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楽に捧ぐ

 視線を感じ、疲れた頭を上げる。

 禎理ていりが佇んでいる、大学付属の図書館入り口の、開け放たれた大扉の向こう側に、少し細めの街路を隔てて、足首までの丈がある藤色のワンピースを着た若い女の人がいるのが見える。その女の人が、図書館入り口より少しだけ内側の、影になっている場所で背を大扉に預けている禎理のことをじっと見ていることに、禎理はこの時になって初めて気付いた。

 誰だろう? 背中を壁から放して、外を見る。影から光を見ると眩しく、女の人の顔は目鼻の判別すらできなかった。しかしながら。……女の人の、明らかに禎理を見知っている視線は、不可解過ぎる。この場所に、禎理のことを知っている人がいるとは、思えない。

 禎理が今居るこの場所は、禎理が本拠地としている東の大都市天楚てんそ市から西に五日ほどの場所、大陸中央部に位置するユール平原にある都市の一つツィクロイーダ。ユール平原では昔から国家間の紛争が絶えず、都市を中心とした小さな国が平原上にぽつぽつと、寄せ集まるように存在している場所である。平原と天楚を行き来する行商人は少ないし、冒険好きの禎理も、天楚市から近い距離にあるにもかかわらず、この平原に足を踏み入れたことは数えるほどしか無い。天楚市では禎理はかなり無茶をしているから、噂ぐらいはこの平原まで聞こえて来ているかもしれないが、姿だけを見て「彼が禎理だ」と分かる人は、多分いないだろう。それなのに、あの人は、明らかに禎理自身を知っているようだった。

 声を、掛けてみようか。そう思い、立ち上がる。

 だが、禎理が考え込んでいる間に立ち去ったのだろう、女の人の影は、禎理の視界からすっかり消えてしまって、いた。


 隣の部屋の喧噪が、こちらの部屋にまで聞こえてくる。

 おそらく、今日の成果のことについて話しているのだろう。明るい声が、禎理の感情を逆撫でた。だが、静かにしてくれと言ったところで、エクサが騒ぐのを止めないことは、禎理自身が一番良く知っている。だから禎理は、横になっているベッド上を移動し、騒ぎの元から一番遠い場所で毛布を被って丸くなった。

 禎理が疲れていることは、エクサも分かっている筈だ。なのに。めったにない種類の怒りの感情が、沸々と湧いてくる。その感情を何とか抑える為に、禎理はふうっと大きく息を吐いた。エクサが、人の感情を読めない、いやあえて読もうとしない性格の人間であることは、側で見ている禎理が一番良く知っている。

 ツィクロイーダ市にある、古代の民族である『嶺家れいか』一族が作成したという遺物の一つである『石版』のことをエクサが聞き及んだのは、天楚大学の地下図書館でのこと。禁断の魔術を研究したが故に、大陸南部にある神官国家フビニを追い出されたエクサは、天楚に来てからも懲りずに研究を繰り返し、昔フビニの幽霊神官ボルツァーノに助けられた縁でエクサを守護している禎理の手を煩わせているのだが、ここ最近は大学図書館に閉じこもり、あちこちの資料を貪り読んでいた。そのエクサが興味を示したのが、図書館の奥深くに眠っていた『石版』だった。

 嶺家一族の三大発明の一つ――残り二つは、鋭利で丈夫な武具を作る時に珍重されている金属『ポリノミアル』と、今は失われた特別な魔力が籠められているという文字『嶺家文字』――である『石版』については、フビニでも時折研究が為されているらしい。しかし、この世界で魔法を使う為に必要な『魔力要素』が高い人間でないと『石版』に何が書いてあるか読むことができない為、フビニでも解読にはかなり苦労しているそうだ。魔法の研究も行っているフビニですらそうなのだから、魔法が珍しい東方の王国天楚では、『石版』は読まれることなく図書館の片隅に放り投げられていた。

 その『石版』を読む方法を、エクサは知っていた。但し、エクサ一人では『魔力要素』が足りない為、読めない。だが、エクサには禎理という、『魔力要素』をたくさん持っているのに魔法は全く使えない友人がいる。

「その点は、ついてるよな、自分」

 そう言いながら、禎理を介して、エクサは『石版』を読んでいる。そして、エクサが大学内の『石版』を全て読み終えた時を見計らうかのように、ツィクロイーダ市にある教養学部だけの大学から、「『石版』の共同研究がしたい」との申し出があったのだ。その申し出を二つ返事で受けたが為に、禎理は今、疲れた身体を抱えながらここにいる。

 『石版』をエクサが読む際、エクサには何の影響もないが、『魔力要素』を提供している禎理には過剰な負担がかかる。しかも、エクサには『石版』の内容が分かるが、禎理には分からない。それが、不満だ。禎理自身、嶺家文字の読み書きができ、計算も歴史も地理も人より良く知っている。学問や知識への興味も人より高い。なのに、エクサが知ることのできる知識を、自分は知ることができない。知識への渇望と、自分がただの道具として使われているだけという状況が、禎理の不満をますます掻き立てた。

 と。

 不意に、隣の部屋の喧噪が止む。扉の開く音が二、三度した後、禎理が寝ている部屋の扉がゆっくりと開く音が聞こえた。

「禎理、寝てるか?」

 先ほどまでエクサと話していた、ツィクロイーダ大学の教授が、手に持った羊皮紙の巻物を振る。何とか禎理が身体を起こすと、教授は禎理に羊皮紙を手渡して言った。

「ジュリア様と、知り合いなのか?」

「ジュリア様?」

 そんな名前、聞いたことがない。思わず首を傾げる。

「市長の姪で、市長の補佐をやっている女の人だ」

 教授の説明を聞いても、さっぱり誰だか分からない。この市では強い権力を持っている人なのだろう。それだけは察しがついたが。

「その人からの、招待状だ」

 教授の方も、何故そんなものが禎理に来たのかさっぱり分からないという表情を見せている。

 封を開いて羊皮紙を広げ、隣の部屋の明かりで読んでみる。羊皮紙には、細い流麗な字で、用件だけが簡潔に書かれていた。

「明日の三時課(午前九時)に市庁舎の二階にある執務室に来て欲しい」

 市長の姪、市の権力者が、自分のような旅の者に何の用だろうか? 再び、首を傾げる。

「行くのか?」

 いつの間にか手紙を盗み読みしていたらしい、教授の後ろからエクサが顔を出す。

「行った方が、良いと思う」

 毎日エクサに付き合うのにも、正直飽きた。何か厄介なことが待ち受けているかもしれないが、その方が今の鬱屈を晴らすにはもってこいだ。

「じゃ、俺は明日は寝てるわ」

 禎理の思考を見抜いたのか、エクサがふっと笑う。

「ま、この街でもトラブルメーカーだと言われないよう、気をつけて」

 エクサには、言われたくない。その言葉を、禎理はこっそり飲み込んだ。


 次の日。

 偉い人に会うのだから身支度だけはきちんとするように。教授にそう、言われた通り、洗ったばかりのチュニックをきちんと着た禎理は、市庁舎前の広場に佇んでいた。

 三時課には、まだ少し早い。だが市庁舎前の広場は既に、商品を売り買いする活気に満ち溢れていた。市庁舎の横には大商人の店らしい正面の建物が並び、向かいには神殿が、高い鐘楼を天に向かって突き立てている。市庁舎周りの風景は、何があろうともどこも同じだ。禎理はほっと息を吐いた。『偉い』人に会うから、少しばかり緊張しているようだ。

 普段よりも少し忙しげに見える街の喧噪には、理由があることを、禎理は知っている。もうすぐ、この街の守護神である芸術を司る神の為の音楽祭が開催される。

 神殿の鐘が、三時課の時を打つ。その鐘を合図にして、禎理は市庁舎の中に入って行った。

 市庁舎の中にある受付で、昨夜の手紙を見せる。禎理はすぐに、二階の広場側にある部屋に通された。

「ようこそ、禎理」

 部屋の、ガラス張りの窓から外を見ていたほっそりとした影が、振り向く。すぐに禎理は、彼女が昨日の藤色のワンピースを着た女の人であると気付いた。

 そして。

「それとも、『久しぶり』と言った方が良いのかしら?」

 次に出て来た、女性の言葉に、虚を突かれる。『久しぶり』とは、どういうことなのだろうか?

「覚えていないの?」

 何も言わない禎理にしびれを切らしたのか、強い口調が飛んでくる。

「それとも、幽霊? まあ、死んだことになってるしね、あなたは」

 ますます、訳が分からない。何も言えないまま、禎理は女性の言葉に耳を傾けた。

 禎理が九つになる年の初秋、禎理は父と共にこの街に来、女性の父の許に預けられた。女性の父も祖父もは歌い手として名高く、禎理の父も若い頃、短期間だが女性の祖父の許で歌の修行を行っていたが為の縁で禎理はこの街に預けられたのだと、女性は後に女性の父から聞いている。だが、毎年晩秋に行われるこの街の音楽祭の後、禎理と、禎理と同じように歌の修行をしていた女性の兄が行方不明となり、遺体が一つ、街壁のすぐ側に広がる森の中の、森と街と芸術を守護する女神を祀る祠の前で見つかった。女性の父は、狼に喰われて顔の判別すらできなくなっていたその遺体を禎理だと断じ、禎理の父にもそう手紙を書いた。それからずっと、女性の兄は行方不明のままであったし、禎理の父からも何の連絡もなかった。……禎理が、現れるまでは。

「父は、認めたくなかったのね。兄が死んでしまったなどと」

 泣いている声が、響く。

 いつの間にか、女性の顔は、禎理のすぐ前に、あった。

「でも、あなたがここに居るのなら、兄、は……」

 泣いているのか、それとも怒っているのか、女性の表情からは読み取れない。でも、多分、怒っているのだろう。禎理は確かにそう、感じた。


「……で、森の中、って訳か?」

 背後から、呆れたようなエクサの声が響く。

「仕方ないだろ」

 その声に、禎理はエクサに背を向けたまま返した。

 市長の姪、ジュリアという女性に逢った後、禎理の足は街の外に広がる森の中へと向かっていた。その理由は勿論、女性が言った、自分の過去についての物事を思い出す為。

 禎理には、十二歳までの記憶が朧気にしか無い。十二になった春に、家族を一度に流行病で亡くしてしまったからだと、禎理の話を聞いた人は皆、言う。だが。……何か別の『力』が、禎理の記憶に作用している可能性も、否定できていない。だから、知りたいのだ、本音を言えば。女性の言った「この街で歌の修行をしていた頃の自分」の記憶を取り戻すことができれば、他時の記憶もいつかは取り戻すことができるのではないか。短絡的な考えかもしれないが、それが、禎理が森の中に足を運んだ理由の一つ。

 それに。……目の前で、自分の所為で泣いている人を、放っておけるほど、禎理は冷たくは無い。

 しかし、街を出る前に出会ったエクサが森まで付いて来るとは思わなかった。禎理はそっと肩を竦めた。おそらく、話に出てきた『祠』に興味を持ったのだろう。それとも。

 全く、禎理はお人好しなんだから。戯言など、放っておけばいいだろうに。そんなことをぶつぶつ言っているエクサを無視し、禎理は森の奥へと歩を進めた。

 しばらく行くと。

「これか?」

 森と言うより林と言った方がよいかもしれないくらい疎らな木々の間に、禎理の背丈の倍はある岩が立っているのを見つけて、エクサが大声を上げる。

「だろうね」

 立ち止まった禎理も、森には不釣り合いな鈍い光沢を持つ岩と、その横にある、門のようなアーチを作っている二本の木、そしてその木々の後ろに続く狭くて急な階段を見つめた。

「木の上にある祠、か」

 木のアーチを潜り、今にも壊れそうな階段に片足をかけて上を見上げながら、エクサが呟く。禎理はただ黙って、エクサの言葉に頷いた。

 大木の、二股に分かれた枝の間に置かれた小さな祠は、芸術、特に音楽を愛する女神のもの。ツィクロイーダの街中にもこの女神を祭る聖堂はあるが、本殿はこの祠、だ。

「と、……『歌碑』、だな、これは」

 そして。ふいと横を向いて、エクサは少しだけにやりと笑った。

「珍しいものがある」

 『歌碑』も、古代の民嶺家一族が残した魔法の品である。これはと思う大きな岩の表面を綺麗に磨き、文字のような模様を刻み付けた、『石版』の巨大版のようなものである。この『歌碑』に触れると、何らかの呪力が籠められた『歌』が、触れた者の意思に構わずその者の口から溢れ出してくる仕組みになっている。だが、『歌碑』に触れてその呪歌を歌える者は、この世界に一握りしかいない。特別な『力』が必要である、と伝説は伝えている。逆に言うと、『歌碑』から歌を引き出せるということは、その人は特別な『力』を持っている、ということができるだろう。

 この『歌碑』が持つ、実際の力は分からないが、おそらく、この『歌碑』があるから、人々はここに芸術の女神を祭る祠を作ったんだな。エクサは一人そう、呟いた。

「触っちゃダメだよ」

 『歌碑』に手を伸ばしかけたエクサに、そう、声を掛ける。禎理もそうだが、エクサも好奇心に負けて危険を顧みないことが多々ある。古代の珍品だからという理由でこの『歌碑』に触れてしまうのは、おそらく、危険過ぎる。

「分かってるって」

 何時になく素直に、エクサは手を引っ込めた。

「実を言うと、ちょっと嫌な感じはしてたんだ」

 エクサも、感じたのか。警戒するように、禎理はもう一度『歌碑』を見つめた。祠はともかく、この『歌碑』は、近づく者に幸運よりも不運を与えそうな感じがする。

 と。

「もう、少し」

 エクサの声で、我に帰る。禎理が『歌碑』に警戒を抱いている間に、エクサは身を屈め、両手まで使って祠への急な階段を半分ほど昇ってしまって、いた。

「エクサ!」

 階段の上でふらついたエクサに、思わず叫ぶ。次の瞬間、バランスを失って階段から『歌碑』の方へと落ちたエクサの小柄な身体を、禎理は受け止めていた。だが。勢いまでは殺せなかった。慣性のままに、禎理の身体はエクサを抱えたまま、後ろへ、歌碑の方へとよろめいた。

 背中の衝撃と共に感じたのは、固く冷たい石の表情と、怒りのような熱い感情。

「禎理!」

 エクサの鋭い声で我に帰った時には、禎理は石よりは温かな土の地面の上で呻いていた。

 意識が、朦朧としている。この感覚は、エクサに『石版』を持たされた時の感覚と同じだ。いや、それよりも更に強い。と、すると。背中が『歌碑』に当たった時に、『魔力要素』の大部分を奪われてしまったようだ。

「禎理! しっかりしろ! どこか痛いのか?」

 すぐ側にいる筈の、エクサの声が、遠い。

「これは……、街に帰った方がいいな」

 禎理と同じくらいの背丈の、小柄なエクサが、自分を街まで運ぶことができるのだろうか? そんな場違いなことを考えながら、禎理の意識はゆっくりと闇へと溶けて、いった。


 目を開けると、見慣れた天井の木目が、禎理を優しく出迎えた。

 ここは……。ぼうっとする頭で、考える。ここは、ツィクロイーダの街の、禎理とエクサが仮宿している部屋、だ。部屋の明るさからすると、昼を少し過ぎた頃合い、だろう。

「あ、禎理」

 エクサの声に、頭を動かす。隣の部屋との境目に、水差しを持ったエクサが立っているのが見えた。

「やっと気が付いたか。四日も寝てたんだぜ」

 言葉は投げやり気味だが、明らかにほっとした表情が、禎理の目の前に来る。

「全く。ここまで運ぶのに余計な魔力は使うわ、ここの藪医者に診せるのに余分に金は掛かるわ、昨日から祭りで外が騒がしいのに禎理は目覚めないわ、大変だったぜ」

 そう。禎理がそれだけ呟くより早く、エクサの冷たい手が禎理の額に触れる。おそらく、エクサはその間ずっと、禎理の看病をしていたのだろう。エクサの目の下の隈に、禎理は心の中でくすっと微笑んだ。

「安心したら、腹減ったな」

 一くさり、文句を言ってから、エクサは禎理が横になっているベッドの横にポンと腰を下ろして禎理を見た。

「祭りに行けるほど、体力あるか?」

 そう言えば。日頃「煩いのは嫌いだ」と言っているにも関わらず、エクサは『お祭り』と名の付くものが好きだった。再びのくすり笑いと共に、そのことを思い出す。正確には『お祭りに出ている屋台の甘い食べ物』が好きなようなのだが。

 寝返りを打って俯せになってから、腕の力で起き上がる。『歌碑』とぶつかった背中は少し疼くが、他の場所は特に問題はない。

 起き上がると、先ほどまで微かにしか聞こえてこなかった外の喧噪がはっきりと分かる。

「うん、大丈夫だな」

 ベッドから起き上がった禎理に、エクサはにっと、笑った。


 晩秋らしく、外の風は冷たい。

 だが、街の通りという通りは、冷たい風などものともしない活気に満ち溢れて、いた。

 四辻のあちこちで、人々が楽器を演奏したり歌を歌ったりしているのが見える。森の中の女神を祭るに相応しい、芸術と音楽の雰囲気が、街の至る所に溢れかえっていた。

「お、禎理。見てみろよ」

 街の真ん中にある広場で、ねだられて四つ――禎理が一つ、腰巾着の魔物模糊もこに一つ、そしてエクサが二つ――買ったクレープを頬張っている禎理の袖を、エクサが強く引っ張る。エクサの指し示す方を見ると、一際大きな人だかりと、その人だかりの真ん中に、おそらく何かの台の上に立っているのだろう、頭一つ分出ている人の姿が見えた。

「飛び入り参加でも、上手い歌を歌った奴に賞金が出るらしいぜ」

 耳聡くそう聞きつけると、エクサが禎理を見てにやりと笑う。エクサの考えを、禎理は手に取るように理解していた。天楚市では、禎理の歌はかなりの評判になっている。だが、音楽と芸術の街で、専門に一生懸命練習している人々を相手にして、自分の技が通用するだろうか。何時になく、禎理は臆した。

「大丈夫だって」

 そんな禎理の背中を、エクサが押す。

「下手でも参加賞で飴が貰えるらしいし」

 エクサの言葉に、苦笑する。

 そして禎理は、人込みをかき分け、この催しを仕切っている中年の男に声を掛けた。

 すぐに、普段は葡萄酒が入っているであろうステージ代わりの空樽の上に立たされる。

「……天楚の戯れ歌を一つ」

 注目するたくさんの瞳に、一瞬、臆する。

 禎理はごくんと唾を飲み込むと、息を吐いて気持ちを落ち着かせてから、最近作った創作戯歌を歌った。いつものように、声が出ていないのは、先ほどまで眠っていた所為だろうか。自分では良い出来だとは思わなかったが、口を閉じた瞬間、割れんばかりの拍手が禎理を包んだ。

「いつものことながら、やっぱり上手いな」

 樽から飛び降りた禎理に、エクサが抱きつく。

「これで賞金はイタダキだぜ」

「上手く、なったのね、禎理」

 ふいに、聞き覚えのある女の人の声が、禎理の耳に響く。エクサから離れて横を向くと、例の市長の姪、ジュリアが禎理の方を睨むように見つめていた。

「昔は、ここで歌うことすらできなかったのに」

 その声で、景色が、変わる。

「……泣くなよ、禎理。もっと自信持てよ」

 慰める口調の、男の子の声が、確かに、聞こえた。

 その男の子の方は、ステージに立って歌うことはできたけれども、あまりにも下手過ぎて観客からの顰蹙を買った。

 そして……。

「禎理?」

 エクサの言葉で、我に帰る。

 思い出した。自分は確かに、小さい頃、この街に、いた。ジュリアと、その兄クライスと共に、この街で歌と音楽の勉強をしていた。そして。この音楽祭で、自分は臆して歌えず、音楽の才能が無かったクライスは皆に馬鹿にされた。その悔しさを晴らす為に、クライスは女神が祭られているあの祠へ、禎理を誘って行ったのだ。そして……。

 そこまで思い出した禎理の耳を、いきなりの鐘の音が打つ。

「えっ?」

 戸惑うジュリアの声が、鐘に混じって響いた。

「今日は夕方まで鐘は鳴らさない筈よ! 確かめて来て!」

 鋭く命令するジュリアの声に、男達が広場側の聖堂へと姿を消す。

 そしてすぐに、戸惑った顔と共に男達はジュリアの側に立った。

「聖堂には、誰も居ません!」

「鐘を鳴らす為の綱も、見当たりません!」

「そんな、馬鹿な!」

 止まらない鐘の音に、街中の人々が広場に集まってくる。人々の動きに釣られるように、禎理も聖堂の上の鐘楼を見上げた。

 と。

〈あれ、は……?〉

 鐘の横に見えた影に、思わず首を傾げる。その影はどう見ても、長い髪に緩やかなローブを纏った女の人にしか見えなかった。そして。……どこかで、あの影を見た覚えが、ある。禎理は確かにそう、感じた。

「女神様が、怒っていらっしゃる」

「誰か、怒らせるようなことをしたのか」

 人々の声に、はっとする。あの影は、……あの祠に祭られている、女神なのか?

 と、すると。

「鐘が鳴る直前に歌っていた人間を捜せ!」

 ふいに、太い声が耳に響く。

 鐘楼を見ていた視線を下ろすと、いつの間にか、ジュリアの横に恰幅も服装も良い老人が立っていた。胸の徽章から察するに、おそらく、この街の市長だ。

 市長の声に、何人かの腰に剣を佩いた男達が散らばる。

「まさかとは思うけど」

 突然、腕を掴まれて、禎理はびくっと震えた。

「あなたも、歌ってた」

 横を向くと、厳しい顔のジュリアが禎理の腕をきつく掴んでいるのが見える。禎理が逃げないように、という想いからなのだろうが、そんなに青い顔をしなくても。禎理はそう思い、こっそり溜め息をついた。自分は、逃げない。逃げられる訳が無い。女神が探しているのは、禎理自身なのだから。

 街の人々にこれ以上の迷惑はかけられない。禎理は唇をきゅっと噛み締めた。


「……何を、する気なんだ、奴らは?」

 夕刻の森の中を歩きながら、エクサがそっと、禎理に問う。明らかに不快げに顔を歪めたエクサに、禎理は少しだけ、首を横に振った。

「わざわざご丁寧に、後ろ手に縛ってくれちゃって」

 今度は大声。

「エクサ」

 禎理とエクサの周りに居る男達が腰の剣を抜く前に、禎理はエクサを宥めて黙らせた。それでも、まだまだ文句があるらしい。エクサは膨れっ面を崩さない。「付いて行く」と言い張ったエクサを禎理の側に置いているだけで、彼らは十分寛容だと思うけど。エクサには分からないように、禎理は溜め息をついた。

「ちゃんと歩いて!」

 背後上方から、ジュリアの声が響く。再び怒り出しそうなエクサを、禎理は再び、首を横に振ることで何とか宥めた。

 街の中央にある聖堂の鐘が鳴り止まないことを受け、市参事会は緊急に協議を行った。そして、「鐘が鳴り始める直前に歌を歌った者の歌が、女神の怒りに触れたに違いない」という結論に至った市参事会はすぐに該当する者を探したのだが、その時間歌ったのは禎理しかいなかったらしい。だから禎理は、後ろ手に縛られ、周りを市警護の都市騎士達に囲まれて森の中を歩いている。

 顔を上げると、背の高い騎士達の向こうに、馬に乗った騎士隊長と、同じく馬に乗った聖堂の司祭の不安そうな背中が見える。殿で馬に乗っているジュリアも、不安に思っているのだろうか? 振り向きたくなる衝動を、禎理は堪えた。……振り向くと、きつい声が飛んでくるだろうということは、簡単に予想できたから。

「止まれ!」

 騎士隊長が、叫ぶ。

 いつの間にか、禎理達は件の祠の前に辿り着いていた。

 禎理の周りに居た騎士達を帰した騎士隊長が、禎理の腕を縛っていた縄を切る。その横に居た司祭が、禎理に前に出るよう、身振りで示した。

「何を、すれば……?」

「『歌碑』に、触って」

 戸惑う禎理の耳に、ジュリアの鋭い声が響く。

「触って、どうするんだ?」

 すぐに、エクサの声が割って入って来た。

「触って、呪歌を歌うことができれば、後は女神様の判断ね」

「歌えなかったら?」

 エクサの次の問いに、ジュリアは唇を引き結んだまま、何も答えなかった。

 歌えなければ、分かっている。命を落とす。それだけだ。これまでこの碑に触れてきた、愚か者と同じように。

 一呼吸置いてから、禎理は『歌碑』に手を、伸ばした。

 すぐに、吐き気のような感覚が、禎理を襲う。俯くことで、禎理はその気持ち悪さを何とか回避した。次の瞬間。爆発するような大声が、禎理の口から溢れ出した。

〈な……〉

 自分の声とは違う声に、戸惑う。この声は一体、どこから出て来ているのだろうか?

 と。

「久しぶりだな、禎理」

 涼やかな声に、はっと顔を上げる。

 禎理の目の前に、緑色のローブを羽織った黒髪の背の高い女性が立っていた。

〈あなた、は?〉

 思わず、そう問う。だが、この女性が、この祠に祭られている、森と街と芸術を愛する女神であることは、すぐに分かった。

「やっと、思い出してくれたか」

 禎理の心を読み取ったのか、女神が優しい笑顔を見せる。

「忘れさせたのは、妾だがな」

 思い出した。と同時に、苦い想いが禎理の心を満たす。音楽祭で歌えなかった禎理と、歌を馬鹿にされたクライスは、大人の目を盗んでこの祠に来、二人で同時に『歌碑』に触れた。そして。……気が付くと、クライスが地面に倒れていた。

「妾はそなたを気に入ったのに、そなたは泣いてばかりだった」

 死んだ友のことを忘れさせ、自分が教える音楽に集中させる為、女神は禎理に魔法を掛けた。そして、自分が知る技の全てを教えた後、禎理を禎理の父の元へ返した。女神はそう、禎理に向かって呟いた。

「何故!」

 ふいに、女の声が割って入る。ジュリア、だ。

「何故、あなたは兄を選ばなかった?」

 ジュリアの声は悲痛に満ちており、禎理は思わず耳を塞ぎかけた。だが。ジュリアの怒りは、自分にも原因がある。逃げては、ダメだ。禎理は下を向き、歯を食いしばった。

「知れたこと」

 ジュリアの問いに答えた女神は、女神らしくあくまで傲岸だった。

「気に入らなかった。ただそれだけだ」

「そんな!」

 ジュリアの声に、心が疼く。耳を塞ぐ代わりに、禎理は女神に詰め寄ろうとしたジュリアの身体を押さえるように抱き締めた。

 尊大な笑いが、禎理の耳を打つ。振り返ると、いつの間にか、女神の姿は見えなくなっていた。代わりに広がるのは、闇ばかり。

「大丈夫か! 禎理!」

 エクサの声に、抱き締めていたジュリアの身体を放す。

 森には既に、禎理とジュリア、そしてエクサの姿しか、無かった。

「司祭と騎士団長は、早急に逃げてったぜ」

 心底忌々しそうに、エクサが地面に唾を吐く。

 ジュリアを街まで連れて帰るのに、エクサと自分だけで大丈夫だろうか? 禎理はふと、不安に駆られた。

 そして。

「ごめんね、ジュリア」

 囁くように、そっと、呟く。

 クライスの蛮行を止めず、死に至らしめてしまった責任は、禎理にある。だから禎理は、心から、ジュリアに向かって頭を下げた。

 次の瞬間。頭に響く痛みに、身体がふらつく。殴られたのだ。そのことに気付くまでに、しばらく掛かった。

 顔を上げると、暗い森の中を街の方へ向かって走り去って行くジュリアが見える。

「しばらく、放っておくしかないようだな」

 エクサの言葉に、禎理は悲しく、頷いた。

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