迷子の
夕焼け色に染まりかけた石壁の向こうから、か細い泣き声が響く。
その声を聞くや否や、禎理は洗濯物を放り出し、通りが見える館の裏口まで走った。
裏口から顔を出し、黄赤色に染まった小路を見つめる。殊更ゆっくりと首を巡らせると、すぐに、視界の端に小さな影が入った。おそらく、泣いているのはあの影だろう。そう見当をつけて、小路を走る。思った通り、その影は、小さな子供のもの、だった。
「どうしたの?」
蹲って泣いている子供の目の前まで近づいてから、優しく、聞いてみる。だが、禎理の声が聞こえないのか、子供は顔も上げず、ただ泣きじゃくったまま、だった。
よく見ると、どこかで溝にでも嵌ったのか、着ている服が泥に濡れている。昼間の暖かい日々が続いているが、まだ春先なので夜は寒い。この子をこのまま放っておけば、風邪を引いて身体を壊すのは目に見えている。ただ泣き声に釣られただけとはいえ、こんな状態の子供を、放ってはおけない。
とにかく、温めた方が良いだろう。そう判断して、羽織っていた袖無しの上着を子供の肩に掛ける。その行為で初めて禎理に気付いたのか、その時になってやっと、子供が涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。
「大丈夫。何もしないから」
安心させるようにそう言ってから、そっとその子を抱き上げる。そしてそのまま、禎理は元来た道を戻り、裏口から、現在寄宿している『無限流』武術道場に用いられている館の中庭の、先ほどまで洗濯に精出していた井戸脇へ子供を連れて行った。
置きっぱなしの洗濯桶を足で避けてから、子供をそっと下ろす。
「ちょっと冷たいかもしれないけど、我慢して」
そう言ってから、禎理は子供の泥だらけの服を脱がせ、汲んだ井戸の水でその身体を綺麗に洗う。そして、その朝洗濯して中庭に干しっぱなしの洗濯物からよく乾いたタオルと稽古着を選ぶと、多少大きめのその服を、身体をしっかり拭いて乾かした子供に着せ掛けた。
水で洗ってさっぱりした顔立ちと、着ていた服から、子供は四、五歳くらいの男の子と分かる。しかもどう見ても町人や農民の子供ではない。どこかこざっぱりとした、動きやすい服から考えると、貴族階級とまではいかないが、武人階級の家の子ではないかということは禎理でも予測できた。問題は、その先である。
「君、どこの子?」
泣き止んだが、黙りこくっている男の子に、優しくそう、問う。だが、男の子は口を閉ざしたまま、首を横に振った。
異国から来たので言葉が分からないのか、それとも何か喋れないほど怖いものがあるのか。しかし、とにかく何か喋ってもらわないと身元が分からない。禎理は内心途方にくれた。
と、その時。
「母さん……」
いきなり、男の子に抱きつかれる。
どうやら、喋ることはできるらしい。そう考える前に、禎理は先ほど男の子が漏らした言葉に呆然とした。自分が、『母さん』?幾ら小柄で女顔とはいえ、これでもれっきとした男、なのだが。だが、訂正はせずに、禎理はすがりつく男の子の背にそっと、その柔らかい腕を回した。多分、迷子になって心細いのだろう。それならば、なおさら早く、この子の家を探してあげなければ。
「……まだ洗濯していたのか、禎理」
丁度その時、中庭を廻る廊下の端から涼やかな声が響き、禎理ははっとして顔を上げた。
「……って、何をしているんだ?その子は?」
「あ……」
道場の後輩である須臾の、驚いた顔が、目の前に見える。
禎理の顔は一瞬にして、恥ずかしさで真っ赤になった。しかし、しくしくと泣いている男の子を、無下に引き剥がす訳にもいかない。だから禎理は、顔色を元に戻すよう努力しつつ、戸惑ったような苦笑いを須臾に向けた。
「あ、この近くの路地で、泣いてたから」
「ふーん」
禎理の戸惑いを知ってか知らずか、須臾は廊下から一飛びで中庭に降りると、未だに禎理にしがみついている男の子をじっと見つめた。
須臾の気配に気付いたのか、顔を上げた男の子が、泣き腫らした目を須臾に向ける。その男の子を見た須臾の口が、「あ」の形に変わるのを、禎理は見逃さなかった。
「知ってるの、須臾?」
大急ぎで、そう尋ねる。
禎理の問いに、須臾は大きく頷いた。
「ああ。どっかの昼食会で見たことがある」
下層階級の禎理とは違い、須臾は、天楚の大貴族六角公家の出である。だから、貴族階級や騎士階級が集まる場にもよく出席している。そういった場所の一つで、この男の子と対面したことがあるらしい。
「確か、第九平騎士隊の新任の隊長さんの息子さん、だった筈」
「へぇ……」
須臾の話に相槌を打ちながら、ゆっくりと男の子に向き直る。
天楚市内の治安を守り、天楚王が定めた法に背く犯罪者を取り締まる任務を負っているのが、騎士・武人階級の人々で組織されている『平騎士隊』の一つ、第九平騎士隊である。つい先頃、その老隊長が任を辞したことは、街の噂から禎理も知っていた。しかし、新しい隊長が既に任命されているということと、その隊長の人となりについては、禎理の耳にまで聞こえてきてはいなかった。
「六角公様の話では、よっぽど変わり者らしいぜ、その人」
大円という名のその隊長は、平騎士隊の隊長が普通行う『お披露目式』を、「お金がない」という理由で断ったそうである。
「でも、それじゃあ、隊長が代わったことが市民には分からないじゃないか」
「折を見て、お金の掛からない方法でやるって言っていたそうだ」
首を傾げる禎理に、須臾が笑って答える。その問答だけで、禎理の心には、新しい隊長への好奇心がむくむくと湧き上がって、きた。そんな『変』な隊長さんに、一度逢ってみたい。そう思いながら、禎理は男の子を抱いたままさっと立ち上がった。
だが。
「……あ」
脇に退けた洗濯物の桶が目に入り、肩を落とす。
男の子に関する騒ぎの所為で、洗濯が終わっていない。
禎理は現在、道場の内弟子として、剣術や槍術、手裏剣術や体術といった武術を月謝無しで伝授してもらう代わりに、掃除や洗濯といった道場内の様々な雑用をこなすことを義務付けられている。この洗濯も、修行を兼ねた雑用の一つだ。だからきちんと終わらせなければ。
だが、日は既にしっかりと傾いている。目の前にある、この大量の洗濯物を片付ける頃には、街は既に暗くなってしまっているだろう。それでは、遅すぎる。
「俺がやっておくよ」
禎理の焦燥を見越したのか、須臾がそう言って、ぽんと禎理の肩を叩く。
「え、……でも」
貴族階級の人間に雑用をやらせるのは。そう言おうとした禎理の口を、須臾はその細い指で塞いだ。
「俺だって、この道場で修行している身だ。洗濯くらいやるべきなんだよ。……だから、禎理は行っておいで」
柔らかく笑う須臾の顔が、夕日に眩しい。
「ありがとう、須臾」
禎理は須臾に向かって深く頭を下げると、男の子の手を引いて裏口から路地へ出た。
夕暮れの街を、男の子の歩調に合わせてゆっくりと歩く。
「寒いか?」
繋いでいる手から、男の子の震えを感じ、立ち止まって自分の上着を巻きつけるように着せ掛ける。
第九平騎士隊の詰め所は、市の真ん中より少し北西側、商人が集まっている大広場近くの通りと、職人が集まっている町との境目にある。市の東側に位置する貴族町の南西端にある道場からは少し遠い。ゆっくり歩いている時間はない。そう判断した禎理は、男の子を抱き上げて再び歩き始めた。
道場の雑用で重い物は運び慣れているとはいえ、やはり人間の男の子は意外に重い。痛み出す腕に鞭打って、禎理は夕暮れの通りを急いだ。
と、その時。
「……おい、お前!」
背後から、いきなり呼び止められる。
男の子を抱いたまま身体ごと振り向いた禎理は、次の瞬間、十歩ばかり後ろに飛び退いた。
その拍子に腕が緩み、地面に落としかけた男の子を背後に隠しながら、ゆっくりと顔を上げる。
禎理の目の前には、傾いた日を鈍く反射する槍の刃先が、あった。……しかも、五本も。
「聞きたいことがあるんだが」
その槍を構えている者の一人、いかにもならず者の雰囲気を纏った大男が、禎理に槍を突きつけながらそう問う。しかし、大男の言葉を、禎理は半分も聞いていなかった。
片腕で男の子を抱きかかえ、横走りで近くの小路へ飛び込む。
「待てっ!」
小路にある、塵を入れる箱の陰に身を隠すのと、大男が叫ぶのとがほぼ同時。
「逃がすなっ!」
「小路へ逃げたぞ。向こうへ回れっ!……出口を塞ぐんだっ!」
その言葉を聞いて、内心にやっと笑う。
小柄な禎理の肩がやっと入る、この小路には、大男達は入れない。大男達の真意は不明だが、ここに大人しく隠れていれば、彼らもそのうち諦めるだろう。
小路の両端に、槍を持った大男達が群がるのが、気配で分かる。あとは、我慢比べだ。それならば、自信がある。禎理はそう考え、きょとんとする男の子を優しく抱き寄せた。
だが。
しばらくそうして大人しくしていたのだが、大男達は退く気配すら見せない。何とか小路に入り込もうと、一生懸命広い肩を入れようとしている声と音が、禎理の耳にもしっかりと響いてきて、いた。これは、一体……。大男達の真意を測りかね、思わず小首を傾げる。だが、このままでいるわけにはいかないことだけは、はっきりと分かる。小路から見上げた空は、既に暗い。柄にもなく、禎理は焦燥の念に駆られて、いた。
と、その時。
鋭い気配を感じ、慌てて塵箱の陰に身を潜める。槍の穂先としか思えないものが、禎理の灰茶色の髪を少しだけ薙いだ。
隠れている陰から、小路の出口を見てあっとなる。どうしても小路に入ることができなかった大男達は、自分達の槍を身に付けていた鉢巻で繋ぎ、禎理達を小路から追い出す武器としていたのだ。
こんな方法があったとは。思わぬところで感心する。しかしこうしてはいられない。再び伸びてきた槍の柄を掴み、いきなり引く。思わぬ抵抗に戸惑ったのか、槍は意外な軽さで、その力を失った。
あとは。
「ここで待ってて」
蹲ったままの男の子にそう声をかけてから、繋がっている槍の一本を引き抜き、静かに構える。そしてそのまま、禎理は小路の出口の一方、槍を失った大男達の間へ勢いよく飛び込んだ。
「あっ!」
出口を半円に囲んでいた、大男達の間から狼狽の声が上がる。その男達の一人の、がら空きの胸に、禎理は槍の鋭い一撃を打ち込んだ。
が、しかし。男の革鎧とその下の服を貫通したかに見えた槍は、途中で止まる。
〈しまった!〉
服の下に鉄の鎧を着けていたのだ。革鎧だけという大男達の見かけに惑わされた為の誤算に、思わず唇を噛む。しかし反省している暇はない。禎理は再び槍を構えると、今度は完全に無防備な顔に向けて槍を振った。
だが、その時。
「……母さん!」
男の子の声に、はっとして振り向く。
路地に隠していた筈の男の子の姿が、目の前にあるではないか。
「来るなっ!」
大急ぎで、そう叫ぶ。
次の瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「あっ……」
油断した自分を責めるも、もう遅い。
抵抗する間もなく、禎理の意識は、暗い闇に沈んで、いった……。
温かい感覚に、物憂げに目を開く。
触り心地の良い生成り色の枕が、禎理を優しく迎えた。
〈……ここは、一体?〉
小首を傾げながらうつ伏せだった上半身を起こし、辺りを見回す。
だが、周りの景色から答を見つける前に、禎理の耳を大音声が襲った。
「……全く、お前たちは何ですぐに暴れるんだ!」
「え、あ、それ、は」
「向こうが、逃げた、から」
しどろもどろに返答する声の中に、通りで聞いた大男のものらしい声を聞き分ける。と、すると、ここは、禎理と男の子を襲おうとした件の大男達に縁のある建物、らしい。しかし、禎理に敵意を示し、危害を加えた男達が、何故自分を助けている?そういぶかしみながら頭を触った禎理の手が、巻かれた包帯を見つけた。しかも、治療まで?疑問はますます募る。
「説明はしたのか?」
「え、いや、それは……」
「いきなり槍を振り回したら誰だって逃げる。そう何回も言わなかったか、俺は」
そんな禎理の戸惑いをよそに、問答は開け放たれた部屋の扉の向こうから延々と聞こえてきた。
「それに、いつも言ってるだろう。任務中は騎士隊の上着を身に付けろと」
「あ、あれは……」
「いい生地だったんで、母ちゃんの服に……」
「おっまえらぁ!」
情けない男達の声が、雷のような声にかき消される。
その問答に、禎理は思わずくすっと笑った。
しかしながら、あのならず者のような大男達を怒鳴りつけるなんて、一体どんな人なのだろうか?禎理がそう思った、まさにその時。
「……お、やっと気付いたか」
温和そうな感じを纏った男が、禎理が横になっている部屋へと入ってくる。禎理よりも勿論大柄でがっちりとした体格をしているが、大男達よりは間違いなく小柄な男が発する、その声は、間違いなく先ほどの雷声、だった。
「済まなかったな。ウチの若いもんが迷惑かけて」
ぽかんと口を開ける禎理に向かって頭を下げてから、男はベッドの傍の椅子に座った。
「倅から聞きました。迷子になっているところを助けていただいたそうで」
「あ、はあ……」
呆然としつつ相槌を打つ禎理の思考が不意に、ある一点で止まる。
〈え? 倅?〉
と、いうことは。……もしかしなくとも、この人が、今度新しく来たという平騎士隊の隊長!
「あ、いえ」
大慌てで、居住まいを正す。
いきなり動いた為か、後頭部の痛みがぶり返し、禎理は思わず顔をしかめた。
「こっちも、誤解してしまいましたし」
それでも何とか、それだけ口にする。
禎理のその言葉に、隊長は溜息をつきつつ苦笑した。
「元々ならず者だったのを、『人様に迷惑をかけない』という約束で雇った奴らだからな、あいつらは」
それゆえ、少々荒っぽいが、根は正直な奴らだ。大男達のことをそう評してから、隊長は今度は豪快に笑った。
「平騎士は武人階級の者がなるのではないのですか?」
日頃聞いている事とはかけ離れた隊長の言に、思わず質問が出る。
「最近は武人階級の志願者が減り気味でな。お金もないし」
だから、少々難があっても有能そうな者を有効活用するし、お披露目式も毎日行っている騎士隊の巡回と同時に行って経費を浮かせる。形式よりも実を取ることが、天楚の治安を守ることに繋がる。隊長ははっきりとそう、言った。
その潔さと実務性に、好感を持つ。やはり、我が天楚市の隊長はこうでなければ。禎理は心の中でうんと頷いた。
「ま、先々迷惑をかけると思うが、これからもよろしくな」
不意に、隊長が禎理に右手を差し出す。
「こちらこそ」
禎理はにっと笑うと、隊長の大きな手に自分の丸っこい手を重ねた。
その時の二人は、思ってもみなかった。
……これが、禎理と隊長との長ーい付き合いの始まりだということを。