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一柳の妖

 広い石畳の道を、まっすぐ運河へと向かう。

 運河の岸辺で枝を揺らしている柳の木の下に、禎理ていりは腰を下ろした。

 初秋の夕方特有の、運河から立ち昇る生温かい緩風が、灰茶色のぼさぼさ髪を微かに揺らす。今の時分でも、柳の下は不気味な感じがする。夜になるとどうなるのだろう。揺れる枝を見上げて、禎理はふと、溜め息をついた。

 この運河の岸辺に植わっているのは、この場所を除き全て手入れの楽なポプラの木。だから、なのだろうか、天楚てんその歓楽街、一柳ひとつやなぎ町の入り口に植わっている柳の木には、怪異の噂が尽きない。しつこく追ってくる男から守る為に一柳町で働く遊女をその枝の中に隠し、男を運河に突き落とした話や、柳に唾を吐いた高慢な商人がその次の日に口が聞けなくなった話など、枚挙にいとまない。天楚市内を一夜にして灰燼に帰した『天楚大火』の時も、表皮と少しの枝が焼け焦げただけで他は何ともなかったと聞く。そんな噂の立つ柳の木なのに、だからなのか、肝試しに来る無謀な若者も後を絶たない。

 今日も、一柳町の冒険者宿『三叉さんさ亭』で未熟な冒険者達がそのような肝試しの話をしていた。そして何故か、三叉亭で名物のシチューを頬張っていただけの禎理がとばっちりを喰らい、この柳の木の下で一晩過ごすはめになってしまったのだった。

「サボって、帰ろうかな」

 しゃがんだまま、暮れ行く街並と、禎理の前を足早に通り過ぎる人々を頬杖をついて眺めながら、ほうっと息を吐く。禎理が夜中ここに居るか確かめに来るとは言っていたが、実際のところ、あの冒険者達には夜中ここへ来る度胸はないだろう。来るとしてもおそらく明るくなってから。だから、禎理が夜ずっとここに居なくてもバレはすまい。すっかり暗くなったところで一柳町内にある自分の下宿に帰り、朝になる前に再びここでしゃがんでいても問題はなさそうだ。禎理はふっと笑い、腰を上げた。

 と。

「……禎理か」

 穏やかな女性の声が、背後で響く。振り返らなくとも、声の主がこの柳の精霊であるということは、日頃から精霊に慣れている禎理にはすぐに分かった。

「何をしに来た?」

 声は穏やかだが、感じる気配は怒気に満ちている。精霊達は、人間にはない『能力』を持っている。おそらく、禎理が説明するまでもなく、禎理がここに居る理由を察しているのだろう。禎理は内心肩を竦めた。

 とりあえず、ここはそっと去った方が良いだろう。禎理は精霊の方を振り向かず、大股で一歩、柳の外へ歩を進めた。次の瞬間。

「わっ!」

 両足首に何か細いものが絡み付くのを感じると同時に、視界が上下逆さまになる。頭に血が上り、顔が熱くなるより先に、次々と手足に絡み付いた柳の枝が禎理の身体を様々な方向に引っ張るのがはっきりと、分かった。

「このまま朝まで置いておけば、もう誰もここには近づくまい」

 霞む視界の先で、緑衣の女性がにこりと笑う。確かに、一柳町のみならず天楚中に顔を知られ、弱い者虐めも精霊を侮辱することも一切行わない禎理がこのように酷い目に遭っているのだから、普通の人間は絶対に、昼間でもこの木に近づかなくなるだろう。それは、分かる。が。……理不尽過ぎる。禎理ははっきりそう、思った。

 だが、禎理の感情には全くお構いなく、首筋を柳の枝が這う。

 苦しみが全身を襲う前に、禎理は目を、閉じた。


「……り、禎理!」

 聞き知った者の声に、はっとして目を開く。

「大丈夫か?」

 明るい朝の光の下に、冒険者宿三叉亭の主人、六徳りっとくの、瞳の色にしか焦りを感じない顔が、あった。

「あ……」

 何故か分からないが、命だけは助かっている。全身の痛みの中、禎理はほっと息を吐いた。

 六徳に助けられて、上半身を起こす。いつものように枝を揺らす柳の木が、目の前に見えた。

「全く、何をしたんだ?」

 怒りを含んだ声で、六徳が尋ねる。

 説明は、できないこともない。だが、柳の精霊のことを思い、禎理は押し黙ったまま、柳の木を見つめた。

「ま、あいつらにはいい薬になったようだが」

 朝早く様子を見に来た件の冒険者達は、柳の木に逆さ吊りになっている青い顔の禎理を見て、叫び声をあげて逃げ出したそうだ。

 それならば、良かった。もう一度、ほっと息を吐く。

 静かに揺れる柳の木に、禎理はそっと微笑みかけた。

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