冷たさの底に
大樹の根元で微睡む身体の上に、凍りついた冷気が降りてくる。
突然のことに逃げられず、それでも何とか、禎理はこれ以上身体が冷えないよう、手足をきゅっと胴体の方へ寄せた。
閉じていた目を、そっと開く。蒼白な顔と、紫色の唇が、禎理の顔から小指一本分も離れていないところに見えた。
長い髪から滴る冷たい水滴が、禎理の肩を濡らす。刺すようなその水滴と、身体にぺったりと張り付いた服の色から、目の前に居るのが女の子だとすぐに解った。おそらく、この近くを流れる、小さくみえて淵の多い小川で溺れた少女の、身体から離れた魂だけがこの辺りを彷徨っているのだろう。
「ダメだよ。こんな所でうろうろしてちゃ」
少女の吐く、氷のような息に顔を顰めながら諭すようにそう呟く。
死者の魂は冥界に行って初めて、生きている間に感じた辛さや悲しさを全て忘れて憩うことができ、そしてまた新たな命として生まれ変わることができる。それが、『この世界』を支配する『自然の理』。冥界に行かず、肉体を失ったまま幽霊として彷徨っていては、何時まで経っても辛い想いを引きずったままになってしまう。いや、何か悪意のあるモノ達に利用され、さらに辛い想いをしてしまう可能性も、ある。……『自然の理』に反した行為は、不幸しか生まない。それは、禎理自身が身に染みて知って、いた。
だが。禎理の言葉に、少女は首を横に振る。
更に少女を説こうとした禎理だが、その時になって初めて、少女が発する冷たさの影に別の感情があることに気づいた。その感情は、怒り。少女の持つ、その強い感情が消えない限り、少女は冥界に向かうことはないだろう。禎理はふっと息を吐いた。
とにかく。『自然の理』に反するわけには、いかない。
だから。
「俺に、できることがあったら、言って」
優しさを込めて、言葉を紡ぐ。
次の瞬間。身体の中に入って来た冷たい感情に、禎理は思わず、呻いた。
森の中に似つかわしくない歌声に、男は思わず足を止めた。
誰だろう。訝しみつつも好奇心が勝り、狩り用の長弓を持ち直してから歌声の方へ向かう。すぐに、声の持ち主が川縁の岩に腰掛けているのが見えた。
裸足の足を流れにつけた男装の麗人が、豊かな声で夏の歓びを歌っている。領主である自分が知らない、この辺りでは見ない人物だから、おそらく旅の歌姫だろう。それならば、男装も短髪も納得がいく。髪の長さは勿体ないが、ほっそりとした肢体は、好みだ。男はにやっと笑うと、まだ男のことに気付いていない歌姫に背後から襲い掛かった。
次の瞬間。
歌姫の身体が、くるりと反転する。その身の軽さに感心するより先に、男の身体を水の冷たさが襲った。
「……なっ!」
どんなに必死にもがいても、何故か、水の外に顔を出せない。この川はこんなに深かったか? 混乱する男の視界に、不意に、あの歌姫の顔が映った。歌姫が、華奢な腕からは想像もつかないような怪力で、男の身体を水中に沈めていたのだ。
何をする! その言葉は、声になる前に喉の奥で消える。
男の瞳に最期に映ったのは、長い髪の少女。この春、戯れに処女を奪い、責任を問われて面倒になったので淵に突き落としたあの少女、だった。
背中に当たる小石が、痛い。
水に濡れて重い服を持て余しながら、禎理は川原でふっと息を吐いた。
まだ少し、身体中に違和感が残る。少女の魂に身体を引き渡していたのだから、これは当然だろう。
それにしても。これで、良かったのだろうか? 苦い想いが、心を噛む。あの男は自業自得だが、憎い相手を殺したところで、心は癒されるのだろうか? もっと深い後悔を背負うことには、ならないのだろうか?
「ま、いいか」
もう一度、息を吐く。
禎理にとっては、あの少女が冥界に行くことに納得してくれれば、それで良いのだ。
少女はもう、冥界に着いただろうか? 悲しみや怒り、苦い想いは、癒されただろうか。
ゆっくりと朱に反転する夏の空を、禎理はずっと眺めて、いた。




