることに気づいた。エマニュエルにとって、小さな真珠のついたぷっくりころん、としたその耳飾りは大のお気に入りで、13の誕生日に兄からもらって以来、毎日お守りのようにつけてきた宝物だ。
最近、惰性で少しゆるくなってきたのをすぐに修理に出さなかったのがいけなかったんだ。自分に腹が立って下唇を噛みながら、足を進めた。
ほんのさきほどまで、エマニュエルは家から教会までの道のりをたどりながら一生懸命耳飾りを探していた。だけど、どんなに地面に這いつくばって、隅から隅まで探してみても何も出てこなかった。早朝からずっと探して、お昼を食べに家に戻って、また探して。とうとう見つからなくて途方にくれ始めた頃に、教会の先にある丘が視界に入った。そうしたらなんだか、そこに行けば耳飾りが見つかる気がしたのだ。ここはいつでも風が強いし、あんなに小さなものなら風に吹かれてどこへでも飛んでいけそうだ、と考えて。ほんの少しの胸騒ぎとともに。
空を見上げるのをやめて、丘の頂上を見つめて足を進める。その先に何が広がるのかは知っていたけど、そのことは今は考えないようにして、ただただ足を進めた。黙々と歩いた。髪の毛がさらわれ、頬に幾度となく風が触れ、体の熱はそうしてとうの昔に奪われたまま。それでも雪が降っていないぶん、寒さは柔らかい。
思ったよりも丘は高く、登りきった時にはエマニュエルは呼吸が荒れていた。深く荒い呼吸を何度も繰り返す。一度後ろを振り返れば、その光景に息を飲んだ。国が視界一面に広がっている。赤茶けた屋根が多く見える街並みと、多くの教会の鐘。細長い煙突に、ところどころ見える円型の屋根。その全てがまるでおもちゃのように小さくて、でもなぜだかとても明瞭に見える。国の所々には雲の切れ間なのだろうか、光が当たり眩しいところがある。そんな光景はエマニュエルにはとても愛おしく見えた。
胸がホッコリとして、知らず知らず口角が上がり、笑顔になる。
しばらくその場に立ち尽くして、エマニュエルは自分の国を眺めていた。飽きることなくずっと見続けていられる、と思っていたのに、その時急にひときわ重たい風が吹いてエマニュエルを動かした。
小さくうめき声をあげて、足がもつれる。
風はエマニュエルを押して押して、それこそ踊るかのようにエマニュエルはステップを踏んだ。
あまりにも強い風だったから、面白くなってきてしまって、エマニュエルは風に乗ってワルツを踊る。つい一ヶ月ほど前に兄に教わった新作を。
エマニュエルは、愚かだったのだろう。
エマニュエルは、若すぎたのだろう。
そうして踊り流れて、たどり着いた先に、不思議な場所を見つけてしまった。
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