森の名前
気が付くと、禎理は霧の中に立っていた。
あれ? 思わず、首を傾げる。確か自分は、天楚市内にある自分の下宿のベッドですやすやと眠っていた筈なのに。
禎理の周りは、全て、うっそうと茂った木々。その木々を見るだけで、禎理はすぐに、自分が今何処に居るのかを察した。天楚市の西に広がる、通称『蛇神の森』だ。人が足を踏み入れた部分はほんの僅かである、蛇神毘央とその配下の妖精達が暮らす広大な森の直中に、禎理は、居た。その、理由は、おそらく。
禎理の目の前に、薄く光る小さな広場が見える。光っているのは、広場の真ん中にある背の高い、すべすべの石で作られている、碑。
此処へ来い。それが、蛇神毘央の命令。
「分かりました」
虚空に向かって、禎理は、ただ静かにそう、呟いた。
夜の夢の、約束通り。
朝になってすぐに、禎理は蛇神の森へ向かった。
普通の人は怖がって踏み入れもしない道無き道を、ただただ進む。すぐに、夜の夢で見た小さな広場が、禎理の目の前に現れた。広場の真ん中にあるのは、夢に見た通りの背の高い石碑。その傍には、緑の黒髪を惜しげも無く地面に広げたこの森の主、蛇神毘央が座っている。そして、蛇神毘央が、その細い腕に抱いていたのは。
〈男の、人?〉
毘央と男の組み合わせに、正直驚く。蛇神毘央の男嫌いは、森に暮らす流浪の民は皆知っている。それなのに、何故、毘央は眠っているように動かない青年をその膝に抱いている? だが、禎理のその疑問は、毘央に近付くことで簡単に解けた。男の身体には、血の気が無い。眠っているのではない。遺体を、毘央は抱いているのだ。
「来たか、禎理」
驚愕する禎理に、あくまで艶冶に笑いかける毘央。
「その、人は」
やっとそれだけ口にした禎理に、毘央は笑ったまま答えた。
「この者は、この森に葬られるべき血筋の、最後の者」
毘央の答えに、納得する。それは、この森の本当の名前を知っている者だけが知る、悲しき物語。
「禎理、そなたは、この森の本当の名を知っておるな」
毘央の問いに、頷く。これから毘央に何を頼まれるか、禎理は知っていた。
「ならば、そなたの義務を果たせ」
「はい」
だから。半ば理不尽な毘央の命令に、禎理は素直に頷いた。
「宜しい」
禎理の問いに満足する毘央。
「この者を取り返そうとする者たちは、既に森の入り口に集っておる」
「はい」
もう一度、毘央に向かって頷くと、禎理はくるりと踵を返した。
手段は、歩きながら考えるしかない。
これからのことを考えると、気が重い。朝の爽やかな空気は、禎理の気持ちを盛り上げてはくれなかった。言葉で話して分かってくれる人たちだと良いんだけど……。禎理はふっと息を吐いた。
『蛇神の森』はあくまで通称。この森の本当の名前は、『迂池の森』。古代に大陸を支配していた嶺家一族が勃興する以前、この辺りでは最大勢力であった豪族の名前で、この森は呼ばれていた。だが、あるとき、その豪族の長子が蛇神毘央に無礼を働いた。その侮辱に怒りを感じた毘央が掛けた呪いの所為で、その豪族は嶺家一族に滅ぼされ、名前は禁忌となった。そして、その一族が没落しても、血が続く限り、一族の長子はこの森に葬られる定め。
「迂池……か」
そう言えば、この名前を最近、森の外で聞いたことがある。嶺家一族に滅ぼされたとはいえ、血は細々と残っていた。そして最近、迂池の名を持つ天楚の騎士が、六角公の姪と結婚した……。
そこまで思い出して、げんなりする。これから対決しないといけない相手が誰か、大体分かったからだ。
案の定。
「禎理!」
森の入り口で声を掛けてきたのは、武術道場での禎理の後輩、六角公の後継者、須臾。ご丁寧にも、須臾の後ろには六角公の印を身に付けた鎧の騎士達がずらりと並んでいる。
「良かった、森を案内して欲しい」
須臾の声は、少し焦りを含んでいるように禎理には感じられた。迂池の騎士と結婚したのは須臾の姉だから、おそらくその姉の願いもあるのだろう。
須臾は、禎理の心からの友人の一人。その友人の期待に添えないのは、正直辛い。だが。……今の禎理は、蛇神毘央の『代理人』だ。
「断る」
だから切り口上でそれだけ、口にする。
「何だと」
金属音が、響く。禎理の口調に怒ったのは、須臾の後ろの騎士達。だが、須臾はあくまで冷静だった。
「何故?」
右手は腰の剣の柄に掛けたまま、それでも静かに、そう問う。
「理由を、話してくれ」
須臾の言葉に、禎理はほっと、息を吐いた。須臾なら、分かってくれるだろう。その気持ちも、ある。……須臾とは、戦いたくない。だから禎理は、この森の禁忌と呪いについて、須臾に全て話した。
「そうか」
禎理の話を聞いた須臾が、しばし考え込む。
「とりあえず、公に相談した方が良いな」
須臾の答えが出るまで、ずいぶん時間が経ったような気が、した。
須臾が出した答えに、正直ほっとする。六角公と蛇神毘央は、森について互いに不可侵であることを約束している。森の伝説についての造詣も、深い。六角公なら、蛇神毘央の心を傷付けるようなことは、しないだろう。
須臾に促されて、騎士達が森を去る。
独り残った禎理は、もう一度、ほっと息を吐いた。
しかしながら。
次の日の朝、禎理は天楚市の六角公屋敷から呼び出しを受けた。
理由は、おそらく昨日のことだ。その禎理の直感は悲しいほどに、当たった。
「森へ、連れて行って欲しい」
玄関ホールで出会った次の瞬間、須臾はそう、禎理に言う。何故? そう、禎理が問う前に、須臾は禎理の前に青白い顔の女の人を連れて来た。須臾と同じくらいの背丈で、顔もほぼそっくり。この人は。禎理の直感は、再び当たった。
「私の姉、京だ」
紹介する須臾の口調は、あくまで穏やかだった。
「先頃亡くなった迂池の騎士の、妻だった女性だ」
須臾がそう、言い終わる前に。京は禎理の両手を強く握ると、激しい口調で言った。
「どうしても、納得できないの。何故今更、あの人が昔の呪いに縛られないといけないのか」
「禎理に言われたことをそのまま話したら、六角公様は納得してくれたんだけど」
京の後ろから、済まなそうな須臾の声が聞こえてくる。
それは、そうだろう。京の真剣な瞳に飲まれそうになりながら、納得する。昔の呪いが、今でも延々と続いていて、しかも何も知らない京がとばっちりを喰らっている。握られた腕に伝わる、強い痛みを堪えながら、禎理は京に同情した。
だが。毘央は『蛇神の森』を守護する土地神で、京は人だ。神と人では、『理』が違う。毘央を怒らせずに、京の夫の亡骸を返してくれるよう説得するのは、九分九厘無理。京に勝ち目は無い。それでも。京の瞳の色が強過ぎて、思わず俯く。この人は、森へ行くだろう。森へ行って、毘央と戦おうとするだろう。そこまでしそうな意思の強さが、京の全身から感じられた。どうすれば、良い? しばらく考えて、禎理は首を横に振った。毘央の理も、京の理も、この世界を支配する『自然の理』に従えば、正しい感情だ。一番大切なのは、自然の理。その理の前には、神の理も人の理も関係無い。
〈話し合い、しかないか〉
再び、げんなりした気持ちが、禎理を襲う。拗れるのが分かっているから、正直逃げたい。だが。……逃げられないのは、分かっている。
だから。
「良いよ。連れて行ってあげる」
静かな声で、呟くようにそう、言う。
「済まない」
禎理の葛藤が分かったのか、須臾が静かに、頭を下げた。
案の定。
「何と言われようと、彼の者を引き渡す気は無い!」
小さな広場に、凛とした声が響き渡る。
毘央の後ろ、石碑の横に、新しい土盛りがある。迂池の血を引く、あの青年を埋めた塚だ。
「それが、妾の理じゃ」
耳を塞いで、逃げたい。ざわめく木々の中、禎理は正直そう、思った。
「お言葉ですが」
しかし愛する人を取り戻したい一心なのか、変わり者の多い六角公の血を引いているからなのか、毘央の気高い姿にも、全てを圧する声にも、京は全く怯まなかった。
「昔の恨みに囚われて、それであなたは幸せなのですか?」
「なっ」
京の言葉に、毘央の唇が震える。明らかに、侮蔑の言葉だ。
神に向かって吐く言葉じゃないよ。禎理は本当に逃げようと、一歩下がった。
次の瞬間。
「人の分際で!」
空気が、変わる。このままでは、森も、この場所に居る須臾も京も禎理も、危険だ。だから。
「毘央様っ!」
京と毘央との間に、割って入る。だが、その禎理を、京はその細腕で押しのけ、毘央の眼前にすっくと立った。
「いいですわ」
京のキラキラとした瞳が、毘央を真っ直ぐ見詰める。その瞳の色と毘央に対する態度が毘央を怒らせることを恐れ、禎理は再び二人の間に割って入ろうとした。
だが。
「私と貴方で決闘して、勝った方の理を通すってことでどうかしら」
「えっ?」
京の申し出に、驚く。女同士の決闘は、耳にしたことがある。だが、……人と神が、決闘?
「おもしろい」
怒りに震えていた毘央が、破顔する。ちょっと待てっ! 何故そうなるっ! 禎理は不遜にも、毘央にツッコミを入れたくなった。
「しかし妾は女人に干渉せぬ主義なのでな」
思わぬ展開に面食らう禎理を一瞥し、毘央が言葉を紡ぐ。
「禎理、そなたが妾の代わりに戦え」
何故そうなるっ! 再びツッコミを入れたくなり、思わず毘央を睨む。第一、女の人と決闘なんて、できない。恨みも怒りも抱いていない者を相手に戦えるほど、禎理の心は冷血ではない。
と、その時。
「禎理が毘央様の代理なら、私が京姉様の代理をする」
今まで黙って成り行きを見詰めていた須臾が、徐に禎理の前に立つ。
〈えっ、本当に、『決闘』するの?〉
腰の剣を抜いて構えた須臾に、禎理の戸惑いは最高点に達した。
正直言って、須臾とは戦いたくない。これまで武術道場で試合を繰り返して、須臾の戦い方は知っている。だが、実は。……試合で須臾に勝ったことが、皆無なのだ。負けることが分かっている戦いをするには、今の禎理は冷静であり過ぎた。
しかしながら。……毘央が禎理を指名したのだ。戦う他、無い。覚悟を決めて、禎理は腰の短剣を抜くと、須臾の前に立った。緊迫した空気の向こうに見える、須臾の瞳の色も、戦いを避けたそうに見えたことが、禎理を何故かほっとさせた。
「禎理」
その禎理の背後で、毘央の声が残酷に響く。
「『わざと負ける』と『手加減する』は無しだぞ」
禎理の気持ちなど、毘央にはお見通した。ふっと息を吐く。ならば。……こんな嫌なことは、さっさと終わらせるに限る。
「始め!」
毘央の合図と共に、禎理は須臾の懐へ飛び込んだ。剣と短剣では、間合いが違う。短剣の間合いで戦うことが、早く終わらせるコツだ。
だが。禎理の本心を見抜いたかのように、須臾の身体はひょいと後ろへ下がった。どんなに禎理が肉薄しても、須臾は躱して後ろへ下がる。こうなると、体力が無い分、禎理が不利だ。ならば。禎理は肉薄するのを止め、ひょいと後ろへ下がった。手近な石を拾い投げ、須臾が怯む隙に終わらせるのが、策略。
だが。下がった禎理に、今度は須臾が肉薄する。何をする気だ? 禎理が疑問に思う間もなく、禎理の身体は須臾の腕に囚われ、宙を舞った。そして。禎理の身体の落ちた先が、地面ならば良かったのだが。
「うぐっ!」
冷たく固い衝撃が、禎理を襲う。広場の真ん中にある石碑にぶつかったのだ。そう思う間もなく、禎理の思考は闇の中に溶けていった。
「禎理!」
驚く須臾の声が、遠くに聞こえる。
痛みとは違う、心を締め付けられるような感覚が、禎理の全身を支配した。
次の瞬間。自分の口から、小さな歌声が漏れているのに、気付く。まさか、この、石碑は。
「『歌碑』が目覚めた」
毘央の声に、確信する。この石碑は、その昔、能力のある者だけが操れるように、嶺家一族が魔法歌を封じた『歌碑』だ。
朦朧とした意識に、歌に託された情景が広がる。毘央と迂池の末子との恋。しかしその恋は、末子の暗殺によって幕を閉じた。末子を殺したのは、迂池の長子。その長子はあろう事か、末子の恋人であった毘央に愛を語った。勿論、その愛を毘央ははねつけ、そして一族に呪いを掛けた。
「……そんな事情が、あったんだ」
須臾に助け起こされた禎理の耳に、溜め息のような京の声が響く。
「それなら、憎むのも分かる。……でも」
京は毘央の方を振り向き、首を傾げた。
「それなら何故、長子を攫うの?」
「妾にも、分からぬ」
京の問いに、毘央は静かに首を横に振った。
「今となっては、どちらを愛していたのか、分からぬのじゃ」
毘央の瞳には涙こそ無かったが、それでも、泣いているように禎理には感じられた。
「済まなかったな、禎理」
毘央が禎理の横に立つ。毘央の手が禎理の背に触れると、痛みはほぼ、消えた。
消えないのは、心の痛み。歌碑に触れると、いつもこうだ。禎理は心の中で、そうこぼした。
「まあ、今回は、私が折れるわ」
ぶっきらぼうに、京が言う。
「ありがとう」
その京に頭を下げる毘央を見て、禎理は肩の荷が降りるのを、確かに、感じた。




