夜に背く者
荒い息を整える為に、一瞬だけ息を止める。
その瞬間を狙い澄ましたかのように、目の前の大きな塊は禎理に向かって降るように飛びかかって、来た。
その黒い、疾風のような塊を、間一髪の所で身体を捻って躱す。身体のバランスを崩しつつも、目はその塊――全身漆黒の毛で覆われた、見たことが無い大きさの、狼――から離さない。つい先刻、禎理の得物である手斧で鼻面を叩いたばかりなのに、狼の動作には怯んだ所も弱った所も見当たらない。この、狼は、……尋常の物ではない。
顔に掛かる灰茶色の髪を乱暴に払い、腰の短剣に手を掛けてから、再び、黒狼と対峙する。四つ足で立っているのに禎理の目線と同じ高さに狼の炯々と光る瞳があることが、禎理には信じられなかった。此処は、大陸東部でも有数の都市、天楚市の大通り、だ。普通なら、こんな狼など居ない場所だ。何故、こんな所に、こんな大狼が? 禎理がそう首を傾げた刹那。再び、狼が禎理を襲う。漆黒の塊から見えた、汚れた牙が、満月の光に鋭く輝くのが、見えた。
今度も、際どい所で身体を捻って牙を避ける。だが今度は、身体のバランスを立て直すことができなかった。
石畳に不様に尻餅をついた禎理の頭上から、獣臭い匂いと共に黒い塊が降ってくる。為す術も無く、禎理は狼に組み伏せられた。背中には、石畳の冷たい感触。そして首には、狼の、血の混じった熱い息の匂い。
今夜は既に、天楚の夜の治安を守る夜警が二人、狼の牙に斃れている。昨夜も、二人。引き千切られ、喰い散らかされた無惨な塊が街路に散らばっているのを、今朝も今夜も禎理は見ている。自分も、あんな風に引き裂かれ、喰われてしまうのか。……いや、まだ、諦めてはダメだ!
狼の牙が禎理の左肩に当たるのと同時期に、何とか動いた右足を狼の脇腹に叩き付ける。少し怯んだ狼の首筋に、禎理は右手にまだ持っていた短剣を叩き付けた。
その攻撃が効いたのか、呻いた狼が禎理の身体から退く。折よく、月が雲に隠れた。今だ。痛む肩と身体には構わず、禎理は街路を転がって狼から離れると、丁度落ちていた棒を掴んで起き上がった。
だが。
「……あれ?」
暗闇に、目を凝らす。先程まで禎理を執拗に襲っていた狼の姿が、無い。禎理より大柄な、それでも人間の姿をした影が、頭を抱えて呻いているのが見えるだけだ。狼は、何処へ? 目の前に突然現れたこの人は、誰だ? 禎理がそう、疑問に思うよりも早く、再び、月が雲間から現れた。
次の瞬間。再び、狼が禎理の前に現れる。その首筋には、禎理が突き立てた短剣が、取れずに震えているのが見える。
短剣を、取り返さなければ。とっさにそう思う。禎理のもう一つの得物である手斧は、狼の鼻面を叩いた時に柄が折れて使い物にならない。戦う為には、狼の身体に刺さったままの短剣が必要だ。だから。再び飛びかかって来た狼を身を捻って回避すると同時に、禎理は狼の身体に刺さった短剣の柄に手を伸ばした。
だが。短剣の柄を掴んだ瞬間。
「……え?」
禎理の全身を、叩かれたような衝撃が襲う。気が付くと、禎理の背は再び石畳の冷たさを感じていた。そして。禎理の横に居たのは、やはり、頭を抱えて呻いている、全身漆黒の男性。
あれは、誰だ? 禎理のその疑問は、しかし、意識を襲った漆黒の闇に、消えた。
目を開けると、いつもの天井が禎理を出迎えた。
此処は……自分の下宿の、自分のベッドの上。おそらく誰かが此処まで運んでくれたに違いない。
「助かっ……た?」
思わず、呟く。全身が痛くて起き上がることはできないが、とにかく、生きている。良かった。安堵すると同時に心に生じたのは、疑問。……何故、自分は助かった?
「気が付いた」
昔聞いた声が、禎理の耳を打つ。この、声は。
「これ、貴方の短剣」
禎理の目の前に、鞘に入った短剣が差し出される。その短剣を持つ手の向こうには、青銀色の髪が揺れていた。昔からの知り合いである剣の魔物、百七、だ。
そして。
「貴方は、間違った短剣に触れた」
いつも通りの冷たい口調が、不可解な言葉を紡ぐ。
禎理の短剣をベッド脇の棚の上に無造作に置きながら、百七は少しだけ、滅多に見せない微笑みを禎理に向けた。
「それがどういう結果を生むのかしら」
木々も草原も、夕刻の黄昏の下に沈んでいる。
岩だらけの丘の上に、禎理は立っていた。
〈これは……〉
戸惑う禎理の瞳に、漆黒の長い髪が入る。手で髪を払いながら俯くと、漆黒の服とごつごつした岩場が見えた。
これは、誰かの夢か、誰かが過去に見た風景。おそらく自分より、背の高い人間の。目にした光景で、禎理はそこまで類推した。……しかし、誰の? 禎理が首を傾げるより早く。
東の空から、真珠色の丸い光が昇る。月、だ。
夜を守り、闇を照らす月を司る『月の乙女』の馬車が、禎理の横を通り過ぎる。その馬車が掲げる、光の大きさは、満月。馬車に乗っている、真珠色の髪に金色の服を着た柔らかな乙女は、『月の乙女』の一人、十五日。その乙女の姿を認めるや否や、禎理の姿は漆黒の狼に変わる。そして禎理は、『月の乙女』が走らせる馬車に向かって飛び上がった。
宙を蹴る四つ足は、しっかりと雲を捕らえ、速度を上げる。たちまちにして、狼姿の禎理は『月の乙女』が走らせる馬車に並走する形になった。顔を上げると、馬車を操る十五日の、ふくよかで優しげな顔が見える。豊かに微笑んだ『月の乙女』に、禎理の身は陶然となった。
だが。不意に、十五日の手が馬車を操る鞭から離れる。その手に金色の短剣が握られていると禎理が見た瞬間、鋭い痛みが、禎理の背から腹を突き抜けた。
弱々しく、十五日の方を見る。禎理を突き刺した黄金の短剣の柄を握ったままの十五日の表情は、黄金の髪の影になって見えなかった。
はっとして、目覚める。
「お、気が付いたか?」
禎理の額に触れていた大きな手が、汗を拭くのが、見えた。その向こうには、大柄で悠然とした顔が見える。禎理が所属する天楚の冒険者宿『三叉亭』の主人、六徳だ。
「三日も寝てたんだから、腹減ったろう」
六徳に助けてもらって、上半身を起こす。ベッド傍には、六徳が持って来たシチューの小鍋の他に、禎理自身の短剣が、見えた。百七が来たのは、夢ではない。
「まだ、動けないのか? まあ、命があるだけマシってところか」
黄金の短剣に触れた右手が痺れていて、まだ上手く匙が握れない。それでもなんとか、六徳が支える小鍋に口を近づけてシチューを食しながら、禎理は六徳の話に耳を傾けた。禎理が動けなかった間にも、狼は夜警を三人、喰い殺したと云う。いずれも月が煌々と光る夜に起きており、雨が降った昨夜は狼の目撃談も無い上、殺された夜警も居ないそうだ。
「また厄介な奴が現れたなぁ」
六徳の言葉に、暗澹とした気持ちになる。自分も、あの魔物に殺されていたかもしれないのだ。食欲が無くなり、禎理はシチューがまだ半分残っている小鍋を六徳に押し返した。
「もう良いのか?」
六徳の言葉に、俯いて頷く。不意に、あることに思い至り、禎理は顔を上げて六徳を見た。六徳は普通の人間に見えるが、実は料理好きが高じて地上界に出て来た力の有る魔物だ。魔物の六徳なら、魔物のような狼のことを、知っているかもしれない。だが、禎理が六徳に質問を発しようとした刹那。
「あ、禎理起きてる!」
驚きと安堵感が入り交じった高い声が、禎理の部屋に響く。六徳越しにドアの方を見やると、身体の大きさに似合わない大きな鞄を持った赤い髪の女性が、禎理の方を見てにっこりと笑った。三叉亭の二階を借りて小さな診療所を開いている老人弦の弟子、七生だ。
「消毒薬持って来たよ」
駆け寄るように禎理の傍に来た七生が、禎理が何か言う暇を与えることなく禎理の肩に巻かれていた包帯を外す。狼の牙に引き裂かれそうになった傷を消毒する痛みを禎理がこらえている間に、六徳は何も言わず禎理の部屋を去って行った。
暗い街路に佇む自分に、驚く。
確か、七生が肩に包帯を巻いてくれた後、痺れを確かめる為にベッドの上で手足を動かしていた筈、なのだが。何故、こんな所に? 首を傾げて、すぐに思い至る。……これは、夢だ。
風が、漆黒の髪を強く跳ね上げる。月の光も、街路に出ている筈のランプやランタンの光も無いので、此処は何処なのか見当がつかない。いや、大体の所は、分かる。……血の匂いが、する。何処か、怪我をしているのだろうか? 禎理がぐるりと、これも漆黒の服を着た自分の姿を見回した、その直後。月が、雲間から顔を出した。
目の前に広がった光景に、驚くより先に吐き気がする。先程よりも少しだけ近付いたように見える石畳には、剣を手にした腕が一本、無造作に転がっている。腹の裂けた胴体はそのずっと向こうに、そして恐怖で凍った顔は、禎理の後ろに転がっていた。そして、……同じような死体が、もう一組。
あの狼の仕業だと、すぐに分かる。では、狼は、何処に? 用心深くくるりと見回した禎理はすぐに、狼が何処に居るかが分かった。……自分が、『狼』。漆黒の剛毛に覆われた前足を見るまでもなく、口腔内の血の味が、それを証明していた。
自分が、彼らを、殺した、のか? 震えが、全身を支配する。思わず叫んだその声は、間違いなく、狼の遠吠えだった。
跳ね上がるように、飛び起きる。
次に禎理を襲ったのは、肩の傷の痛み。
〈……夢?〉
辺りを見回して、ほっとする。禎理は今、確かに、血と泥で汚れた街路ではなく、自分の部屋のベッドの上に居る。しかしながら。……鼻腔に残る血の匂いと、夢とは思えない現実感が、禎理の心を冷たくする。
そっと、左肩の包帯に触れる。狼の牙による傷の下には、昔『吸血鬼』と呼ばれる魔物に噛まれた傷が、ある。吸血鬼に噛まれた者は、適切な処置を施さない限り吸血鬼になってしまうと聞く。まさか、あの、月が無い時は人間に戻る『狼』――おそらく人狼、あるいは狼男と呼ばれる人魔、忌み嫌われるモノ――も、噛んだ者を魔物にしてしまう『能力』を持っているのだろうか?
不安が、禎理を支配する。疑問を解いてくれるあてを、禎理は一人しか知らなかった。
だから。まだしつこく残っている身体の痺れには構わず、禎理は大急ぎで服を着ると、三叉亭に向かった。
早朝の三叉亭には、六徳以外誰も居なかった。
「早いな、禎理」
驚き顔の六徳が、カウンターに座った禎理にシチューを出してくれる。だが禎理は、出されたシチューには見向きもせず、六徳に向かって口を開いた。
「ねえ、徳さ……」
「お早うさん、六徳」
だが。禎理の質問は、野太い声に遮られた。
「お、禎理も居る」
三叉亭の両開きの扉をくぐって来た、夜警隊の隊長の大柄な身体が、禎理の視界に入って来る。
「悪いが、これにシチューを入れてくれ」
小振りな真鍮缶を六徳に差し出す隊長の声は、明らかに疲れに満ちていた。街中に現れた『狼』への対応でいっぱいいっぱいになっていることが、明らかに理解できた。
「大丈夫ですか?」
心配になり、尋ねる。
「ああ」
禎理の言葉に、隊長は疲労した笑みを浮かべた。
「俺は、平気だ。だが、……彼奴ら、は」
「また、やられたのか?」
六徳の言葉に、隊長は項垂れた。何でも、昨夜も二人の夜警が狼によって殺されたと云う。
隊長の言葉に、禎理の背筋が凍る。彼らを殺したの、は……!
「くそっ、あの狼め!」
カウンターを叩く隊長の声が、禎理の耳に虚ろに響いた。
「夜警達の士気も下がっているらしいな」
シチューを入れた真鍮缶を隊長に差し出した六徳が、仕方無いと言った声で呟く。
「ああ」
六徳の言葉に、隊長は諦め顔で笑った。狼の被害が酷くなっている今では、夜警達は殆ど出勤せず、隊長の説得にも首を横に振るだけだと云う。ただでさえ、夜の街を見回る夜警の仕事は人気がない。夜警隊に入ることは天楚市民の義務なのだが、少しでもお金を持っている者は冒険者や貧乏人にお金を払って義務を肩代わりして貰っている状態なのに、そこへこの事件だ。夜に暗躍する盗賊や放火魔も、『狼』を恐れてか今のところ大人しくしているが、彼らが今動けば、彼らの目的は誰にも邪魔されずに易々と成功するだろう。そのくらい、人手は慢性的に不足している。だが。誰も、予測できる危険に自ら飛び込むことはしないし、愛する者を行かせようとも思わない。それは、理解できる感情。
「そういう訳だから、禎理も、しばらくは夜警に出る必要は無いぞ」
危ない思いは一度で十分だろう。心配そうに声を掛けてくれる隊長に、禎理は申し訳ない気分で一杯になった。狼の牙の傷が、疼く。禎理はただ、隊長の気落ちした背中を見送ることしかできなかった。
再び、三叉亭は禎理と六徳の二人だけ――禎理の腰巾着である悪食のダルマウサギ、模糊が禎理の傍で禎理のシチューを勝手に頬張っているが――になる。
「徳さん」
先程中断された質問を、禎理は再び口の端に上せた。
「あの、……『狼男』も、感染るの? 吸血鬼みたいに」
「はあっ?」
禎理の質問に、六徳が発したのは、心底呆れた声。
そして。六徳の言葉は、禎理を少し安心させた。
「どっちも感染らないさ」
『吸血鬼』とは、この世界に対する悪意を持った『力有る石』の一つ『吸血石』が人間の心を支配することによって生まれる人魔、あるいは、人や魔物の血に含まれる『魔力成分』を用いて『力』を得る為に血を啜る者が、血が持つ依存性に中毒し人魔となってしまったモノ(おそらくこの人魔に血を啜られた者が、失った魔力成分を回復する為に他の者の血を求める様が「吸血鬼は感染する」という誤解に繋がったのであろう)。そして『人狼』あるいは『狼男』とは、人間の悪意や怨嗟、嫉妬がその人の身体を抜け出し、狼の形を取って現れたモノ、あるいは、「自分は狼だ」と誤解した者が暴れるうちに本当の人魔となってしまったモノ。いずれも、心がしっかりとしていれば、何らかの形で他人に感染するものではない。
そして。
「まあ、今回の件に限っては、……誰の仕業か見当はついているんだ」
説明の後、突然発せられた六徳の言葉に、驚く。禎理のその驚きとタイミングを合わせるかのように。
「こんにちは」
再び、三叉亭の両開きの扉が大きく開く。現れた三人組の先頭に居た人物に、禎理は驚きの声を上げた。
「九七一!」
「千早」
禎理の言葉を、友人であり、今は人型を取っている黒犬の魔物九七一が否定する。そういえば、人型を取っているときは、魔界の大王数の代理人としての名前『九七一』ではなく本名である『千早』を名乗っているのだった。そのことを思い出し、禎理は久しぶりに笑った。
九七一の後ろに見えるのは、九七一と同じ顔と髪をした小柄な女性と、やはり九七一と同じ顔と髪の、三叉亭の天井に頭をぶつけそうな背丈なのにやたら細長い、男性。
九七一が徐に、禎理の左隣に座る。禎理の右隣には九七一に良く似た女の人が、そして細長い人は九七一の隣に座る。三人が纏う、説明できない雰囲気に、禎理は顔を顰めた。何かが、ある。
「見つかったか?」
六徳の問いに、首を横に振る九七一。
「でも」
不意に、禎理の右隣にいた女の人が、禎理の腕を掴んだ。
「百七さんが言ってたわ。貴方、十翼兄の剣に触れたんですって?」
「え?」
何がなんだか分からない。ただ、百七という言葉から、女の人の言う『剣』とはあの『狼』の背に刺さっていた黄金の短剣のことだと、分かる。と、すると、彼女が言っている『十翼』とは。
「触った時期が最近だから、何処に居るか分かるかも……」
「無理だ」
九七一の後ろから、重い声が響いた。
「ただの人間には、負担が大き過ぎる」
「ちょっと待てって。黄百姉も、一砂兄も」
二人の会話に九七一が割って入る。
「禎理にも分かるように説明してやれ」
禎理の戸惑いが分かったのか、六徳も口を出した。
「自己紹介もまだだろう」
六徳の言葉に、女の人は不満そうに口を尖らせてから、ゆっくりと禎理に向き直った。
「私の名前は黄百、千早のすぐ上の姉。で、千早の後ろに居るのが長兄の一砂」
そして、一息置いてから、黄百は躊躇を押し隠すように、言った。
「天楚を騒がせている『狼』は、私たちの兄弟。次兄の十翼」
そうか。不意に、思い出す。人型を取ったあの狼は、確かに、九七一に少し、似ているように見えた。でも、何故、黒犬の魔物である九七一の兄弟が、狼となって人を襲う?
「『月の乙女』に、呪われたから」
禎理の疑問に、黄百は簡潔に答えた。
十翼は『月の乙女』の一人である、満月を司る十五日を慕っていた。そしてそれ故に『月の乙女』の憎しみを受け、呪いの掛かった黄金の剣を背に刺され、月が出ている間は『狼』として人を襲い喰らうようになった。人を何人か襲うと満足するらしく何処かに隠れてしまうのだが、飢えるとまた人を襲うの繰り返し。しかも厄介なことに、黄百達が十翼を見つけ、魔界に閉じ込めても、いつの間にか地上界に戻ってしまう。おそらく、魔界には『月』が無いからだろう。
「十翼兄を助けたいの。でも、……どうにもならない」
諦めたように、黄百が呟く。
禎理が見た夢と、ほぼ同じだ。黄百の説明に、禎理は深く頷いた。唯一つ、違うとすれば。……『月の乙女』は、十五日は、十翼を憎んで『剣』を刺したのだろうか?
「でもね」
不意に再び、黄百が禎理の腕を取る。
「背中の剣を抜いて『月の乙女』に返せば、呪いは解けるって、百七さんが……」
「黄百っ!」
黄百の言葉に、九七一と六徳が同時に声を上げた。
「頼むから、十翼兄の剣を抜こうとは思わないでくれ」
禎理の腕から黄百の手を振り解いた九七一が、禎理の瞳を覗き込む。九七一の黒曜石のような瞳を見なくとも、九七一が何を考えているのか禎理には分かった。自分が向こう見ずでトラブルメーカーであると九七一に認識されていることは、分かっている。……人を助けることは『衝動』なのだと、説明はできないが。
黙ったまま、九七一が背後の一砂を見る。九七一に釣られるように一砂を見た禎理は、一砂の右半分が見えないことに気付いた。……頭から足先まで、右半分が、すっぽりと消えているのだ。
「十翼の剣を抜いた代償だ」
六徳がぽつりと呟く。
昔、十翼を助ける為にその背の剣を抜いたが為に、一砂の右半身は跡形も無く砕け散った。それでも何とか生きているのは、一砂が魔物であるがゆえ。
「だから、な」
念を押すように、九七一が重く言う。
「分かった」
その真剣で、心底禎理を心配している声に、禎理はただ頷くしか、無かった。
身体の痺れは、長く残った。
だが、禎理は暇を見つけては、天楚市内を歩き回った。
歩き回る理由は、体力を取り戻す為。六徳にはそう言ってはいるが、勿論、六徳に嘘が通用する訳が無い。毎朝シチューを食べるために三叉亭に行く度に、心配そうな眼を向けられているのだから、それくらい分かる。それでも六徳が禎理を止めないのは、止めても無駄だと分かっているからだろう。申し訳ない気持ちが、禎理の心に苦く広がる。それでも、……探し出したいのだ、十翼を。探し出してどうしたいのかは、禎理自身にも分かってはいないのだが。
しかしながら。天楚の隅々まで捜し回っても、見つからない。九七一の兄弟達も天楚市内を捜し回っているようだが、成果は無い。既に天楚を出ているのだろうか? そう考えて、禎理は首を横に振った。未だ、禎理と十翼は夢で繋がっている。夢に見る風景は、空と、禎理が良く知るこの天楚市内。『月の乙女』と並走する夢を見ることもあれば、禎理が見知った石造りの建物の隙間で微睡んでいる夢を見ることもある。だから、……十翼はまだ、天楚市内に潜んでいる筈なのだ。
禎理の予想は、当たった。
「あら、禎理。久しぶり」
黄昏時の、細い路地で、聞き知った声に呼び止められる。振り向くと、青銀色の髪が微かな風に揺れていた。
「こちらが、貴方が探している十翼」
いつもの皮肉な調子で、百七が後ろの影を紹介する。暗がりで見た、人間姿の十翼は確かに、九七一に似ていた。
「俺を、捜しているんだろう」
禎理を睨みつつ、ぶっきらぼうに、十翼が言う。
「俺が、あんたの仲間を殺したから」
十翼の言葉が、投げやりにも、そして無限の哀しみに満ちているようにも聞こえた。
「でも、俺は、……地上界を離れるわけにはいかない」
「月が、あるから?」
十翼の言葉に、質問で返す。禎理の言葉に、十翼は虚を突かれたような表情になり、そして諦めたように頷いた。
「夢で、知っているんだろう。俺の夢、だからな」
『月の乙女』が自分を憎んでいることは、知っている。吐き捨てるように十翼はそう、言った。背中に刺された剣の、傷の痛みがそう言っているとも。それでも。
「俺は、あいつのことが忘れられない」
だから自分は、自分の運命に甘んじるつもりだ。十翼は禎理にはっきりとそう、言った。
十翼の、九七一と同じ黒曜石の瞳には、迷いが見えない。
十翼の気持ちは、分かるつもりだ。禎理も昔、叶わない想いを心の奥底に隠したことがある。だが、……夜警隊を喰い殺し、天楚の治安を悪化させたことを許す気は、ない。だからといって今すぐ十翼をどうこうする気は禎理には無かったし、方策も無かった。十翼を無理に追い出そうとすれば、九七一やその兄弟の力を借りる必要がある。
禎理の想いを読み取ったかのように、十翼が呟く。
「だが、地上界の何処に居ても、俺は迷惑しかもたらさない」
そのことだけは、理解しているつもりだ。十翼の言葉が、禎理には虚ろに響いた。
だから。
「もうそろそろ、此処も出て行くよ」
十翼の言葉に、禎理は何も言えず、俯いた。
それから、幾日も経ち。
再び、満月が市内を照らした。
「禎理! 大変!」
下宿のベッドでうつらうつらしていた禎理を、七生の甲高い声が襲う。
「生まれそうなの! すぐ一緒に来て!」
七生は、禎理の下宿や三叉亭のある天楚の繁華街一柳町でのお産も一手に引き受けている。満月や新月の時には産気付く妊婦が多いらしい。
焦る七生の声に、眼を擦って頷く。脳裏を過ったのは、件の『狼』のこと。十翼はまだ、天楚に居るのだろうか? おそらく、居ない。禎理は無意識に首を横に振った。『剣』の魔力が薄れたのか、最近は十翼のことを夢に見ない。おそるおそる再開された夜警隊が月の光の下で襲われたということも聞かない。九七一達の探索は徒労に終わっているが、禎理は安心していた。……十翼は、言葉通り天楚を出て行った。だから、禎理は気楽に、七生に手渡された鞄を持って小走りに七生の後を付いて行った。
異変が起きたのは、帰り道。
生臭い匂いに、振り向く。
「七生、逃げろっ!」
そう叫ぶ間もなく、禎理は腰の短剣を抜いて飛びかかって来た黒い影に立ち向かった。『狼』と自分では、勝率は五分未満。それでも、逃げる七生の足止めにはなるだろう。そう踏んで、禎理は地面を蹴って飛び上がった狼に短剣を振り上げた。だが。禎理に予想に反して、狼は禎理の頭上を楽々と越え、立ち竦む七生の鼻先に着地する。
「え……」
突然のことに、動けない七生。
七生を喰い殺させる訳には、いかない。七生は、禎理にとって姉のような、大切な存在。禎理は素早く七生と、七生に飛びかかろうとした狼の間に割って入った。七生だけでは無い。禎理に回りに居る誰も、傷付けさせるわけにはいかない。たとえ十翼が、慕う者の為に自分の運命に甘んじているのに同情していても、だ。
だから。禎理の身体を石畳に押し倒すように牙を向けた狼の黒い身体を、身を捻ることで躱す。そして、禎理を無視して七生に飛びかかった狼の背に、禎理は馬乗りになり、狼の背に刺さっていた短剣を掴むなり一気に引き抜いた。
雷が、身体を走る。この剣を、手放さなければ。身体はそう叫んではいたが、禎理はその意志に反するように握った黄金の剣を自分の胸へ突き立てた。
痛みは、無い。暗い空間が、禎理を優しく出迎えた。
気が付くと、禎理は広く明るい回廊の上に立っていた。
円形の中庭をぐるりと取り囲む回廊は、敷かれた石畳も中庭に巡らされた柵も金色で、その外側には同じ大きさの立派な屋敷が三十、同じ形の玄関を回廊に向けて建っていた。
此処は。屋敷の数ですぐに、理解する。此処は、『月の乙女』達が住まう場所。
「あら、禎理」
聞き知った声に、振り向く。『月の乙女』二日が、金色の髪を揺らして微笑んでいるのが、見えた。
「十五日ならもうそろそろ帰ってくると思うわ」
禎理がここに来た理由を知っている素振りをした二日が、禎理の左手を取る。そしてそのまま、二人はある屋敷の前――柵がそこだけ切れている――に足を向けた。
すぐに。中庭が、虚ろになる。禎理と二日の前に、金色の馬車が現れた。その馬車から降りて来たのは、二日と同じ金色の髪を揺らす、ふくよかな乙女。十五日だ。十翼の夢で見たのと同じ姿に、禎理は思わず頭を下げた。
「十五日」
馬車を降りてすぐ、禎理達を無視して屋敷に入ろうとした十五日を、二日が優しく止める。拗ねたような顔をした十五日は、それでも、禎理の方に向き直り、淋しく笑った。
「十翼の、ことでしょ」
静かだが、後悔の籠った声が、響く。
十翼は魔物で、十五日は月の運行を司る『月の乙女』の一人。互いに慕ってはいたが、ずっと一緒に居ることはできない。だから、十翼を諦め、十翼にも自分を諦めてもらう為に、十五日は十翼の背に短剣を刺した。悔悟の念と共に、十五日は禎理にそう、話した。十翼を突き放し、でも十翼には、自分のことを忘れないで欲しかった。
「でも、それは、十翼を苦しめるだけだったようね」
そう言ってから、十五日は禎理の右腕をそっと掴み、禎理がずっと右手に握りしめていた短剣を、禎理の手から引きはがした。
今にも泣き出しそうな十五日の表情に、心が痛む。だから。
「十翼は、何があってもずっと、貴方のことを慕っていると思いますよ」
ゆっくりと、十五日の銀色の瞳を見詰め、小さいがはっきりとした声で思ったことを話す。
「『剣』があっても、無くっても」
「ありがとう」
禎理の言葉に、十五日はただ静かに、微笑んだ。
自分の下宿で目覚めた途端、重いものが禎理の全身に飛びついてくる。
七生、重い。禎理がそう言うより早く、七生の涙声が禎理の耳を叩いた。
「何日眠ってたと思ってるの!」
あの夜、『狼』を追い払った後、怪我をした気配もないのに石畳に冷たく横たわる禎理に、七生はずっと付き添っていたらしい。禎理の蛮行に六徳も、禎理を下宿まで運んでくれた千早も呆れていたと七生は言った。
「でも。……無事で良かった」
無い筈の傷口を濡らす七生の涙が、禎理には痛かった。
十翼達のことを六徳から聞いたのは、ずっと後になってから。
「お礼を言うべきなのだろう、ってさ」
九七一達と一緒に魔界に帰った十翼からの、ある意味捻くれた伝言に、笑う。
十翼の罪は、償っても償いきれないものだ。でも、……十五日を慕う、あの心があれば、いつかは何とかなるかもしれない。禎理は何となく、そう、思った。




