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はじまります。
その日、風は強かった。
エマニュエルは、自分の吐く息で両手を少しでも温めようと息を吐きながら、教会に向かっていた。
この国にはたくさんの宗教があるが、エマニュエルは家族にならい、ある一神教を信仰していた。
―――この国。
ふ、と視線を飛ばせば、教会が見える。その教会の遥か彼方に、ぼんやりとあの国が見えた。
―――あの国。
年頃の女の子にありがちな、妄想を楽しむ癖はエマニュエルにももちろん備わっており、それは幾度も、あの国をあぢ材に繰り広げられていた。つまり、いつか、あの国から王子様がやってきて、自分をさらっていくのではないかしら、などという桃色の考えが。
教会の看板を視界の隅に捉えながらも、視線の中心はあの国へと注がれる。
両手は自分の吐く息で湿り気を帯びてきている。知らぬ間に、かじかんだ人差し指に唇をくっつけていた。直に伝わる、舌先の温度は、いやに、熱かった。
そろそろ、日没だ。風がいよいよ強くなってきた。マフラーに入りきらないエマニュエルの長い髪が、風にあちらこちらへと流されている。エマニュエルはその感覚を好んでいた。髪の毛を自分の意識以外で動かされることは、気持ちが良かった。たとえ、それが自分の顔をはたいていても、だ。
「エマニュエル!急ぎなさい!」
は、と自分の名前を読んだ声の方へと顔を向ければ、そこには母と兄がいた。教会の大きな扉の下で、自分を呼んでいた。
「いまいくわ!」
そう答えて、走ろうと体勢を変えた瞬間、風のせいなのか、ただにぶいだけなのか、足がもつれ、エマニュエルは地面に尻餅をついた。
いったぁい!心の中でそう言いながら、空を仰ぐ。どんよりとした灰色の空は今にも雨が降ってきそうだ。すばやく立ち上がり、服の汚れを両手で落としていく。
「何やってんだ、バカニュエル」
草を踏む音が聞こえたかと思えば、いつものように自分を馬鹿にする言葉が聞こえてきた。
顔を上げてにらめば、兄のクリスチャンが呆れた顔でエマニュエルを見ていた。
「…好きでやってんじゃないわ」
「当然だ」
深くため息を吐かれたが、兄はそのまま服の汚れを落とすエマニュエルを手助けしてくれた。兄の手も使い、衣服の土汚れをなんとか落とし、手をつないでもらって教会まで小走りで急ぐ。そんなに遠くもなかったのに、ようやくたどり着けば、母までもが呆れた顔をエマニュエルによこした。
「まったくもう、ほんとにそそっかしいんだから!」
「はいはい、ごめんなさい、かあさま。ほら、ミサが始まってしまうから入りましょう?」
ため息を疲れながらも自分の風に遊ばれた髪の毛を直してくれるその手は優しい。
髪の毛をさわられて、エマニュエルは、気持ちが良くて、それとなぜだか誇らしくて、下唇を噛んだ。
3人で一列に並び、厳かな雰囲気の中、神様に向かってお祈りを捧げる。
今週も家族全員無事に楽しく、過ごせました。どうもありがとうございました。また来週もどうぞわれらを見守りください―――。
目をつむり、頭に浮かぶ祈りの言葉をぶつぶつと捧げていたら、なぜだか、一瞬音が消えた。
すべての音が消え、無音に包まれたエマニュエルはびっくりして、目を開け顔をあげてしまった。その瞬間音が戻り、周りの囁く声が聞こえてくる。まるで鈍った機械のように首を左右に動かし、ほかの人の様子を見るが、何も変わったことはないようだった。
一時呆然としたら、急に罪悪感が生まれ、エマニュエルはまたすぐに目をつむり顔を下げてお祈りを始めた。
その時、右耳に空虚感を感じ、そっと手で触れてみれば、いつもそこにあるはずの耳飾りがなくなっていた。
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