美味しいものは
その小さな口をへの字に曲げたまま、禎理は三叉亭のカウンターに腰を下ろした。
「ん、どうした?」
惰性のままにずるずるとテーブルに突っ伏した頭の上から、三叉亭の主人六徳の声が響く。しかし、その声に返事ができないほど、今の禎理は疲れきってしまって、いた。
「そんなに腹が減ってんのか?」
「ううん、その逆。……食欲無し」
更に降って来た言葉に、俯いたまま首を横に振る。
「腹が減ってんのは模糊の方」
自分の名前が聞こえたのか、定位置である禎理の腰のポーチからキイロダルマウサギ族の魔物、模糊がぽんと飛び出し、禎理の横に着地する。その模糊のふわふわとした黄色の毛を撫でながら、禎理は再びの溜息をついた。
「……そうか」
妙に納得した感じのする六徳の声が、耳障りに響く。
次に禎理の視界に入ってきたのは、小さな皿。
「ほら、模糊」
模糊が端に乗っても傾かない小皿の上に載っているのは、三叉亭名物のシチュー。その皿の色を見た途端、模糊は目の色を変えて皿の上に飛び乗ると、周りに汁が飛ぶのも気にせずに大きな肉の塊を勢い良く口の中に入れた。
その次には、これまた大きめの人参の塊をせわしなく頬張る。あっという間に、小皿の中のシチューは全て、模糊のおなかの中に入ってしまった。
空になった皿を更に綺麗に舐める模糊の、毛に付いたシチューを苦笑しながらふき取る。だが、指先から漂ってきた匂いに、禎理は思わず顔をしかめた。
……普段なら、食欲をそそる匂いなのだが。
「よく食べれるよなぁ。しかも美味しそうに」
皿の上で、更なるおかわりをねだるように六徳を見上げた模糊から目を逸らす。
「食欲出たか?」
模糊の皿を取り替えながら、六徳がそう、尋ねてきた。
「うーん。……肉は見たくない、かも」
その言葉に、禎理は再び首を横に振る。
「それはまた」
一体今日はどうしたんだ? そう言いたそうな顔をした六徳が、店の奥、厨房の方へと消えた。
その大きな背中を横目で見送ってから、禎理はそっと自分の手の匂いを嗅ぐ。石鹸に良く使われる香料の匂いしかしなかったのに、禎理は再び呻きながら、カウンターに突っ伏した。
禎理の今朝のお仕事は、異臭の発生した一柳町近くの運河の清掃の手伝い。だが、水を堰き止めて底を浚ったところ、誤って運河に落ちた、街で放し飼いにされていた豚の死骸が出てきたのだ。
あの胸の悪くなるような匂いと、緑色に変色した肉の塊。そして、岸に上げる時に触れた肉の、ずるっとした、背筋が凍りつくような感覚。思い出すだけで胸が悪くなり、禎理はうっと口を押さえた。
死骸の処理が終わってから三叉亭に来るまでに、湯屋で石鹸を贅沢に使って身体をしっかり洗ったのだが、未だに、身体中にあの、まとわりつくような悪臭が残っているような気がする。……いや、あの、背筋が凍るような感覚は、何をしても絶対に『落ちる』ことはない。
「……仕方ないな」
不意に、目の前にカップが差し出される。
「とりあえず、それ飲みな。食欲がなくても、何か食べないと身体に毒だからな」
ほかほかのカップの中身は、清涼な香りが漂うさらっとした液体。六徳に促されるままに、禎理はゆっくりとカップに口をつけた。
その匂いに違わずさっぱりとした味覚が、口中から全身へと広がる。液体の熱が身体に乗り移ったような、ふわふわと温かな感覚に、禎理の背筋の強張りはようやく少しだけ、抜けた。
「どうだ?」
カップから口を離して見上げると、六徳が覗き込むように禎理を見つめているのが分かる。その、心底心配そうな瞳の色に、禎理は申し訳ない気分になった。
現在の気分がどうであれ、他人を心配させるのは良いことではない。そう思った禎理は、努力して少しだけ笑顔を作った。
「そうか」
そんな禎理に安心したのか、六徳の瞳から心配の色が抜ける。
次に差し出されたのは、これもほかほかと湯気の立ったパン。しかも気前良く、禎理の両掌で受け止めてもまだ大きいものが、深めに作られた籠の中にたくさん入っている。
「さっき焼けたヤツだ」
六徳の言葉に促されるように、一つ取って口に入れる。
温かいパンの、舌触りの心地良さに、禎理のお腹も心も、いつの間にかほっと一息ついていた。
やはり、三叉亭の食事は美味しい。どんな時でも。
ねだるように身体を摺り寄せてくる模糊の為に、パンを小さくちぎりながら、禎理は心からそう、思った。




