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吸血鬼異聞

 最近、禎理ていりの様子がおかしい。

 朝起きてから夜寝るまで、ずーっと青白い顔をしているし、立っているだけなのに時々身体がふらーっとふらつくし、夏場でも美味しいと評判の六徳りっとく特製シチューも殆ど口にしないし、そして何より、いつもの機敏な動きが、このところ全く精彩を欠いている。

 何でだろう? 禎理のことは良く知っている筈なのに、何か、変だ。『ご主人様』である禎理の様子に、模糊もこは小さな頭を悩ませていた。

 しかし、幾ら考えても、キイロダルマウサギ族の小さな魔物である模糊には良く分からない。「今年はやけに暑いから、おそらく夏バテでもしてんだろう」。その六徳の言葉で、納得するのが精一杯だ。

 もっと涼しくなったら、きっといつもの禎理に戻る。でも、それまで、元気の無い禎理を見ているのは辛すぎる。自分の小さな身体では禎理の手助けは無理なのだから、その思いも一入だ。

 禎理にボクの元気を分けてあげられたらいいのに。そう思いながら、模糊は床を蹴り、ベッドの上にちょこんと着地した。

 目の前には、太陽はもう既に高く上っているというのにうつらうつらしている禎理の姿がある。でんぐり返しを一つして、模糊は更に禎理の傍に近寄った。

 禎理の頭より二回り以上小さい模糊だから、禎理の首筋まで簡単に潜って行ける。その、禎理の身体の中で一番気持ちが良いと模糊が思っている部分に、模糊は自分の頬をぎゅっと擦り付けた。

 と、その時。

 突然、小さな身体を衝撃が襲う。

 気がつくと、模糊は再び床の上に転がっていた。

 一体何が起こったの? 起き上がり、首を傾げる。ダルマウサギ族は丈夫な種族だから、尻餅ついて痛いなー、で済んではいるが。

「あ……」

 きょとんとしたままの模糊の視界に、ベッドの上に起き上がった禎理の戸惑った顔が映る。

「ごめん、模糊」

 禎理は少しだけ目を伏せると、もそもそとベッドから降り、模糊の傍に屈んでその額を優しく撫でた。

「お腹すいたんだろ、すぐ御飯にするから」

 その『優しさ』が、模糊には痛い。

 体調悪いのに、起こしてしまった。別にお腹は余り空いていないし、ただ、甘えたかっただけなのに。しゅんとした気持ちのまま、模糊はよろよろとテーブルに向かう禎理を見つめていた。

 と。

 模糊の傍を離れた影が、不意に揺らぐ。

〈……え?〉

 支えようと前へ飛び出すが、小さな身体では何もできない。

 そのまま、禎理の身体は、模糊の傍の床に頽れて、しまった。

 ぐったりとして、動かない禎理。模糊が鼻先でその身体を強く押しても、反応が無い。

 冷たい感覚が、模糊の気持ちを慄かせた。

〈どう、すれば……〉

 禎理を助けないといけない。でも、自分には、何もできない。声をあげる事も、禎理を抱き起こす事も、模糊にはできない。

 できることは、一つだけ。模糊はくるりと踵を返すと、風を入れるために開けてあった部屋のドアから勢いよく飛び出した。

 その勢いのまま、狭い階段を転がり落ちる。

 打ち身であちこちが痛かったが、そんな事には構っていられない。人間用の階段は模糊にはスケールが合わないし、階下にしか助けてくれる他の人はいないのだから。

 しかし、飛んでも転がっても走っても、小さな身体ではスピードに限界がある。

 自分も、禎理と同じ人間だったら。そう、強く願う。そうすれば、もっとちゃんとした方法で禎理を助ける事ができるのに。

 その思いを抱えたまま、一番下の階まで駆け下り、この家の大家さんを探す。だが、何か所用があるのか、どの部屋にも誰も居ない。

 どうしよう。誰かの助けが必要なのに。途方にくれる模糊の頭に、この時一瞬だけ閃くものがあった。

〈……三叉さんさ亭!〉

 禎理が冒険者として登録している冒険者宿『三叉亭』は、ここから近い。三叉亭の主人六徳は大抵一階の酒場に居る。それに、そこの二階には『診療所』があって、白い髭を生やしたゆづると言う名の医者と、赤い髪の七生ななおという助手の女の人がいる。

 彼らなら。

 玄関のドアを体当たりで開けてから、猛然と外に飛び出す。

 目の前の細い道を左に曲がり、突き当たりでまた左に曲がってから、家々の隙間にある階段を上がり、そこから続いている、運河に掛かる橋を渡るともう三叉亭の二階、弦の診療所だ。

 開いていた扉から、診療所へ飛び込む。

 そして、そこに居た七生の腕を掴むと、模糊は来た道を再び猛然と走った。


 模糊が出て行ったときと同じ格好で、倒れている禎理。

 その禎理の傍へ、模糊は七生を引っ張って行った。

「禎理……」

 禎理を見た七生が、一瞬、息を止めるのが分かる。

 しかし七生はすぐに禎理の上に屈み込み、その額に白い手を当てた。

「貧血を起こしたのね」

 禎理の身体を素早く仰向けにして、楽にさせる。その七生の様子を、禎理は大丈夫かとドキドキしながら見ていた模糊は、次の七生の言葉に心底驚いた。

「ベッドの枕取って」

 きょとんとした表情で、辺りを見回す。しかし勿論、部屋の中には、倒れている禎理とそれを見ている七生と模糊しか居ない。と、いうことは、ボクが、枕を取りに行かなきゃいけないの?

「聞こえなかったの? 早く枕取って来て! 足の下に敷くんだからっ!」

 苛立った七生の声に、弾かれたようにベッドの傍へ向かう。

 とにかく、まずは禎理の事だ。

 だが。

 ベッドの傍に立って、そこで初めて違和感に気付く。

 ……何故ボクは、先ほどまで床から見上げていた筈のベッドを見下ろしているのだろうか?

 戸惑いつつ、枕に手を伸ばす。自分の視界に入ってきた腕に、模糊は再度驚いた。

 もう一度、辺りを見回す。勿論、誰も居ない。と、いうことは、この腕は、まさか……!

 目の前の腕を、まじまじと見つめる。不安と期待感に囚われつつ、視線を動かすと、その腕は確かに自分の身体に繋がって、いた。

 腕から肩へ、そして身体へ。目に映るモノは、確かに、人間の身体。

〈……え?〉

 叫べたら、叫んでいただろう。

 模糊は確かに、『人型』になっていたのだから。

 勿論、魔物の中には人型をとれる者もいる。だが、自分にその力が有ったとは。

「何ボケッとしてるの!」

 七生の声で、我に帰る。

 模糊は大急ぎで、自分の手で掴んだ枕を七生に渡した。

 その枕をひったくるようにして受け取ると、七生は禎理の足の下にそれを敷き、頭の方が低くなるようにした。そしてしばらく禎理を見つめ、少しほっとした表情になると、今度は模糊の方に視線を向けた。

「禎理をベッドまで運びたいんだけど……あなたじゃ無理ね」

 遠慮のない視線が、模糊を上から下まで眺め回す。

 何か問題があるのだろうか? 背中を小刻みに震わせながら、模糊は七生の視線に耐えた。

「三叉亭で六徳か誰かを呼んできて欲しいんだけど、……あと私の診療鞄も」

 そんな模糊の表情を観察するような視線のまま、指示を出す七生。

 だが、一瞬言葉を切った後、七生は不信をこめた眸で模糊を見た。

「ところで、あなたは誰? 禎理の友達にしては見ない顔ね」

 元々声を持っていないダルマウサギ族である模糊には、自分に起こったことを説明する手段が無い。一応、禎理に教わった文字をいくつか知ってはいるのだが、人間の身体でその文字を書くことができるかどうかは怪しいし、第一、起こったことをきちんと説明することも、今の模糊には難しかった。

 もどかしい気持ちで、七生の後ろにいる禎理に視線を移す。

 禎理の薄い胸が微かに上下するのが、模糊の位置からもはっきり見えた。

 とりあえず、禎理は大丈夫だ。それだけが模糊をほっとさせる。

 でも、本当に、この状態をどう七生に説明すればよいのだろうか? 模糊自身、自分に一体何が起こったのかさっぱり分からないというのに。

 だが。

「……やっぱり、ここだったか」

 低い声に、呪縛が解ける。

 大きく響く足音と共に、大柄な影が部屋に入って来た。三叉亭の主人、六徳だ。

「いやぁ、弦のヤツが『七生が黄色の垂れ耳をつけた変な少年に攫われた』って血相変えてやって来てなぁ。格好を詳しく教えてもらったらすぐに分かったがな」

 診療鞄を七生に渡してから、模糊に向き直る六徳。

 その大きな顔が、いつもよりかなり近くに見えた。

「だが、ダルマウサギ族に変身能力があるなどとは、聞いたことが無い」


「……じゃあ、この子は、模糊、なの?」

「ああ、間違いない」

 疑いを含んだ七生の言葉に、六徳は重々しく頷いた。

 それでもまだ疑いが解けぬのか、模糊をじっと見つめる七生。無遠慮なその視線から逃れるように、模糊はベッドの端に腰掛けた。

 その側には、六徳が抱きかかえて運んだ禎理の小さな身体がある。

 眠っているその顔色は、七生の手当てのおかげで先ほどよりもずっと良くなっていた。

「……でも、おかしいわ、最近の禎理」

 ほっとする模糊の耳に、部屋のテーブルに陣取って休んでいる七生の不安げな声が響く。

「今年の夏はいつもより暑いってみんな言ってるし、倒れる人も多いけど、丈夫さが取り得の『冒険者』がそう簡単に倒れたりするかしら?」

「まあ、『鬼の霍乱』、ってこともある」

 冒険者が皆、暑さに強いわけではない。そう言って七生の言葉に苦笑する六徳の声も聞こえてきた。だが。

「が、今回の件は、それとは別だ」

 突然、六徳の声色が変わる。

 そして、次に耳に入ってきた言葉に、模糊の背はびくっと震えた。

「おそらく、『吸血鬼』が絡んでいる」

「吸血鬼ぃ〜?」

 六徳の言葉に、素っ頓狂な声をあげる七生。

「って、あの、昔天楚市を騒がせたっていう……」

「同じヤツとは限らないがな」

 六徳の言葉を聞きながら、模糊は再び、禎理に視線を移した。

 その吸血鬼の事は、良く知っている。昔、禎理と暮らし始めた頃、吸血鬼に襲われた人間の死体を禎理の横で見ているし、何より、禎理の血を吸おうとした『吸血鬼』を実際に目撃しているのだから。

 でも、その時の『吸血鬼』は、禎理と魔界の大王『すう』が退治した筈ではなかったか?

 そっと、禎理の首筋に、指を伸ばす。首の左下、付け根の辺りに、その時の吸血鬼の牙の痕が今も残っていることを、模糊は知っている。

 だが。

 その古い傷の下にあるモノに、模糊ははっとして指を引っ込めた。

 そこに、あったのは。

「この傷を、吸血鬼以外誰が付けられる?」

 いつの間にか、模糊の傍に立っていた六徳が、禎理の首筋を指して七生にそう尋ねる。

 その指の先には、確かに、赤く腫れ上がった二つの丸い傷跡が、有った。

「吸血鬼だって断定もできないと思うわ」

 しかし、その傷口を仔細に観察した七生は、首を傾げる。

「傷跡の間隔が狭すぎ。少なくとも人間じゃないわね」

「しかし、虫刺されにしてはおかしい。貧血の問題もある」

 あくまで淡々とした声の六徳。

 その二人のやり取りを聞きながら、模糊の背中の震えはますます酷くなっていった。

 ずっと禎理の傍にいるけど、禎理が吸血鬼らしきものに襲われているなんて、今まで全く気付かなかった。

 禎理を『守りたい』が為に、ずっと一緒に居るというのに。

「……じゃあ、何なんでしょう?」

 六徳とも七生とも違う静かな声に、はっとする。

 この、声は。

「禎理!」

「気が付いた!」

 六徳と七生が同時に声を上げる。

 その声に、禎理は少しだけ笑うと、模糊の方にその優しげな視線を移した。

 もしかして、ボクのこと、分からない? 不安感に、胸がドキドキする。

 だが、禎理はやはり禎理だった。

「模糊」

 にっこりと笑ってから、模糊の方に手を伸ばす禎理。

 やっぱり、禎理はボクのこと、分かってくれた。嬉しさのあまり、禎理に抱きつく。

「む……」

「模糊っ!」

 禎理の微かな呻き声と、七生の警告声で初めて、自分が今『人型』であることを思い出す。いつもより図体が大きいこの状態で、弱っている禎理に飛び乗ったら、禎理が無事で有る筈がない。

 慌てて、身を起こそうとする。

 だが。

「……大丈夫」

 その声と共に、身体全体が温かさに包まれる。

 抱き締められている。それを理解するまでしばらくかかった。

 おずおずと、禎理の背中に腕を回してみる。禎理の温もりが、確かに、腕から全身へと伝わってきた。

 幸せだ。模糊は心からそう思った。


 開け放した窓から、月の光が煌々と降り注ぐ。

 その光に包まれた禎理の寝顔を、模糊はうっとりと見つめた。

 この部屋のベッドは作り付けで、冬には温かい戸棚型になっているのだが、元々二、三人用のものらしく、小柄な禎理と模糊が一緒に横になってもまだ広々としている。

 人間の姿だから、禎理を抱き締めることもできるし、背中をくっつけて眠ることもできる。今のように、禎理が吸血鬼に襲われないように横に座って見張る事もできるし、万が一、禎理が吸血鬼に襲われても、退治することだってきっとできる。そのことが、模糊にはとても嬉しかった。

 だが。……何だろう、この違和感は?

 首を傾げた模糊は、次の瞬間、その理由を知り、訳もなく苦笑した。

 お腹が、空いているのだ。

 しかし模糊は、夕方に六徳が持って来てくれた特製シチューを、禎理の分まで食べようとして一緒に食卓についていた七生にきつく怒られるくらいお腹一杯に食べている。幾ら大食いのダルマウサギ族とはいえ、こんな短時間でお腹が空くわけがない。

 いや、お腹が空いているわけではない。

 ……ただ、物足りない、だけ。

 自分の状態に首を傾げながら、模糊はもう一度、禎理の寝顔を見つめた。

 森で、魔物捕獲用の罠に引っかかっているところを禎理に助けられて以来、ずっと禎理にくっついている模糊だが、こんな風に見下ろした禎理が、静かで、頼りなげで、儚げな表情をするとは思ってもみなかった。

 いつも模糊を守ってくれ、いつも他人の為に無茶ばかりする人間には、到底見えない。

 不用意に触ると壊れそうな気がして、模糊はそっと身を離すと、少しだけ眠ろうとベッドに横になった。

 と、その時。

 赤い煌きが、模糊の目を射る。その煌きに誘われるまま、模糊は禎理の首筋に顔を近づけた。

 蠱惑的な匂いが、鼻腔を満たす。気が付くと、模糊は禎理の首筋にその牙を立てて、いた。

 禎理の甘い血が、口いっぱいに広がる。その時になって初めて、模糊は自分が行っていることに気が付いた。

 このボクが、禎理の血を吸っている……!

 大急ぎで、顔を上げる。首筋に流れる血と、痛みに歪んだ禎理の顔が、月明かりにはっきりと映った。

 いけない! 大急ぎで自制する。だが、禎理の首筋から流れる血の色と匂いが、模糊を捕らえて離さない。

 ダメ! 麻のシーツをぎゅっと握り締め、しっかりと目を瞑る。禎理を傷つけては、いけない。

 緩慢な動きで、ベッドから降りる。

 誘惑を振り切るように、模糊は首を左右に激しく振ると、くるりと踵を返し、部屋から飛び出した。


「……なるほどな」

 真夜中に現れた模糊を見ただけで、六徳はすぐに事情を察してくれた。

 この状況下で、頼れるのは六徳しかいない。そう思い、禎理の部屋から寄り道をせず三叉亭に飛び込んだ模糊だったが、どうやらその選択は間違っていなかったようだ。模糊はほっと胸を撫で下ろした。

「とりあえず、口を拭きな。話はそれからだ」

 目の前に投げられた布巾を、素直に受け取る。

 ゆっくりと口を拭くと、あの、蠱惑的な匂いが蘇った。

〈……!〉

 反射的に、布巾を床に投げつける。それでも、一度知った甘美は今も、模糊の気持ちを捕らえて離さない。

「しかし、禎理を傷つけるヤツを、このままにしておくわけにはいかんな」

 六徳の言葉が、耳に痛い。

 傍目には、料理好きな普通の人間にしか見えない六徳だが、その正体は、地上界の美味に惹かれた魔物である。そして、『吸血鬼騒動』以来、禎理を影ながら見守るよう、魔王数から直々に頼まれているらしい。

 そんな六徳の言葉だから。模糊は一瞬にして、禎理と離れることを覚悟した。

 でも。たとえボクが『吸血鬼』で、禎理を傷つけるものだとしても、それでも、禎理の傍にいたいと思うのは、間違っているのだろうか?

「でも、お前は、禎理の傍に居たいんだろ?」

 そんな模糊の気持ちを察してか、六徳がそう、尋ねてくる。

 無意識のうちに、模糊はこくんと頷いていた。

「……仕方ないな」

 ややあって、六徳が呟く。

「誘惑を断ち切れるまで、しばらく閉じ込めるか」

 六徳に導かれるまま、店の奥へ向かう。

 調理場の下、地下の食料庫に梯子を使って降りると、六徳は隅に置かれた椅子を模糊に示した。

「ちょっときついかもしれんが」

 椅子に座った模糊を、六徳は太いロープでぐるぐると縛る。

「一応、魔界にも相談するが、結果が出るまでは我慢してくれ」

 結び目が固く締まっているかどうかを確認しながら、六徳は諭すような、落ち着いた声で呟いた。

「多分無理だとは思うが、とにかく、逃げるなよ」

 その呟きに、多少の鋭さが混じっているように聞こえるのは、地下室に居るからだろうか?

「お前が、もう一度禎理を襲うようなことをすれば、お前を殺さなきゃならなくなる。そうなれば禎理は、……自分を責める」

 六徳の言葉に、背筋が凍る。

 しかし、六徳の言葉が真実なのも、分かってはいた。

 だから、模糊は、六徳に向かってしっかりと頷いて、みせた。


 だが。

 暗い地下室に独りになると、どうしても、『血』のことを思わずにはいられない。

 いつも、無茶ばかりして、怪我ばかりしている禎理。

 血が無くなると、人間は死んでしまうので、禎理が怪我をするたびに早く血が止まるようにと模糊は傷口を舐めていた。

 ……それが、いけなかったのだろうか?

 禎理はきっと、ボクのことを心配しているだろう。とりとめもなく、そんなことを考える。

 七生に、毎日様子を見に行かせるから心配ない。そう六徳は言っていたけど、やはり、治療ができるとはいえ、七生では少し頼りない。他の、三叉亭にたむろしている冒険者全員を禎理の護衛に付けても、まだ心配だ。

 魔界に行って『治療』したら『治る』のなら、魔界に行っても良いと思う。……でもやっぱり、禎理と離れるのは、嫌だ。

 ――あの、甘い『赫』と、離れるのは。


 身体を縛っていたロープは、いつの間にかばらばらになっていた。

 天井にある、唯一つの入り口は、飛び上がって体当たりをするとすぐに開いた。

 夢遊病者のようにふらふらと、だが確実な目的の為に、模糊は眼前の扉に手をかけ、建物の外へと飛び出した。


 それから、どこをどう歩いたのか、記憶にない。

 気が付いた時には、禎理の部屋の中に立っていた。

「あら、模糊」

 禎理を診ていたのだろう、愛想の良い七生の声が、模糊の耳を打つ。

 顔を上げると、青白い顔で眠っている禎理の顔が、七生の背後にはっきりと見えた。

 ふらふらと、ベッドに近づく。だが、禎理に屈みこむ直前で、何とかギリギリ、模糊は自分を律する事に成功した。

 ダメだ。禎理を襲ってはいけない。

 しかし……。

「どうしたの、模糊?」

 不穏な模糊の気配を察したのか、七生が模糊の顔を覗き込む。

 いつもは赤い髪に隠れている白い首筋が、模糊の目の前に現れた。

 そうだ。ふと、思いつく。他の人の血で満足すれば、禎理を失わずに済む。

 殊更緩慢な動きで、模糊は七生の肩に手を掛けた。

「ちょ、ちょっと、模糊、何を……」

 七生の抵抗が感じられたが、そんなものは毛ほどにも思わない。

 模糊はゆっくりと、七生の首筋にその牙を立てた。

 と、その時。

 思いもよらぬ強い力で、右腕が引っ張られる。

 右肩から、模糊は禎理が眠っているベッドに倒れこんだ。

「模糊!」

 唖然とする模糊の首に、腕が回される。

 この、温かさは。

〈……禎理!〉

 喜ぶ前に、振り解こうともがく。このままでは、また、禎理の血を吸ってしまう。

 だが。

「大丈夫だよ」

 耳に囁かれた言葉に、全身の力が抜ける。

 やはり自分は、この温かさを振り切ることが、できない。

「七生」

 しっかりとした禎理の声が、模糊の耳を打つ。

「少し、模糊と話がしたい。……悪いけど、後で徳さんと来てくれる?」

「分かった。……でも、大丈夫なの?」

「大丈夫」

 躊躇いをみせた足音が、ゆっくりと遠ざかる。

 その音が聞こえなくなってから、再び禎理は模糊に囁いた。

「他人を襲ってはいけない。模糊の為にならない」

 禎理の言葉に、首を横に振る。

 でも、禎理の傍に居て、なおかつ禎理を傷つけないようにするためには、そうするより他ないではないか。

 ぼろぼろと、涙が零れる。この温かさを、失いたくない。

「俺なら、大丈夫だから、ね」

 不意に囁かれた、優しい言葉。

 頭を撫で擦る小さな手に導かれるように、模糊はおずおずと禎理の方に顔を向けた。

 次の瞬間、鮮やかな『赫』が、甘い匂いと共に模糊を誘う。

 頭の中が、真っ白になる。

 躊躇い無く、模糊は禎理の首筋にその牙を押し付けた。


 ふと、意識が戻る。

 次の瞬間、模糊ははっとして、禎理の首筋から牙を抜いた。

 どのくらい、経ったのだろうか?

 おずおずと、模糊は禎理の方に顔を向けた。

 と、その時。

 禎理の身体が、横ざまに倒れる。

 慌てて支えようとした模糊の身体ごと、禎理の身体は力なくベッドの上に崩れ落ちた。

 その禎理の顔を見て、はっとする。

 禎理の顔には、血の気が全く無かった。

〈……え?〉

 呆然と、土色の顔を見詰める。

 まさか、血を、吸い……過ぎた?

 大慌てで、禎理の身体を強く揺する。しかし、慣性のままに揺れるだけの身体は、目覚める気配すら見せない。

 これは、まさか。わなわなと、全身が震える。

 確かに、血を吸ったのは自分だ。でも、こんなことは、予想だにもしていなかった。

 取り返しのつかないことを、してしまったのだ。

 ぐったりとした、冷たい身体を、強く抱き締める。涙は、出て来なかった。禎理をこうしてしまったのは、自分だ。悔恨の情だけが、全身を駆け巡る。

 でも。……こんなのは、嫌だ。

 無意識のうちに、色褪せた禎理の唇に自分の唇を重ねる。自分が吸ってしまった生命が、少しでも戻るように。いや、禎理の生命が戻るのなら、自分はどうなっても構わない。

 模糊が心からそう思った、次の瞬間。

〈……うわぁ!〉

 突然、身体が宙に投げ出される。

 気が付くと、模糊は仰向けに倒れた禎理のお腹の上に、居た。

 呆然とする視界が、微かに上下する。

 禎理が、息をしている? ……生きている! そう理解するまで、しばらくかかった。

 そして、自分が元の小さなダルマウサギに戻っていることに気付くのにも。

〈良かった……〉

 ほっとした、次の瞬間。

 禎理が、微かに身じろぎする。

 慣性のままにころころと転がった模糊の身体は、次の瞬間、禎理の左首筋にぴったりと収まっていた。

 赤い傷口が、視界に入る。

 しかし、今の模糊には、その魅惑的な色も匂いも、何の効果も与えなかった。

 あんな思いをするくらいなら、我慢することくらい、簡単だ。


 六徳と七生の急いた足音が近づいてくる。

 いつものように禎理の温もりを感じてから、模糊は禎理の首筋に蹲ったまま、静かにその目を閉じた。

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