禁忌
シチュー皿を支えていた左手が、いきなり横に引っ張られる。
その時になって初めて、禎理は自分の左側に見知らぬ人物が居ることに気付いた。
「……えっと」
急な展開に何を言って良いか分からず、しばし左隣の相手をまじまじと見つめる。
晩春の昼下がり、天楚の冒険者宿の一つである『三叉亭』に、禎理は遅い昼食を食べに来ているところだった。他の冒険者たちは皆出払っており、先程までは確かに、三叉亭の中には、カウンターに座っている禎理とその隣で小さな皿をつついている悪食のダルマウサギ、模糊しか居なかった筈である。いつの間に店に入り、禎理の横に座ったのだろうか? 思わず、小首を傾げる。
とにかく掴まれたままの左手首を離してもらうのが先だ。でないとシチューが食べにくい。禎理がそこまで考えた、正にその時。
「……誰だ、おまえはっ!」
三叉亭の主人六徳の大音声が、空気を震わせる。
その声で、禎理の戸惑いは跡形もなくふっ飛んでしまった。
だが。
「俺は客だよ、主人」
禎理の左手首を掴んたままの青年は、六徳の声にも怯んだ様子はなかった。
「禎理っていう冒険者に用があるんだけど、とりあえずここの名物のシチューが食いたいな」
睨みつけたままの六徳を冷静に見つめ返し淡々と言葉を紡ぐ。青年の言葉を聞いた六徳は、それでももう一睨み、青年を睨みつけると、すぐにシチューの新しい皿を青年の目の前に置いた。
あの六徳の睨みにも動じないとは、よほど神経が図太いに違いない。ここへ来る冒険者達が六徳の一睨みですごすごと店を去るのを見慣れている禎理は、心底感心して青年を見つめた。あるいは単に怒られ慣れているだけかもしれないが。
それはともかく。
「俺に、用?」
先程の青年の言葉には、自分の名前が確かに出てきていた。
何故、自分の名が? 何の用だろう? 疑問と好奇心を同時に感じつつ、禎理は未だに自分の左手首を掴んたままの青年をまじまじと観察した。
自分と同じ位の背格好に、耳の下で綺麗に切り揃えられているのに横の一房だけ胸元まで垂れている黒髪。無遠慮に観察されていても一向に気にしていないように見える濃色の瞳と、ぎゅっと閉じられたままの薄い唇。そして。視線を下に移した禎理は、青年の服装にはっと一瞬思考を止めた。
黒のローブに灰色の肩布。この服装は、大陸南部にある神殿国家フビニ帝国の神官の服装に間違いない。しかしながら、フビニの神官が自分に何の用があるのだろうか? 禎理はもう一度首を傾げた。……『神官』には、個人的に知り合いがいないわけでもないのだが。
「観察は終わったか? 禎理」
そんな禎理の思考を見抜いたかのように青年がそう、声を上げる。
「え。……ああ」
無遠慮に観察し過ぎたかもしれない。思わず、身を縮める。
だが、禎理が答えるより先に、青年は右手で禎理の左手首を掴んだまま空いた左手で器用にシチューを頬張り始めた。
「うん、確かに旨い」
「あの」
満足げに声を上げる青年に、そっと声をかける。
「左手離してくれると助かるんだけど」
禎理の左手首を掴んでいる青年の腕は、禎理の腕よりも華奢である。振りほどこうと思えば簡単に振りほどけるだろう。だが、何故だか分からないが、それはしてはいけない気がする。だから禎理は、ただ静かにシチューを頬張る青年を見つめた。
「……あ、そうだ」
そんな禎理の気持ちには全く構わず、青年はあくまでマイペースだった。シチューを食べていた手を不意に止めると、匙を離した手で懐を探り、羊皮紙製の細い巻き物を禎理の前に放って寄越した。
「これを師匠から預ってたんだった」
そして再び匙を手にとり、シチューを頬張る。余りのマイペースぶりに少々呆れつつ、禎理はカウンターに転がった巻物を手に取った。
だが。
巻物の封を見て、瞬時に背中に緊張が走る。この封の印章は、見たことがある。禎理が昔、一冬ほど世話になったフビニの神官ボルツァーノの印章ではないか。
大急ぎで、右手だけで封を剥がす。
広げた羊皮紙に書かれていたのは、たった一行。
――しばらくの間、エクサを頼む。
〈何、これ?〉
その一行を見つめ、しばし悩む。確かに、ボルツァーノは破天荒で非常識な人物だったが、まさかここまでとは。
とりあえず、ボルツァーノはこの目の前の神官――名前は多分エクサ――のことを禎理に頼んでいる。それだけは分かる。だが、具体的に何をどうして欲しいのか――追手から匿って欲しいのか、それともエクサを手伝って何かを探し出して欲しいのか――、そこのところがこの手紙だけでは分からない。
色々悩むより、目の前の人物に訊いた方が手っ取り早い。そう思い、禎理は口を聞いた。
だが。
「あー、美味しかった」
シチューを平らげたエクサの右手が、掴んたままの禎理の左手を強く引っ張る。
「と、いうことで、当分世話になるから。……まずはこの街でも案内してもらおうかな」
禎理の都合を全く考えないエクサの言動に、呆れるより前に苦笑してしまう。
具体的な依頼内容は、後でゆっくり聞けば良いか。禎理は半ば無理に納得すると、三叉亭のカウンターの椅子からすっと滑り下りた。
天窓から下りてきた月明かりが、優しく辺りを照らす。
痛む左手首を優しく撫でながら、禎理はふっと何度目かの溜息を漏らした。
すぐ横にある、禎理の部屋の禎理専用のベッドでは、神官エクサが微かな寝息を立てている。禎理のベッドは幅が広く、禎理とエクサの二人が横になっても十分広いのに、エクサが「一人で寝たい」と言い張った為、自分の部屋にも拘わらず禎理が床に寝るはめになってしまったのだ。
〈……全く〉
このエクサに振り回された半日を思い、もう一度溜息をつく。好奇心旺盛なのは禎理も同じだが、どんな物にも詳しい説明を求められると、流石に疲れてしまう。禎理だって天楚の全ての物事を知っているというわけではないのだ。
〈さて〉
ボルツァーノからの書状を広げつつ、再び溜息をつく。今日天楚を歩き回っていた時のエクサの言動と、ボルツァーノの書状に書いてある言葉を考え合わせると、エクサは当分天楚に居ることになるらしい。早くエクサの下宿先を見つけなければ。でないとずっと床で寝るはめになってしまう。禎理は肩を竦めると、開いたままのボルツァーノの書状を、擦り切れた絨毯の上にそっと置いた。
月の光が、書状の文字をはっきりと浮かび上がらせる。
次の瞬間。
「……えっ?」
書状から浮かび上がって来た黒髪黒服の人物に、禎理は思わず目を擦った。
「久しぶりだな」
禎理の戸惑いには全く構わず、書状を書いた本人、フビニの幽霊神官ボルツァーノが禎理の目の前でにっと笑った。
「ボルツァーノ!」
「しっ!」
大声をあげた禎理を、言葉一つで制する。
「エクサが起きる」
「はい」
やはり、と言うべきか。ボルツァーノは書状に細工をしていた。と、すると、もしかしなくとも、禎理への依頼内容はエクサには聞かれたくないことなのかもしれない。禎理はあわてて口を閉じると、書状の前に座り直した。
依頼に関して具体的な指示を聞けるかもしれない。いや、それよりも、聞きたいことが山ほどある。
「玄理は? ルドルフとブラヴェは? フレネーも元気なの?」
矢継ぎ早に、ボルツァーノの許でフビニの臨時武官をやっていた時に知り合った者たちの名を口にする。玄理は事情があって禎理が半ば強引に神殿に連れて来た神官候補の男の子、ルドルフとブラヴェはボルツァーノの学寮に居た神官候補の学生、そしてフレネーは、ボルツァーノの秘書的存在ともいえる神殿文官。皆掛け替えの無い、大切な人達だ。
「おいおい、俺の無事は聞かないのか?」
ボルツァーノの呆れ声に、はっとする。
「まあ良いが」
禎理の内心の焦燥には構わず、ボルツァーノはふっと苦笑してから、彼らの近況を話し始めた。それによると、ルドルフとブラヴェはブラヴェの故郷で神殿武官と文官として活躍しており、玄理も元気に修行に励んでいるという。
ボルツァーノの言葉に禎理は心底ほっとした。特に玄理は、謂われ無き苛めに腹を立てた禎理が半ば強引に引き取って来た経緯がある。だから特に心配していたのだった。
「で、フレネーは?」
禎理の次を促す言葉に、ボルツァーノの口の端が微かに引きつる。何かあった。禎理の不安はすぐに証明された。
「フレネーは、……死んだ」
静かに告げるボルツァーノの言葉が、禎理の胸を突く。
「事故だ。エクサを……」
そこまで言ったボルツァーノの言葉と姿が、不意に消える。
急に影が差したのに気付いて顔を上げると、いつの間に目覚めたのか、禎理のすぐ側にエクサがすっと立っていた。
「エクサ?」
逆光の所為で、顔は見えない。だが、どこか悲しげで、それでいて怒りに満ちた気配だけは、はっきりと感じ取ることができた。
「エクサ」
もう一度、声を掛ける。
だが、エクサは、黙ったまま禎理の目の前に置かれたボルツァーノからの手紙を拾うと、おもむろにそれを破り始めた。
静かな空間に、紙の破れる音だけが響く。書状を、影も形も無くなるほど細かく破り捨てると、エクサは無言のまま禎理に背を向け、ベッドへと戻った。
再び眠りについたエクサの規則正しい寝息を確かめてから、それまで張りつめていた息を吐く。禎理の周りには、羊皮紙の断辺が不様な汚れのように散らばっていた。
明日朝一で掃除しなければならないな。ふっと、溜息をつく。
それよりも。
「フレネー」
先程ボルツァーノに告げられた事実が、再び禎理を襲う。ボルツァーノ付きの臨時武官としてフビニの首都エルミの神殿にいた半年間、フレネーには何くれとなく世話になった。苦労を厭わない、穏やかで世話好きな青年だったのに。
だから。
月の光の下、禎理はそっと手を組むと、フレネーの魂の為に祈った。
エクサの下宿先を探すのには、少々の困難を伴った。
エクサが提示したただ一つの条件「爆発を起こしても大丈夫な部屋」に合致する場所が、天楚には少なかったからだ。……「爆発」という言葉が条件に入っている時点で、市内では絶対無理だと禎理は思っていたのだが。
市街が一夜にして焼亡する『天楚大火』以来、天楚市では火を用いる作業が他の都市より厳しく規制されている。火を使って作業ができるのは、鍛冶屋や細工屋が集まっている一角だけだ。だから禎理は、鍛冶の腕に長けた一族『茶人』の冒険者ヴァルガに頼み、部屋を一つ仲介して貰った。
「ここなら、少々爆発しても大丈夫だろうて」
禎理とエクサに半地下の作業場を見せながら、ヴァルガが太鼓判を押す。ヴァルガが見つけてきたのは、茶人達の居住区のど真ん中にある小さな家屋だった。
「壁も天井も丈夫に作ってあるし、上は空屋だ」
確かに、家の作りは小さいし天井も茶人用に低めだが、壁は石組みで柱も梁も太い。堅牢そうな建物に見える。
「ここで良い、エクサ?」
傍らのエクサにそう尋ねる。
当のエクサは、茶人が珍しいのか、薄明かりの中でヴァルガばかりしげしげと見つめていたが、ふと禎理の左手首をぎゅっと掴むと、禎理を部屋の奥にある作り付けの竈の所まで引っ張って行った。
「……うん、よし」
一人頷くエクサに、苦笑しつつも首を傾げる。エクサは一体何を確かめたのだろうか?
「ここにする。ありがとう」
禎理の左手首を掴んだままヴァルガの側まで戻ったエクサは、そこでやっと禎理の腕を離し、懐から重そうな袋を取り出した。
「家賃はとりあえずこれくらいで良い?」
そしてその袋ごと、ヴァルガに渡す。袋を受け取ったヴァルガの顔が驚愕に歪んでいくのが、薄明かりでもはっきりと分かった。
「と、とりあえず、一年分ならこれくらいでいい」
声を震わせながらヴァルガは袋の中から金貨を取り出して数え、そして押しつけるように袋をエクサに返した。
「上の部屋も空いてるから、好きに使ったらいい」
それだけ言い残し、ヴァルガはそそくさと部屋を後にした。
「……お金、持ってたんだ」
ヴァルガの姿が見えなくなってから、おもむろに、ある意味当たり前のことを尋ねる。
「もちろん。ボルツァーノ師匠の金だけどな」
そして、これまたある意味当たり前のエクサの言葉に禎理は心底ほっとした。とりあえずこれで、エクサの生活費のことを心配しなくても済む。しかしながら。先ほどのエクサの行動に危惧を覚えたのも確かだ。もしかしてお金の要ることは全て禎理が一々面倒をみないといけないのかもしれない。エクサに見えないところで、禎理はそっと溜息をついた。
「あれが茶人か。面白い種族だな。とくに外見が」
一方、禎理の内心の不安にも拘わらず、エクサはあくまでもエクサだった。
「色んな奴が居るんだな、天楚には」
「エルミにだって、茶人は居る筈だよ」
エクサの言葉に疑問を感じ、思わず口を挟む。エクサが居た神殿のある、フビニ帝国の首都エルミも、天楚と同じ『国際都市』だ。大陸中から集まって来た巡礼の人々や、神殿の為に働く人々などでごった返していた筈である。禎理自身、そこに滞在していた時に、茶人も見かけたことがある。
「ん、ああ、……エルミじゃ外出しなかったし」
そんな禎理の疑問は、エクサの言葉で氷解する。
「エルミに引き取られるまでは、ずっと親父と二人暮らしだったし」
エクサが出まれたのは、フビニ帝国の北の端にある森の中。その森を所有する貧乏貴族兼神官くずれの父親に魔術と錬金術を教わりながら成長したという。
「錬金術……」
エクサの話に出てきた、一つの単語に嫌悪感を抱く。だが、その嫌悪感を、禎理はエクサに分からないようにごくりと飲み下した。
「俺はフビニで法術は習ってない。魔術の制御の仕方は習ったけどな」
暴君だった父親亡き後、しばらくの間は独りで書物を読みながら生活していたエクサがボルツァーノに拾われたのは、今からおよそ六年前、丁度禎理と入れ違いである。
そしてたった五年で、フビニ帝国の支配階級である神官の地位にまで昇りつめた。
「まあ、神官の試験なんて、俺には簡単過ぎたけどな」
昔を思い出したような顔を少しだけ見せて、すぐに元の顔に戻る。
「でも、厳しいんだよな、神殿の生活は。……追い出されてほっとしたぜ」
そしてエクサは再び、禎理の左腕を掴んだ。
「あとは道具を揃えなきゃな」
そう言いつつ、外への短い階段を駆け上がるエクサ。
「道具?」
そのエクサに引っ張られてばかりの禎理は、これだけ訊くのがやっとだった。エクサの言葉尻を捉えて、フビニを追い出された理由を聞き出したかったのだが、エクサの唐突な行動には全くついていけない。
しかしながら。
「そう。錬金術の道具。フラスコとか蒸留器とか。あ、坩堝も要るな」
エクサの言葉に、押さえつけていた嫌悪感が再び蘇る。
錬金術だけは、駄目だ。『この世界』を支配する『自然の理』を科学実験を通して読み解こうとする錬金術は、時に、『自然の理』を破ってしまうことがあるという。それだけは、いけない。
だが。自分の感情だけで人の行動を禁止するのは、禎理の性に合わない。それに、大抵の錬金術は、『自然の理』の範囲内のことしかできないと聞く。よく噂で聞く、銅を金に変える術も、結局はまやかしに過ぎないらしい。
それならば、大丈夫だ。……多分。
禎理は無理矢理納得すると、エクサに引き摺られるように市場の方へと向かった。
だが。
市場まで近道しようと人通りの無い小路に入ったところで、禎理は左側のエクサを建物の影に押しやり、腰の短剣に右手を掛けた。
「何?」
訝しむエクサを、背中と左腕で更に小路の影、両側に建つ家屋の僅かな凸凹へと押しやると、微かな殺気を探るように、静かに左右を見回す。
小路の入り口に一人、出口に一人。いずれも黒いチュニックに灰色の肩布を身に付けたフビニ帝国の神殿武官らしき影が、禎理の瞳にはっきりと映った。服装と殺気から察するに、おそらく彼らはエクサを狙っているのだろう。確率高めでそう、推測する。
どう、するか。少しの間考える。敵が二人なら、禎理一人で何とかなるかもしれない。……エクサが、禎理の傍に居なければ、だが。
「エクサ」
短剣を構えながら、背後にそう尋ねる。
「攻撃の手段ある?」
「攻撃魔法なら、一応使えるぜ」
辺りに漂う殺気に気付いたのか、エクサの声は小さかった。しかし怯えているわけでもない。発せられた声は意外としっかりしている。
「発動に少々時間が掛かるけどな」
それならば、期待はできない。エクサの答に禎理は心の中で肩を竦めると、短剣を額の前にかざした。
だが、次の瞬間。
「逃げる方法なら、有るぜ」
不意にエクサが、禎理の左手首を強く掴み直す。次の瞬間、禎理の身体は小路の横に建っていた家屋の屋根の上まで飛び上がっていた。
「晴れてて良かったぜ。『光』の魔術が幾らでも使える」
ご満悦そうなエクサの声が、横で響く。
禎理は恐る恐る、切妻の屋根部分から半分突き出た屋根窓の僅かな平面にそっと足を乗せた。
「とりあえず、こんなもんか」
そっと、振り向く。
禎理の顔を見て、エクサはもう一度にっと笑った。
「もう少し『魔力要素』が溜まったら、もっと遠くへ飛んで逃げようぜ」
エクサがこの言葉を言い終わらないうちに。
不意に、禎理の身体全体が影に覆われる。
敵だ。そう思うより早く、禎理の短剣は飛びかかってきた神殿武官の短刀を鋭く弾いた。同時に、禎理の足がその影を蹴る。禎理に襲いかかってきた神殿武官は為す術も無く地面へと落ちて行った。だが、急勾配の屋根の上でのこと。当然禎理の身体もバランスを崩す。そこに現れたのは、もう一人いた神殿武官。
「うわっ!」
大柄な影に体当たりされ、勢いのままスレート葺きの屋根を転がり落ちる。
エクサが禎理の左手首を離していたことだけが、救いだ。
何とかギリギリで屋根の端に左手の指を引っ掛けることができたが、身体は空中。ここから這い上がることができなければ先程の神殿武官と同じ目に逢うことは自明の理だ。とにかく何とか体勢を立て直してエクサを守らなければ。痺れる腕に何とか力を籠め、禎理は上を向いた。
その、次の瞬間。
途轍もなく眩しい光が、禎理の目を潰す。
何が、起こったんだ? そう考える暇もなく、限界だった禎理の指がスレート板から外れた。
「あっ!」
発した言葉が、急速に離れて行く。
激突する地面の固さを思い、禎理は思わず目を瞑った。
だが。再び急に、落下が止まる。
まだよく見えない目を瞬かせてやっと、禎理は自分の左手首を掴んで空中に浮かんでいるエクサに気が付いた。
次に禎理が感じたのは、爪先から這い上がる地面の冷たさ。しかし先程想像した衝撃よりマシだ。禎理はほっと息を吐いた。
「全く、危ない奴らだぜ」
禎理の側では、まだ禎理の左手首を掴んだままのエクサが、青白い顔で立っていた。
良かった。心からそう思う。自分もエクサも無事だった。
そして。安堵すると同時に芽ばえたのは、一つの疑問。フビニの神殿武官がエクサを狙う理由、だ。禎理自身には神殿武官から狙われる理由が思い当たらないので、神殿武官達が狙ったのは当初の推測通りエクサだろう。だが、何故?
エクサに邪魔された所為でボルツァーノが禎理に言い損ねた、エクサが神殿から追い出された理由が関係しているのだろうか? そんなことを考えながら、禎理はエクサと共に小路から少し大きめの通りに出た。
その、次の瞬間。
「……あ」
エクサを小路に押し戻しながら、腰の短剣を抜く。
構えた短剣は、丁度禎理の前に現れた短刀をギリギリの所で止めていた。
その短刀の上から、大柄な影が禎理を圧倒するかのようにのしかかってきているのが見える。その影も、先程の武官達と同じ服装をしていた。
もう一人、居たか。自分の迂闊さに唇を噛む。
力押しでは、小柄な禎理に勝ち目は無い。一度この短刀を躱し、相手に隙を作らせなければ。そう考え、禎理は少しだけ身を捩った。
と、その時。
「何故おまえは、そいつを守る?」
押し殺したような声が、禎理の耳を打つ。
「そいつは、罪無き者を殺した上に、その命を冒涜しようとしているんだぞ」
言われた言葉よりも、その言葉を発した声の重さに戸惑い、『力』の方向を見失う。相手は、その禎理の一瞬の隙を見逃さなかった。
無防備になった禎理の胸に、鋭い光が迫る。何とか身を捩って躱したが、それでも短刀は禎理の左肩に深く突き刺さった。
「痛っ……」
全身を駆け抜ける痛みに思わず呻く。だが、再び襲いかからんとする血塗られた短刀を前にして、逃げることは許されない。
痛みを思考から無理矢理追い払い、心を落ちつかせてから再び短剣を構える。昼下がりの通りに人っ子一人居ないのが有難かった。少なくとも、これ以上の邪魔は入らない。禎理がふとそんなことを考えた、正にその時。
大音声と共に再びの光の嵐が禎理の視力を奪う。
「禎理、こっちだ!」
と同時に、禎理の左腕は痛むほど強く後ろに引っ張られた。勿論、左腕を引っ張っているのも光を爆発させたのもエクサだ。
この隙に、今は逃げよう。
禎理はエクサに引かれるまま、未だに光が渦巻いている通りを後にした。
他に敵がいるかもしれないから、尾行に気を付けるようにしつつ市街地を大回りしてエクサの部屋に辿り着く。
「……はあっ」
扉を閉めた瞬間、禎理はへなへなとその場にしゃがみこんだ。
忘れていた左肩の痛みが、急にぶり返す。とりあえず、この怪我を何とかしなければ。禎理はそう思い、腰のポーチの一つから綺麗な布を取り出した。と、その時。
「酷い怪我だな」
エクサの声が、禎理の耳元で響く。次に禎理が感じたのは、左肩から全身を巡る温かい息吹だった。
「しばらくじっとしてな。すぐ治るから」
そっと首を動かすと、エクサがその細い手を禎理の肩に当てているのが見える。その手から淡い光が発せられているのが、薄暗い室内ではっきりと見えた。
「もう、良いだろう」
しばらくして、エクサの手が禎理から離れる。
そろそろと肩を動かしてみなくとも、痛みも怪我もすっかり治っているのが分かった。
「あ、ありがとう」
「いいって」
俺を助けるための怪我だからな。そう言ってエクサは禎理に背を向けた。
「親父から身を守るために習得した『力』が、こんな時に役に立つとはな。……怪我限定だけど」
俯くその背中を優しく見つめながらも、やはり気になるのは、心の中で燻っている疑問。
「あのエクサ、聞いてもいい? ……追放の理由」
だから、禎理は率直に、エクサに言葉を投げかけた。
「うん、そうだね」
拒絶すると思ったエクサの口は、意外にあっさり動いた。
「理由は、……フレネーを殺したから」
しかし、エクサの口から出た理由は、禎理の心を酷く動揺させた。
「え……」
言葉が、出ない。
禎理はしばしエクサの静かな背中を見つめた。
だが、しかし。ボルツァーノの言葉を思い出し、禎理はようやく暗い空間に声を吐いた。
「でも、ボルツァーノは事故だって」
禎理の言葉に、返って来たのは荒んだ笑い声。
「確かに、事故といえば事故だな」
ボルツァーノに半ば強引に神殿に連れて来られ、しぶしぶそこで暮らすようになってからも、エクサは独りでいた時と同じように錬金術の実験に没頭した。元々『法術』を使うのに必要な信仰心は持っていなかったし、人と交わるより実験をしている方が性に合っていた。だが、ある時、薬品の配合に失敗し、実験室に使っていた廃屋を爆発させてしまう。落ちてきた梁に足を挟まれ、火事に巻き込まれそうになったエクサを助けたのが、日頃何くれとなくエクサの世話をしてくれていたフレネーだった。
「助けてくれなんてこれっぽっちも言わなかったのにさ。あいつ、お人好しだから」
禎理に背を向けたまま、エクサが静かに呟く。泣いているようには見えなかったが、背中が微かに震えているのだけは、確かに見えた。
その爆発で発生した有毒物質を吸い過ぎたのか、事件の後フレネーは床につき、そのまま亡くなってしまったのだ。エクサの回復魔法は怪我限定だった為、フレネーを救うことはできなかった。
「それって……」
エクサの告白に、禎理は思わず首を傾げた。確かに爆発の原因となったエクサに非は無いといえば嘘になる。だがそれだけで、追放になった上に命を狙われる理由になるだろうか? 禎理に刃を向けた武官の言葉も、気になる。
だが。
「フレネーには悪いことをしたと思う」
まだ続くエクサの言葉が、答を紡ぐ。
「だから俺は、あいつを蘇らせたい」
「はいっ?」
思わぬエクサの言葉に、耳を疑う。
次に禎理の心に浮かんだのは、畏れの感情。
「駄目だよ」
思わずそう呼ぶ。
死んでしまった人間を蘇らせるなんて、愚行もいいところだ。
止めさせなければ。その想いだけで、禎理は言葉を紡いだ。
「それに、……無理だよ、できっこない」
「できるさ」
禎理の心の叫びを、エクサはあっさりと否定した。
「俺の知識と、……禎理の『魔力要素』があれば」
不意にエクサが、禎理の左手首を掴む。強い痛みに禎理は思わず身を捩った。
「俺がここへ来ることを承知したのは、ボルツァーノからあんたのことを聞いたからさ」
その華奢な身体の何処から力が出ているのか、エクサは身を捩る禎理を無理矢理部屋の奥、竈の傍まで引っ張って行った。
「魔法が全く使えないのに、多量の『魔力要素』を持った奴がいるって」
『この世界』で魔術を使う為には、生物の体液の中に存在する『魔力要素』が必要である。世界に存在する『魔力線』に『魔力要素』を共鳴させることにより『魔力』が発生するという仕組みになっている。だが、『魔力要素』の量には個人差がある上に、二百年前の『魔法革命』の影響で『魔力線』が弱くなっており、実際に魔術が使える人間はそんなに多くはない。
理論的には、強い『魔力要素』を持っていれば弱い『魔力線』にも共鳴できる筈だと、昔ボルツァーノから指摘されたことがあるが、ボルツァーノの指導を受けても禎理は普通に『魔法』を使うことができなかった。
その理由は、おそらく、禎理が『担い手』の素質を持つ、特殊な人間だから。
世界を滅ぼそうとする『力ある石』から『この世界』を守る為に転生を繰り返している『風神』が、その力を最大限に発揮できる『器』となる、風神の子孫である人間に転生した姿、それが『担い手』である。そして、その『担い手』と同じ『力』をその体内に持っている者を『担い手の素質を持つ者』という。禎理の過去の体験を聞いたボルツァーノは最終的にそう、結論づけた。
それはともかく。
先程の武官達との戦いでも、禎理の魔力要素を引き出して使わせてもらった。使い方は分かったから、あとは錬金術と融合させれば、きっとうまくいく。混乱する禎理の思考の前で、エクサはそう、はっきりと口にした。
確かに、そうかもしれない。……理論的には。
だが、しかし、である。
「駄目だよ、それは」
再び叫ぶ。
「『自然の理』に反してしまう」
「『自然の理』?」
だがやはり、エクサの反応は、禎理の心を冷たくさせる。
「そんなもの、くそくらえだ」
そして、禎理の怒りに火を点けるには、十分だった。
「『自然の理』に逆らうことは、不幸しか生まない」
何度も左腕を振り、強引にエクサの手を引き剥がす。
「とにかく、俺は協力しない」
そう言い捨てると、エクサの表情も確かめず、禎理は部屋を出て行った。
闇雲に、街を歩き回る。
拒絶してもやはり気になるのは、エクサのこと。
引き返そうか。引き返してもう一度説得してみようか。ふと、そんな思いが浮かぶ。だが、生半可な説得では、あのエクサの固い想いは翻らないだろう。分かるのだ。禎理も同じ気持ちを味わったことがあるのだから。
思い出すのは、まだ今ほど『力』が無かった少年時代のこと。
「珮理、さん……」
禎理がそう呟いた、丁度その時。
「よう、禎理」
知った声が、禎理の耳を打つ。
顔を上げると、目の前に六徳の大柄な姿があった。
「何やってんだ。エクサとかいう神官は?」
「あ、えと……」
六徳の言葉と視線に、思わず言葉を濁す。「責任を持って依頼を完遂しろ」というのが、冒険者に冒険依頼を世話する時の六徳の口癖である。理由はどうであれ、エクサの許を去った時点で、ボルツァーノの依頼を途中放棄してしまったことになる。六徳にそのことを知られたら、多分怒られるだけでは済まされない。
だが。
「離れたのか。それは良かった」
「え?」
思わぬ六徳の言葉に、きょとんとなる。
だが、禎理を見つめる六徳の表情は、いつになく真剣だった。
「あいつは、心の中に良くないモノを飼っている」
六徳は、世間には隠しているが、実は魔物である。修行で磨いた料理の腕と、生来持っている『人の心を読む能力』を駆使して冒険者宿三叉亭を繁盛させている。そして、彼は禎理の『監視役』でもあった。
時は、十五年ほど前に遡る。天楚市中を震え上がらせた『吸血鬼騒動』に巻き込まれていた禎理の前に突然現れた一組の夫婦がいた。夫は、魔界の大王『数』。そして妻の名は、珮理。彼女も又、『担い手の素質を持つ者』であり、騒動の原因となっていた『力ある石』の一つ『吸血石』の為にあえて『自然の理』を破り、その身と引き替えに『石』を滅ぼした、優しくて心の強い女性だった。
禎理が『自然の理』に拘る理由は、この女性のことが心の奥底に引っかかっているから。彼女の『死』に心ならずも手を貸したのは、禎理自身なのだから。
その禎理に気を遣っているのか、自身も妻を亡くして悲しみに暮れている筈の魔王数は、今でもこっそりと六徳やその他の部下を通じ、禎理の身を心配しているらしい。
「だが」
物思いに沈む禎理の前で、不意に、六徳が口調を変える。
「俺は、それでもいいと思っている。それでおまえの無鉄砲が治るんじゃないかとみたんでね」
「えっ?」
再び、戸惑いが心の中に広がる。
確かに、ここ天楚市では、禎理は類い希なるトラブルメーカーとして知られている。困っている人(魔物、精霊等含む)を放っておけないという禎理自身の性格が招いたことだから仕方がないのだが、それでも、六徳からすると、他人の為に命まで投げ出してしまう禎理の無茶な性格はかなり危惧されるべきものらしい。……禎理がエクサを『危なっかしい』と思っているように。
不意に、迷いが晴れる。
六徳と別れ、禎理は再び歩き出した。
行き先は、考えるまでもなくエクサの部屋。
勿論『自然の理』を破るようなことに、協力はできない。だが、自分はボルツァーノから「エクサを頼む」と言われたのだ。その使命は、果たさねばならない。
そして。自分と同じ想いを持つエクサに、これ以上の罪を犯させるわけにはいかない。
戸を開けて最初に感じたのは濃い血の匂い。
驚いて慌てて闇に目を凝らすと、部屋の奥に二人の人物が見えた。一人は、フビニの神殿文官用の裾の長いチュニックを身に付けた人物。そして、その文官の足元に倒れているのは。
「エクサ!」
一瞬で二人の間に割って入る。
庇うように神殿文官に背を向けて、倒れているエクサを抱き上げると、血の匂いが更に濃くなった。
「エクサ……」
抱き締めた身体の冷たさに呆然とする禎理の耳に、金物が地面に落ちた音が響く。その音に振り向くと、やはり呆然と立っている文官の、表情の無い瞳が見えた。
この文官を、自分は知っている。
「ヴィエート」
小声で彼の名を呟く。禎理の声が聞こえたのか、神殿文官ヴィエートは不意にはらはらと笑い出した。
「フレネーの、仇を、討った、けど……」
嘲りにも似た声が、静かな部屋に悲しく響く。
ヴィエートは、ボルツァーノが長をしている学寮の隣にあった『水の神殿』所属の神殿文官で、フレネーとも親しくしていた。だから、文官なのに刃を手にしたのだろう。
そして、その結果は。
「虚しいな、やはり」
そう言いながら、夢遊病者のようにふらふらと禎理に背を向けて歩き出す。暗い部屋から明るい通りに消えたヴィエートの後ろ姿を、禎理はただ見つめる他、無かった。
そして。
〈……エクサ〉
全く動かないエクサの冷たい身体をそっと抱き締める。
エクサの言動に怒ってしまった所為で、結局守ることができなかった。後悔の念が禎理を襲う。だから禎理は、エクサを抱き締めたまま、その場所を動くことができなかった。
……どれくらい、そうしていただろうか。
耳に響いた、微かな鼓動に、ぎょっとして身を起こす。
もう一度恐る恐る耳を近づけると、今度ははっきりと、エクサの胸から鼓動を聞き取ることができた。
「もうしばらく、そのままでいてくれ」
微かに、禎理の耳に囁かれた言葉も。
「怪我の回復だけは得意なんだよ、俺は。ヴィエートの奴も、わざとかどうかは知らないが、何故か急所は外してたし」
皮肉の籠もった声が、禎理の心をほっとさせる。
抱き締めたままの身体も、徐々に温かくなっていって、いた。
だから。
「分かった」
禎理は闇の中、エクサの身体を静かに抱き締めた。




