妖精の鈴
昼寝から目覚めると、部屋はしんと静まりかえっていた。
その静けさに誘われるように、キイロダルマウサギの模糊はのそのそと自分の寝床から這い出し、うーんと大きくその丸い身体を伸ばした。
どうやら、模糊のご主人様、禎理は、模糊が眠っている間にどこかに出かけてしまったらしい。模糊はゆっくりと辺りを見回すと、自分の寝床から禎理のベッドに飛び降り、その反動で窓枠まで飛び上がった。
濃い色の小さい硝子を集めて作られた窓に全体重をかけて少しだけ開ける。とたんに、冷たい風が小さい身体に容赦なく襲い掛かってきた。
しかし、寒さを我慢して外を見ると、スレート葺きの小さな屋根の上に柔らかい雪が積もっているのが分かる。
模糊は窓の隙間をすり抜けると、雪の中へとポンと軽く飛び込んだ。
模糊が食べ物と禎理の次に好きなもの、それが雪である。
はじめは、ふわふわな外見に似合わず冷たいのに驚いたが、口に含んでみるとしゃりしゃりとしておいしく、又きらきらと光る様が楽しい為、冬になると雪の上で遊ぶのが模糊の日課になってしまったのであった。
屋根に積もった雪は、夕方の太陽の光を受けてきらきらと赤く輝いていた。
その綺麗な赤い雪を一口食べる。
いつものように、雪は模糊の口の中でしゃりしゃりと楽しげな音をたてた。
もう一口。模糊はその小さな腕で雪を掬うと、その雪が零れないうちに大急ぎでぱくりと頬張った。
と。
……ガチッ。
歯の間で鳴るいつもとは違う音に、模糊はびっくりして口の中のものを吐き出した。
その口の中から出てきたのは、小さな金色の鈴。模糊の手の中に収まりそうなその本当に小さな鈴は、雪の上を跳ねて澄んだ音をたてた。
その音に魅せられて、雪の中からそっと鈴を拾い上げる。手の中の鈴は、他のどんなものよりも綺麗だった。
こんな素敵なものは見たことない。模糊はうっとりと鈴を眺めた。
と、その時。
「あ、あたしの鈴!」
不意に聞こえた細い声に、模糊ははっと声のした方を見た。
そこにいたのは、模糊と同じくらいの背丈をした『人間』の女の子。ただ、背中に薄い羽根を付けているのが普通の人間と違う。
これは一体『何』だろう? 模糊が首を傾げた丁度その時。
「返して!」
その『女の子』は模糊に向かってその細い手を伸ばすと、模糊が持っていた鈴を取ろうとした。
取られてなるものか。これは『ボクの鈴』だ。とっさにそう思った模糊はさっと後ろに飛び下がると、鈴を持ったまま窓の隙間から禎理のベッドに飛び降り、再び反動をつけて床に降りてから又大急ぎで向きを変えてベッドの下に潜り込んだ。
「……あー、あのダルマウサギ、どこに消えたのー!」
ほの暗い場所に隠れてほっとした模糊の耳に、細い声が微かに聞こえてくる。どうやら、あの小さな『人間』は模糊がここに隠れているのが分からないらしい。
これで鈴は守れた。模糊は嬉しくて仕方なかった。
「……ただいま、模糊」
夕食の買い出しから帰ってきた禎理は、窓が少し開いているのを見てまたかと溜息をついた。
模糊の雪好きは禎理も知っている。しかし屋根の上で遊ぶのは危なすぎる。禎理の部屋からすぐの場所にある屋根はかなり狭くそして急勾配なので、模糊がいつ転げ落ちても不思議ではないのだから。禎理はいつも模糊に危ないと言い聞かせてはいるのだが、どうやら模糊の頭に『落ちる』という単語は無いらしい。
「模糊、もうそろそろ帰っておいで」
そのままにしておくと寒いので、禎理は窓を閉めるついでに模糊を呼んだ。
と。
不意に、禎理の目の前に予想だにしないものが現れる。
「妖、精?」
目の前にいる『それ』に、禎理は思わず目をみはった。
禎理の掌ほどの小さな人間の姿で、薄い羽をぱたぱたと動かして飛んでいるそれは正しく、森や草原などでたまに見かける『妖精』だった。
しかし街中で妖精とは珍しい。何故こんなところに妖精が? 禎理は小首を傾げた。
そんな禎理の目の前で、妖精は何か言いながら両腕をぶんぶん振り回している。妖精の言葉は禎理には分からなかったが、見たところ、この妖精はとても困っていて、かつとても怒っているようだ、というのは禎理にも何となく分かった。しかし、何が原因で、となると、そこまではさすがに分からない。
とりあえず模糊を呼ぼう。そう思った禎理は再び窓を開けてきょろきょろと模糊を捜した。
が、目に見える範囲にはいない。
もしかして、下に落ちたのでは。禎理がそう思ったその時。
チリーン。
澄んだ音が部屋中に響くのを、禎理も妖精も聞き逃さなかった。
音がしたベッドの下を探る。何かを大急ぎで抱えた模糊が、そこにいた。
模糊が何を持っているかは禎理には見えなかったが、模糊の真剣な瞳から全てを理解する。
禎理は模糊を半ば無理矢理ベッドの下から引っ張り出し、その手にしっかりと握られていた鈴を取り上げた。
そしてその鈴を、妖精に差し出す。鈴を受け取った妖精は禎理にぺこりとお辞儀をすると、次の瞬間には風の様に消え去って、いた。
後に残ったのは、禎理と、ぶっと頬を膨らませた模糊。
「……模糊、ごめんな」
禎理は模糊の頭をくしゃくしゃと撫でて言った。
「でも、あれは妖精にとって命よりも大切なものなんだ」
それでも模糊は禎理の方を見ようともしない。
よほど怒っていることだけは確かだった。
「模糊、これあげるから機嫌直して」
夕食の包みからまだ温かい肉饅頭を取り出し、そっと模糊の目の前に置く。
その肉饅頭を、模糊は禎理に背を向けてがつがつと食べ始めた。
禎理から貰った肉饅頭を頬張りながら、模糊はふと、まだ少し開いている窓の外を見た。
窓の外にある雪の色は、既に銀色に沈んでいる。あの鈴のようにきらきらした輝きは、もう無かった。
がっかりする模糊の脳裏に、鈴を取り戻そうとしたときの妖精の必死な顔が不意に浮かぶ。
妖精にとって、自分の鈴はとても大切なものらしい。模糊の背中を指で撫でながら禎理がそう呟くのが聞こえてくる。その声を聞きながら、模糊は自分のむくれた心が少しずつ解きほぐされていくのを感じて、いた。
……それでも、あの鈴欲しかったな。
肉饅頭を頬張りながら、模糊は禎理の見えないところで小さい小さい溜息を一つ、そっと漏らした。




