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遊女街の瞳

 全身にまとわりつく風に、微かな血の匂いが混じる。

 その匂いに気づくよりも早く、禎理ていりの足は石畳の道を強く蹴っていた。

 小走りで走りつつ、天楚てんその歓楽街、一柳ひとつやなぎ町の路地や小路の暗がりを、大小に関わらずカンテラを掲げながら一つずつ丁寧に確かめる。

 しかし、何も見つからない。だが、その間にも、風に混じる血の匂いはしっかりと濃くなって、いた。

 どこに、居る? 焦りと共に、冷たい汗が背中を流れ落ちる。

 早く、見つけなければ。その想いだけが、禎理を突き動かして、いた。


 人が外に出ている時間が長くなる夏は、犯罪も多くなる。

 現に今、天楚市、特に歓楽街である一柳町では、この町で働いている遊女だけを狙った辻斬りが多発していた。

 顧客の頼み、あるいは姉女郎の頼みかで消灯後の街へ出た女が、辻斬りの餌食となって儚い命を散らしている。そんなことが起こらないよう、冒険者であり、この一柳町に寓居を定めている禎理は天楚市民で構成する夜警隊を手伝い、毎夜一柳町の見回りをしていた。

 だが。……たった一人で見まわるには、この町は広すぎる。

 焦燥感から、禎理は思わず舌打ちをした。

 今更ながら、夜警隊のなり手の足りなさが、悔やまれる。


 と、その時。


 血の匂いが、急に濃くなる。

 近い。そう思った次の瞬間、掲げたカンテラの光がきらりと光る何かを捕らえた。

 ……刃、だ。

 それを確かめるのと同じ速さで、その刃を持つ大柄な背中へと飛びかかる。大柄な身体を抑え込む為の術は、身体に叩き込まれている。ほんの少しの時間で、禎理の右手は辻斬りの右手首を掴み、力一杯捻り上げた。

 だが。

 石畳に広がっていた血溜まりに、足が滑る。禎理が足に気を取られたほんの一瞬の間に、大柄な影は禎理の腕を振り解き、小路から大通りへと飛び出した。

 薄い雲に隠れた、朧な月明かりが、辻斬りの姿をそれでもはっきり映し出す。

 全身黒尽くめの、大柄な男。

 しかし、それを認識するより先に、禎理の足は突然、動かなくなった。

 振り向いた男の瞳が、月明かりに一瞬だけ光る。その瞳の冷たい色に、らしくなく感じたのは、恐怖だった。

 動けなくなった禎理を、一瞥する男。

 だが、男はすぐに禎理に背を向け、血の付いた刀を手にしたまま無人の大通りを走り去って、行った。

「……ま、待てっ!」

 小さくなる背に向けて、腹の底から、何とかそれだけ声を出す。だが、大音声だと思ったその声は、口から出た時には蚊の鳴くような声でしかなかった。

 追いかけなければ。そう、自分を叱咤しながら、黒い影の方に何とか一歩だけ足を踏み出す。

 と、その時。

 背後から聞こえてきた呻き声に、禎理の心はすっと冷静になった。

 落としたカンテラを拾い、もう一度、小路に向かって掲げる。まだ幼いと言っていいほどの年頃に見える少女が、左肩を抑えて呻いているのがはっきりと、見えた。

 大慌てで少女の傍へ行き、いつも携行しているポーチから薬草と包帯を取り出す。

 今はとにかく、被害者の命を助ける方が先だ。

「息をゆっくり吐いて。大丈夫だから。……痛いけど、我慢して」

 少女の背をさすりながら、そう、声をかける。

 止血と化膿止めを兼ねた、薬草を煎じて固めた軟膏を、怪我をしている場所に置くように、塗った。そうしておいてから、止血するために強めに包帯を巻く。事は、一刻を争う。応急処置をきちんとしたら、なるべく早く、この少女を診療所に連れて行かなければ。

「……お、産婆、さん。……早く。……姉様、が」

 焦り気味の禎理の耳に、少女の小さな声が響く。

 なんと。その言葉に、禎理の焦りはさらに大きくなった。

 それならば、なおさら早く診療所に行かなければ。

 包帯を巻き終わるなり、禎理は小柄な身体に似合わぬ力を出して少女を背負い、診療所への道を猛スピードで走り抜けた。


 しかしながら。

 なぜ、あの冷たい、憎しみの籠った瞳で、身体が動かなくなったのだろうか?

 石畳の道を走りながらも、この一つの疑問だけが、禎理の胸を苛んで、いた。


 何度もこづかれて、しぶしぶ疲れた眼を開く。

「もう、こんな所で寝ないでよ」

 まだ開ききっていない瞳で禎理が見上げた先に居たのは、赤い髪の、禎理よりは大柄な女性。一柳町にある診療所の助手、七生ななおだ。

「ほら、床の上で寝ない。服も血が付いたままだし」

 まくしたてる言葉が、禎理の耳に次々と入ってくる。

「全く、寝るんだったら自分の部屋で寝なさいって」

「はーい」

 耳障りな七生の言葉に、禎理は大欠伸をしながら返事をした。

 昨夜、辻斬りに襲われた少女をこの診療所に運んだ後、少女が仕えている遊女の出産を、七生と共に助けに行った。昨日の夕方からずっと夜警の仕事に就いていたのだから、結局昨夜は徹夜になったわけだ。だから、少しだけ眠った現在でも、とても眠い。

「第一、何で診療所の床で寝てるのよ?」

「それ、は……」

 また辻斬りが出て、私が襲われても良いの? そう言って、疲れている禎理を手伝いに引っ張り出したのは当の七生だ。だが、それは口が裂けても言えない。

 その代わり、とでも言うように、禎理は目の前にいた七生に白い目を向けた。

「まあ、先に着替えなさい」

 しかし、禎理のその視線は、七生には全く通用しなかった。

 禎理と七生には血の繋がりはないが、天楚の西にある『蛇神の森』で育った『流浪の民』の一族であるという生まれも、肉親をすべて流行病で亡くしたという境遇も同じである。だから、七生は禎理を弟とみているし、禎理の方も、七生を姉として慕っている。だから、こんな無遠慮なやり取りも、日常茶飯事。

「三叉亭で六徳のシチューが待ってるわよ」

 診療所の下にある冒険者宿――正確には、冒険者宿の一部を診療所にしているのだが――の名物の名前が、禎理の腹を鳴らす。だが、しかし、いくら何でも、血の付いた上着のまま下に行くわけにはいかない。だから禎理は、七生の言葉にこくんと頷くと、のろのろと立ち上がり、七生の前に立った。

「はい、ばんざいして」

 言われるままに、両手をあげる。

 いつになく素直な禎理の服を脱がせると、七生は手に持っていたチュニックをぽすっと禎理に被せた。

「あ、案外似合う」

 不意に、七生が大声をあげる。その時になって初めて、禎理は、自分が七生のチュニック――男物より丈が長く、袖と裾に刺繍が入っているもの――を身につけているのに気が付いた。

「女顔だけど身体は男だからどうかなー、って思ったけど、案外いけるわね。胸の無いのは御愛嬌、ってくらいに」

「はあ……」

 小柄で女顔。これは、禎理のコンプレックスである。だから、なるべく女物の服は着ないようにしている、のだが。にこにこする七生の視線を避けるように横を向いてから、禎理は七生に分からないようにふっとため息をついた。

 だが、七生の方は、そんな禎理の葛藤には全く構っていないようだ。不意に、七生は良いことを思いついたというように指をパチンと鳴らした。

「そうだ、禎理! あなた今日からこれ着て夜警しなさい」

「は?」

 思わぬ言葉に、口がぽかんと開く。

 そんな禎理の目の前で、にこにこ顔の七生はまくしたてるような口調でその理由を述べた。

「だって、辻斬りは女しか襲わないんでしょ? だったら、女装して夜警をした方が遭遇率は上がるんじゃない?」

「うん。……そうかも」

 確かに、禎理が女装して辻斬りを探せば、辻斬りを見つける確率も捕まえることができる確率も相当上がる。七生の意見も尤もだ。今までどうして思いつかなかったのだろう。

 貴重なアイデアをくれた七生に、禎理はいつになく感謝し、思わず頭を下げた。

「ありがとう、七生」


 その日から、禎理は七生から借りたチュニックを着て夜警にあたった。

 だが。三日経っても、辻斬りは全く現れなかった。

〈何やってるんだろう?〉

 四日目の夜。

 禎理の苛立ちは頂点に達して、いた。

 こっちが一生懸命探しているというのに一向に現れない辻斬りに対しても苛立っているのだが、夜警隊の詰め所に行く度に禎理の服装をからかう男どもにも正直腹が立つ。

 自分をからかうより先に、辻斬りを捕まえろっ! そう言いたくなるのを何度堪えたことか。

 問題は、もう一つある。七生のチュニックの丈が長すぎて、湿気を帯びた夏の夜の大気の中では、禎理の足にまとわりついてしまうのだ。

 蒸し暑い。馬鹿にされる。チュニックの裾が邪魔。以上の件が相乗効果を発揮して、抑えきれないほど苛立ちが募る。やっと見えてきた、雲の隙間から穏やかに辺りを照らす月の明かりも、禎理の苛立ちを解消してはくれなかった。

 しかし。……辻斬りは、捕まえなくては。

 この町の人々を傷つける奴を許すわけにはいかない。この町の人々の殆どは、禎理と同じ『流浪の民』。家族も、同様なのだ。禎理は石畳を蹴ると、気を取り直して見回りを続けた。

 カンテラを掲げ、周りをしっかり見廻しながら、小路へ入る。

 と、その時。

 ……後ろに、人がいる。

 振り返るより早く、禎理の右手は腰の短剣を抜いて、いた。

 薄い月明かりの下で見えたのは、四日前と同じ形の影。血の匂いはしないから、今日はまだ女を斬っていないのだろう。

 ……これから、斬るのか。……止めなければ!

 禎理はことさらゆっくりと、短剣をかざした。

 だが。

〈なっ……!〉

 不意に切れた、雲の間から照らす月の光が、男の姿をはっきりと映し出す。

 禎理は再び、男の視線と対峙した。

 その瞳の色は、冷たい色。女を女と、いや人間とも見ていない、深い蔑みと恨みの色。

 男の持つ、その視線で、禎理の足はその場に凍りついたように動かなくなった。足だけではない。かざした短剣を持つ手も、明らかに震えている。

 禎理の背を、冷たい汗が流れ落ちた。

〈いけないっ!〉

 男が振り下ろしてきた刃の色に、やっと我に帰る。逆袈裟に振り下ろしてきた男の刀を、禎理はぎりぎりのところで何とかかわした。

 だが。

 左肩に、痛みが走る。胸に流れてきたのは、生暖かい自分の血。

〈……ちっ〉

 避けきれなかったか。短剣を持ったままの右手で左肩を押さえながら、一歩だけ後退する。その瞬間、バランスを崩し、禎理は石畳の上に尻もちをついた。

 そんな禎理の目の前に突きつけられたのは、自分の血で赤く濡れた鋭い切っ先。首筋に近づくその凶器を避けるように、禎理は一生懸命力を振り絞り、尻と足だけで後退した。

 だが、切っ先の方も、禎理の動きに合わせてじりじりと近づいてくる。何かを楽しむようなその動きの遅さに背筋が寒くなり、禎理は歯を食いしばった。しかし、顔を上げて男を睨みつけることは、できない。あの憎しみを、受け止めて跳ね返す勇気は、今の禎理には全く、無かった。

 そして。

 禎理の背が、固い物に当たる。

 小路の、行き止まりか。そう感じるより早く、禎理の首筋ギリギリに刃が突きつけられた。

 これまで、か。禎理はそう、覚悟した、まさにその時。

「……誰?」

 聞き知った声が、禎理の耳を打つ。

「誰か居るの?」

 小路の入り口に立った影を確かめる前に、禎理はその人物が誰か直ぐに分かった。

 ……七生、だ。

 おそらく、往診から帰る途中なのだろう。七生は大きな鞄を肩から掛けたいつもの姿のまま、無防備にも大通りからこちらを覗きこんで、いた。

「七生!」

 ありったけの声をかき集めて、叫ぶ。

「逃げろっ!」

 だが、男の動きは禎理の叫びより速かった。

 禎理に向けていた刀を引くなり、小路を走り、次の瞬間には七生の頭上にその刃を振りかざす。対して、七生の方は、全く無防備なまま、だ。

 このままでは、七生が殺されてしまう。それだけは、させるわけにはいかない。

 ありったけの力を振り絞る。禎理は何とか立ち上がると、次の瞬間、男の背にタックルをかけた。

 はっとした顔の七生が後ろに一歩下がるのと禎理が男と共に石畳に倒れるのがほぼ同時。しかし次の瞬間には、禎理の腕は男の腰から外れてしまって、いた。

〈しまった!〉

 思わず、舌打ちする。しかし、左腕に力が入らない状態では、これが精一杯。

 だが、立ち上がった男を見た七生の行動は禎理の予想を上回っていた。

「誰か来て! 辻斬りよ!」

 いつもより高い声で、七生が叫ぶ。

 その声は、町の隅々まで響き渡った。

 驚いた町の人々が大通りに出てきたのが、音で分かる。

 そして、次の瞬間。

 刀を手に持ったまま、男は禎理達に背を向ける。数瞬のうちに、男の姿は町の闇に掻き消えて、しまった。

「……禎理」

 呆然としつつ、石畳から顔を上げた禎理の目の前にいたのは、いつになく厳しい表情の七生。

 その七生の腕が血に滲んでいるのを、禎理ははっきりと、認めた。

 悔しい。はっきりと、そう思う。自分があの視線に怯んだ所為で、七生に怪我を負わせてしまった。

 だが、次の瞬間には、七生はいつもの穏やかな表情を禎理に見せて言った。

「大丈夫。傷はそんなに深くないわ。私のも、禎理のも」

 しかし、七生の言葉を最後まで聞く気力は、今の禎理には残っていなかった。

 静かに、意識が闇に落ちていく。

 冷たい石畳が、禎理の身体を優しく受け止めた。


 次に禎理が目を覚ました時には、外は既に明るくなっていた。

「あ、起きた?」

 七生の声の調子と、ベッドの固さの違いから、診療所に居ることが分かる。

「大丈夫?」

 禎理がはっきり目覚めたのを確認するように、七生は禎理の鼻先ぎりぎりまでその白い顔を近づけた。

「うん、大丈夫ね。顔色も良いし」

 薬草の匂いが、つんと鼻をつく。

 禎理の額を触った、七生の冷たい手が、心地良かった。

「でも、らしくないわね、今回の件は」

 不意に、七生の口調が変わる。

 確かに、七生から見れば、体格差と武術の心得を考慮しても、正式な武術の訓練を受けて免許皆伝まで貰っている禎理が、あんな男に負けてしまうのは不思議としか言いようがないのだろう。

「……どうしたの?」

 禎理が寝ているベッドの端に腰を下ろしてから、いつになく優しい口調でそう問う七生。

 その腕に巻かれている包帯の、痛々しいほどの白さが、禎理の胸を突いた。

「ごめんなさい」

 ぼろぼろと、涙が零れる。

 男が持つ、視線の鋭さと冷たさに怯えてしまったことを、禎理は正直に話した。

「でも、分からないんだ。何で怖いのか」

 何故だか分からないが、本能的に、怖いと感じてしまう。

 しかし、その、『怯え』の所為で、七生は怪我をしてしまった。

 もう一度、七生の包帯が視界に入り、禎理は再びぼろぼろと涙を零した。

「私は、大丈夫」

 そんな禎理を、七生はそっと抱き寄せる。

「だから、泣かないで、禎理」

 その七生の優しさが、今の禎理には嬉しく、そして、痛かった。


 その、三日後。

 怪我がだいぶん回復した禎理は、今日も、一柳町の石畳の上を歩いていた。

 もちろん、往診に行く七生に引っ張り出されたのだ。

 遅くなって私が辻斬り襲われたらどうするの。そう言われてしまったら、ついて行かないわけにはいかない。

 ……七生だったら、辻斬りからも機転を利かせて逃げ出せるような気がする、が。

「微妙な時間ね」

 人が二人横に並んでギリギリ通れるくらいの、通りの真ん中。

 前を歩いていた七生が不意に振り返り、禎理を見つめた。

「今のところ、辻斬りは夜しか出てきてないけど、黄昏時も案外危ないんじゃない?」

 そうかもしれない。ふと、そう思う。

 昼から夜に変わる時には、人間が気がつかないうちに急激に光が薄れる。こういう時には、見えるものも見えないらしい。そう、誰かから聞いたことがある。

「目撃者を消す為に辻斬りが現れてもおかしくないわね」

 話題にそぐわない明るい声で、七生は話を続けている。

「私、この前見た顔覚えてるし」

 そんな余裕まであるとは。七生の度胸に禎理はほとほと感心した。

 それならばなおのこと、辻斬りに会っても七生は大丈夫なのではないか。そう、禎理が考えた、まさにその時。

「あっ!」

 不意に、七生が大声をあげる。

 人通りの絶えた通りの真ん中に、件の男が立っているのがはっきりと、見えた。

 しかも、抜き身の刀を七生に向かって構えている。

「七生!」

 今度こそ、七生に怪我をさせるわけにはいかない。

 突然のことに立ち尽くす七生を乱暴に脇に避けるなり、禎理は腰の短剣を抜き、男の懐に向かって力一杯飛びかかった。

 もちろん、男の方もさっと禎理を避ける。だが、その時にはもう、持ち前の素早さを利用して禎理は男の右腕を掴んで力一杯捻り上げていた。

 低い呻きと共に、男の腕から刀が落ちる。

 次の瞬間、男は禎理を鋭く睨んだ。

 その視線に込められた、冷たさと憎しみに、禎理の全身が総毛立つ。だが。……三度目の失敗は、しない。

 男の右腕を捻り上げたまま、男の背中側に回る。足を引っ掛けて男を石畳の上に倒すと、禎理はその背中に馬乗りになり、急所を押さえて男を動けなくした。

「こっちです!」

 いつの間にか現場を離れていた七生が、天楚の治安を管轄する平騎士隊の上着を着た男を二人連れて現れる。

「こいつが、辻斬りです! 襲われた時に顔を見ました!」

 禎理に代わって男を抑え込む平騎士隊の男たちに、七生の声が飛ぶ。

 その声の元気さに、禎理はほっとした。


 失敗もあったが、それでも何とか、七生と一柳町を守り通した。

 その達成感が、いつの間にか禎理を笑顔にさせて、いた。

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