王の手
中天に差し掛かった夏の太陽が、白亜の神殿をはっきりと輝かせる。
その眩しさから逃れるように、禎理はその視線を、神殿の門から階段下へと移した。
次の瞬間、禎理の耳に響いたのは、空に向かって幾重にも重なった鐘の音。
〈……やれやれ、やっとか〉
その澄んだ音を合図にして、禎理は休んでいた物陰からゆっくりと立ち上がると、神殿の入り口に群がった群衆の中に紛れ込んだ。
小柄な身体を利用して、一息で、群衆の一番前に出る。丁度、礼拝を終えた王が貴族や騎士達を伴って神殿から出て来る姿が、眩しい光の中ではっきりと禎理の目に映った。
今日は、天楚大火祈念日。共通暦一一一六年の夏の夜に発生し、一夜にして天楚が灰燼に帰してしまった日とその時に失われた命、そして、その後の復興に携わった人々の苦労と努力を忘れない為の日である。天楚の王は、この日には必ず、天楚市内にある、大火の祈念の為に作られた神殿に詣でることになっていた。……たとえ、その命が狙われていたとしても。
「困難なことだとは分かっている。だが、どうしても守りたいんだ」
昨夜、三叉亭に現れてそう言った、天楚の貴族騎士須臾の顔がありありと思い浮かぶ。
現在の天楚王活破七世が庶民寄りの政治をしていることはよく知られた事実である。そして、それゆえに、軽視された貴族達からの反発が、かなり厳しいものであることも。
つい先日も、王の味方である六角公の屋敷に、『今度の祈念祭に、王を暗殺する動きがある』と言う投げ文があった。だから須臾は、禎理に、こっそりと王を守るよう頼みに来たのだ。何も無ければそれでよし。何かあり、その結果が最悪なものであることだけは、どうしても避けたい。蜂蜜酒を飲みながら話を聞く禎理の前で、須臾ははっきりとそう、口にした。
禎理自身、神殿やそこで行われる儀式に胡散臭いものを感じているのだが、誰でもない須臾の頼みである。引き受けない訳にはいかなかった。
……自分にも、『守りたいもの』が、あったから。
眩しさに慣れた目が、王の姿と、その周りを見つめる。
白と緑の式服を身につけた王は、小柄な姿とは対照的に、堂々とした威厳を漂わせていた。
その王の後ろを、貴族騎士が着用する深紅のマントを身に付けた須臾が、腰に佩いた細身の剣に手をかけて歩いている。
と。
東方の陸人族には珍しい、王の金色の髪が、さらりと揺れる。
何か、有ったのだろうか? そういぶかしむ禎理の目の前で、神殿の階段を降りきった王はつと屈み込むなり、階段下に座り込んでいた乞食の集団の方へ、その腕を差し出した。
一人の乞食の萎えた足に触れた王の手が、微かに光る。その光は、髪の色の反射でも、日の光の反射でもない。正しく、王の手から発せられているように、禎理には感じられた。
あの光は、何なのだろうか? もしかすると、王は、二百年以上前に滅びてしまった『魔術』を、使うことができるのだろうか? 護衛の仕事が終わったら、須臾を捕まえて聞いてみよう。禎理がそこまで考えた、まさにその時。
並んでいた乞食の頭の一つが、僅かに浮く。片腕を上げた乞食の、その手の中にある鋭く光る得物を、禎理ははっきりと、認めた。
身軽さを利用して飛び上がり、乞食集団の中に飛び込む。王に当たるギリギリの所で、禎理は乞食の持っていたナイフを辛うじて止めた。
「王!」
すぐに、須臾が王を乞食から引き離す。
だが、敵は一人ではなかった。
「須臾! 後ろっ!」
王の背後に短剣が迫っていること気付き、慌てて叫ぶ。
すんでの所で、背後からの攻撃は須臾の剣に阻まれる。そしてそのまま、ある意味無造作な動きで、須臾は刺客の胸にその剣を突き刺した。勿論、剣を握っていない方の腕で王を庇ったままだ。
やはり、須臾の剣捌きは抜群だ。抵抗する乞食一人を何とか抑えながら、禎理は心底そう思った。
と、その時。
「あっ!」
須臾の後ろで頑張っていた貴族騎士達を掻い潜り、刺客の一人が須臾に襲い掛かる。
さすが、貴族騎士の剣を避けたほどの腕の持ち主である。フェイントを駆使して巧みに操られる短剣に、さすがの須臾も苦戦している。
ほんの一瞬、須臾の左腕が王を離す。その一瞬を見逃すほど、甘い刺客たちではなかった。
よろめく王の前に、騒ぐ群衆から一人の男が飛び出す。その男の手には、毒のために青く光るナイフ。間に合わない! そう思うより早く、禎理は王と刺客の間に割って入って、いた。
抱えるように、王を庇う。刺客の持つナイフが、自分の背を貫いたのを、禎理は確かに感じた。
「禎理!」
次の瞬間、須臾の大声が耳を打つ。
禎理を刺した男が、須臾の剣の前に倒れるのが、はっきりと、見えた。
だが。
吐き気を感じると共に、ぐるぐると、視界が回る。王を庇ったまま、禎理は石畳の地面に膝をついた。
すぐに、身体を支えるのに両手が必要になる。だが、地面についたはずの両腕は、虚しく崩れた。不快な筈の傷の痛みも、全く感じない。
「しっかりしろ、禎理! 大丈夫か?」
倒れかかる身体を、須臾が支えてくれる。
近くにいるはずの須臾の声が、ずいぶん遠くで聞こえた。
「これは……! 早く、医者を!」
心配そうに覗き込む須臾の顔が、暗く霞む。
尊敬する王と、友人である須臾が無事で良かった。奇妙な満足感が、暗闇に引き摺り込まれていく禎理の全身を包んだ。
だが。
消えかけた意識が、痛みによって覚醒させられる。
うっすらと目を開けた禎理は、うつぶせになった自分の背に王が手を当てているのをはっきりと、見た。その王の手から発せられる、強く優しい光も。
「……気がついた」
いきなり、心配そうに眉根を寄せた須臾の顔が大写しになる。
「大丈夫。王がちゃんと治してくれるから」
「うん……」
傷の痛みは既に無く、毒による吐き気も治まっている。
瞳だけ動かして王を見つめると、禎理はお礼の言葉を口にした。
「ありがとう、ございます」
その禎理の言葉に、首を横に振って答える王。
幼い頃の病気の為に口の聞けない王だから、言葉は全く発せられないが、王の言いたいことだけは、禎理にははっきりと、分かった。
緩慢な動きで、王はその右手を禎理の肩から額へと移す。
王の手から流れ来る心地よい気持ちに身を任せながら、禎理はゆっくりと目を閉じた。




