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「……困ったことになった」
息を切らせながら部屋のドアを開けた禎理を見るなり、天楚大学の言語学教授金衡は渋い顔で溜息をついた。
そしておもむろに、ドアをきっちり閉めるように手で合図をする。
いつもとは違う教授の用心深さに、禎理の方も緊張した。ただでさえ、『緊急』だという言付けを貰って来ているのだし、相手は天楚大学でも指折りの重鎮教授だ。何か難しいことを頼まれてもおかしくは、ない。
だが。
「あの『本』を、売って欲しいと言ってきた者がおるんじゃ」
部屋のドアをきちんと閉め、教授と差し向かいにソファに腰を下ろした禎理が聞いたのは、全く緊張感に欠けた言葉。
「……『本』を、ですか?」
その言葉に、禎理は正直面食らった。
教授の言葉にある『本』とは、禎理が幼い頃に受け継いだ、『嶺家文字』に関する二冊の本のことである。
現在大学等で用いられている羊皮紙ではなく、木から作られた紙にインク書きされた本文が赤茶色の革で装丁されている、禎理の親指ほどの厚さを持つこの『本』は、表紙には色々な人の手垢がこびり付いており、本文の用紙も薄手である割に、これまでどんな乱暴な扱いをしても破れも壊れもしなかった。その事実から、この『本』には絶対に何らかの『魔法』が掛かっていると容易に推測できる。だが、禎理がいくら調べても、『本』にどんな種類の魔法が掛かっているかは全く分からなかった。……まあ、禎理のように『魔法』の素養を全く持っていない人間が調べたのだから、ある意味仕方ないのかもしれないが。
その『本』が欲しいと言っているということは、もしかすると。
「……誰が欲しいと言って来ているんですか?」
確かめるように、教授にそう尋ねる。
「嶺家文字に興味のある学者の申し出なら、受けたいのですが」
冒険者になってからずっと、禎理は『本』を二冊とも教授に預けっぱなしにしている。
現在では日常的に使われる簡単な文字しか伝わっていない『嶺家文字』の殆どが書き記されている貴重な『本』である。本に書かれていることを研究することは勿論、誰かに教える気持ちも、教える暇も無い上に、あちこちを放浪するため無くす可能性が高い禎理が持っているより、天楚や東方の言語に詳しい金衡教授が持っていたほうが学術的に良いだろう。そう思っての処置だ。『嶺家文字』が研究され、今は眠っている古代の有用な物事が役に立つようになるのなら、禎理はそれでいいと思っていた。
「いや」
だが、禎理の言葉に、教授は首を横に振る。
「言ってきたのは、ある商人、じゃ」
天楚市でもあまり評判の良くない商人の名が、教授の口から漏れる。
やはり、現在では『貴重』になっている『魔法』を欲してのことだったか。禎理は失望感を隠そうともせず、大きく溜息をついた。
商人は『耳ざとい』ものである。おそらく、『魔法』の掛かっているこの『本』のことをどこかで耳にしたに違いない。
「……先方には誤魔化したが、一応、お前さんの本、なんでな」
つと立った教授が、書き物机に付いた引き出しの奥底から『本』を取り出す。そしてゆっくりと、禎理の膝の上にその本を置いた。
「お前さんが持っていたほうが、いいと思うんじゃ」
強引な商人だから、近いうちに盗むか強奪される可能性があるかもしれない。もしそのような事態が起きてしまっては、貴重な『文字』と『文化』は永久に失われてしまう。この状況下において、『本』を守れるのはおそらく禎理一人。本人を目の前にして教授ははっきりとそう、言った。
その言葉を聞いた禎理の胸に熱いものがこみ上げる。
禎理を信頼し、冒険者宿まで言付けを出した教授に、禎理は本当に感謝した。
陽が落ちる前に、禎理は教授の部屋を後にした。
いつも使っている肩掛け鞄の奥底に『本』をしっかりとしまい、その鞄を抱えるようにして急ぎ足で自分の部屋へ帰る。『本』を狙っているかもしれない『もの』を警戒してのこの措置だったが、幸い、夕刻の多くもなく少なくもない人ごみに助けられたこともあって、街中で鞄を奪われるというようなことはなかった。
そのことにほっとしつつ自分の部屋に入り、鍵を掛けてから鞄を下ろす。
買い置きのパンを半分、いつも禎理の傍にいるキイロダルマウサギの模糊に投げてから、長櫃の中を漁って長めの蝋燭を取り出す。錆の浮いた蝋燭立てにその蝋燭を立てて火を灯すと、禎理は鞄の中から『本』を取り出し、がたつくテーブルに腰掛けてその本を開いた。
もうすっかり覚えてしまっている、カクカクした文字群が目に入る。
〈……懐かしいな〉
ページを捲りながら、この本を初めて見たときのことを禎理は鮮やかに思い出した。
禎理は、大陸中を放浪する『流浪の民』の出身である。『舞踊』や『曲芸』といった『芸道』や、『鍛冶』、『占術』などを生活の糧とする彼らは、夫婦と子供を中心とした二人〜十人位の集団で各地を旅し、生活を営んでいる。
そんな一族の一員として『蛇神の森』で生を受けた禎理は、母方の大叔母だという女性によって『学問をする者』と定められ、兄弟のうちでただ一人『嶺家文字』を教わった。そして、その勉学の証として、一族の間で代々伝えられているという『本』を受け取ったのだ。
そしてその後、大叔母に連れられて行った山村の市で、禎理はもう一冊の本に出会う。その市に、大叔母の友人で、同じ『学問をする者』に定められた老女が居たのだ。
大叔母に会った老女は、彼女に『後継者』がいないことを話した。
禎理が元々持っていた『本』と老婆が持っていた二冊目の『本』とでは、書かれている内容が全く違う。この二冊の『本』は、一族の中で選ばれた者が文字を学ぶ為に使われており、大叔母の一族と老女側の一族との間で度々交換されていたそうだ。
「……このままでは、この『文字』がなくなってしまう」
そう呟いた老女は、禎理に、彼女の『本』を渡した。
だから今、禎理は『本』を二冊持っている。
そして、その女の人の話によると、この『本』は三分冊になっている、らしい。だが、もう一冊の『本』は、一族の間でもその行方が分からなくなっているという。
「……それで、良いのじゃろうよ」
その話を聞いたときに大叔母がポツリと漏らした言葉が、耳に響く。
この『本』には一体、どんな『魔法』が仕掛けられているというのだろうか? 『魔力』と『法力』の本場である南方の神官国家フビニ帝国にも行ったことがあり、『魔法の力』が込もっている物品に何度も出会ったこともある禎理にとっては、『本』の秘密を知ることがある意味恐ろしかった。
「……でも」
その考えを振り切るかのように、別の思いをめぐらせる。
「教授に逢ったのも、この『本』のおかげじゃないか」
それは、禎理が七つか八つの頃のこと。
歌や踊りで生活費を稼ぐ為に、天楚で行われる市に一族揃って出かけたことがあった。
その舞台の合間に、禎理は広場の隅で『本』を広げ、地面に小枝で『本』内の文字を書きながら覚えていたのだが、そこをたまたま通りかかった人物が金衡教授だったのだ。
教授は初め、禎理が地面に書いた文字に注目した。そして、その文字が禎理の持つ『本』からの筆写であることを知ると、『本』を見せてくれるよう、下層民であり、かつ子供である禎理に頼むにしてはかなり丁寧な頼み方をした。その言葉と態度に禎理は嬉しくなって、「他人には、特に『常民』には見せてはいけない」と大叔母から言いつけられていたにも拘らず、『常民』の教授に本を見せてしまったのだ。
「……これは、『嶺家文字』の本? しかし、これだけ文字種が揃っている本は珍しい」
パラパラと本を捲りながら、教授が感嘆の声を上げる。多く襞を取った緩やかなローブが、興奮に揺れた。
「これは、君の本かい?」
「うん!」
しばらくして、本を返してくれた教授の質問に、禎理はこくんと頷いた。
『本』の『文字』に慣れすぎて、珍しくもなんとも思っていなかった子供の禎理にとって、教授の驚きは非常に新鮮だったのだ。
だから、でもないのだろうが。
「どうだろう、この『本』を私に譲ってはくれないだろうか?」
「……え?」
突然の言葉に、きょとんとしてしまう。
見上げると、好奇心が宿った輝く瞳が、禎理を優しく見下ろしているのが見えた。
教授の視線と、掛けられた言葉に、思わずぼうっとなる。
だが。
「それは……おばば様に怒られるからダメ、です」
大叔母の怒る顔を辛うじて思い出し、何とか断りを入れる。
しかし教授のほうが一枚上手だった。
「じゃあ、わしの『子』にならんか?」
「……へ?」
教授の更なる提案に、ますます困惑する禎理。
「一年中暖かく過ごせるし、美味しいものも毎日食べられるぞ」
「え……」
その言葉に、気持ちが揺らぐ。赤ん坊の時から慣れているとはいえ、放浪する生活は時に苛酷だ。布一枚のテントでは寒さは防げないし、いつもお腹一杯食べられるとは限らない。だから、教授の言葉は、子供の禎理にとっては夢のような響きを持っていた。
だが。
「何をしている!」
大叔母の鋭い声が耳に刺さる。
その声で、禎理ははっと幻想から醒めた。
いつの間にか、禎理と教授の間に大叔母が割って入っている。『守られている』感覚に、禎理の心はすとんと落ち着いた。
第一、幾ら甘い申し出でも、禎理を可愛がってくれている両親や家族と離れるわけにはいかない。皆を置き去りにして自分ひとりが幸せになるなんて、嫌だ。
「この子は、私たち一族の大切な宝です」
だから、どんな条件でも連れて行かせるわけにはいかない。老人とは思えない凛とした声で、大叔母は教授にはっきりとそう言う。
「しかし……その『本』は」
「『本』も禎理も、貴方に渡すわけにはいかないのです」
大叔母の剣幕にたじたじとなる教授。それでもしばらく禎理と『本』を無念そうに見つめた後、教授は大叔母から一歩下がって頭を下げた。
「分かりました。お騒がせして申し訳ない」
そして懐から小さな羊皮紙を取り出すと、腰のベルトにぶら下げてあった筆立てを取って何かをすらすらと書き付け、禎理に差し出した。
「君が『大人』になって、まだ私のことを覚えていたならば、私の所に来なさい」
羊皮紙に書かれていたのは、天楚の住所。
教授が去って、インクが乾いてから、禎理はそれを『本』の間に大切に挟んだ。
それ以来、その紙も『本』とともにある。まだ挟まっていた羊皮紙を蝋燭の明かりの下に引き出し、禎理はくすっと笑った。
結局、禎理が十一の時に、家族は皆流行り病で亡くなってしまい、『大人』になる前に禎理は教授に再会したのだが、その時も教授は、武術道場に入門し自力で生活すると言い張る禎理の世話を色々と焼いてくれた。まだ『子供』だった禎理が天楚で生きのびることができたのは、禎理の周りにいた様々な人々、特に禎理の被後見人になってくれた教授の世話があったからだ。そのことに、禎理は心から感謝していた。
だからこそ、教授の『信頼』に答えなければ。
荒く扉を叩く音で、禎理ははっと夢から醒めた。
昔のことを思い出している間に、いつの間にか眠ってしまったらしい。
机に突っ伏していた頭をそろそろと起こすと、色ガラスの窓から見える空は白々と明けていた。
再び、扉を叩く音が部屋を揺らす。禎理は大きなあくびを一つしてから、揺れている扉の鍵を外した。
その途端、大きな拳が禎理の目の前に現れる。扉を叩いていた男の手が、扉の開いたのに合わせ勢い余って飛び出したのだ。
「……何か?」
その拳を小さな手でぽんと弾いてから、用件を聞く。小柄で女顔の禎理に軽くあしらわれ、男は一瞬、きっと唇を噛み締めた。
だがすぐに、見下したような態度をとる。
「金衡教授からの伝言だ。『本』を持って港の三番商館まで来てくれとさ」
「……は?」
思わず、聞き返す。こんな粗野な男に、教授が伝言を託すわけがないし、何より、昨日の今日で『本』を持って来いという伝言が教授らしくない。
「……証拠は? 教授からの伝言だという」
だから禎理は、必然的にそう、尋ねた。
「有るぜ」
だが予想に反し、男は汚れた袖の中から一通の封書を出す。その封書は確かに、金衡教授が日頃使っている教授用紋章を押したロウで封じられていた。そして、中に書かれていたサインも、確かに教授のものだ。
「……分かった」
ゆっくりと、頷く。
それを確かめると、男はさっと禎理に背を向け、狭く急な階段をどすどすと降りていった。
……その途中で滑るような音が聞こえたのは、ここだけの話。
まだ秋季なのにとても寒い朝だった。
禎理は得物である短剣を念入りに拭い、手斧に砥石を荒くあてると、模糊を腰につけたポーチに入れ、皮鎧の上にフード付きのケープを羽織ってから港へと向かった。
天楚から、第二都市華琿を通って海に注ぐ大河四路川は、天楚に繁栄をもたらす交通の拠点である。だから港沿いには大きな商館が軒を並べていた。その商館のなかでも、三番館はひときわ群を抜いている。朝日を浴びてキラキラ光る壁は、塗り替えたばかり。持ち主の繁栄ぶりを確かに見せつけていた。
だが禎理にとってはそんな事などどうでも良い。ただただ教授の身だけが心配だった。
商館の通用門を守る門番に、訪いを告げる。
名前を名乗るだけですぐに、商館の二階に通された。
窓に透明な硝子が入っているので、温かく見える秋の陽が室内に十分入ってきている。そんな廊下と同じく高価な硝子窓のある部屋の一室に案内される。
その部屋にあったのは、頭の先から靴底までしょげ返った教授の姿。
「済まない」
禎理の姿を認めるなり、教授はぽつんとそれだけ呟いた。
「気にしないで下さい」
教授がここまで意気消沈し、自分の感情を翻して禎理を呼び出したのだから、おそらく、大学側から教授に何らかの圧力――大学とは『カネ』と『コネ』がないと生きていけない世界だと聞いている――があったのだろう。そのことを、禎理はとっさに理解した。
だからそれだけ口にしてから、禎理は、部屋の真ん中に置かれていた小振りのテーブルにふと目を留めた。
そのテーブルの上に有ったのは。
「これ、は……」
思わず、目を疑う。
禎理の目の前にあったのは確かに、自分の持つ『本』と寸分違わぬ品。
大慌てで、自分の鞄に手を突っ込む。だが、禎理の『本』は確かに、鞄の中に二冊ともちゃんとあった。……と、すると、この『本』は、一体?
「それは、私どもが買い求めた本です」
呆然とする禎理の耳に、案外若い声が響く。
口をぽかんと開けたまま、禎理は声のしたほうを見た。
「あなたの『本』を見せていただけませんか?」
次に聞こえた言葉に、慌てて口を閉じる。
見上げると、小ずるそうな目をした、商人にしてはごてごてした服を着ている青年が、禎理に向かってその大きな手を差し出していた。おそらく彼が、昨日教授が言っていた『本を買いたい商人』三角なのだろう。
「えーっと」
差し出された手に、しばし躊躇う。彼は一体、どこでこの『本』を手に入れたのだろう? それに、この『本』を何に使うつもりなのだろうか? 疑問ばかりが頭に浮かぶ。
しかし、疑惑の声は好奇心に負けた。禎理は殊更ゆっくりと、鞄の底から二冊の『本』を取り出し、それでも三角の手の上ではなく、テーブルの上にもう一冊の『本』と並べて置いた。
「……やはり、ね」
並べてみると、三冊の『本』の相似がはっきりと分かる。元からテーブルに有った『本』と禎理が置いた『本』。その両方を見比べた三角の口が微かに歪んだ。
その歪み方に、言いようのない不安に襲われる。やはり、『本』を彼に見せたのはまずかったか。だが、後悔して『本』を取り戻そうとした禎理の手より三角の手のほうが速かった。禎理がテーブルに手をつく前に、『本』は三冊とも三角の手の中に納まっていたのだ。
手の痺れにしかめ面をする禎理の眼前で、三角は重ねた本を一度にひっくり返す。そして先程とは反対方向にひっくり返すとあら不思議、三冊の『本』は『一冊』の『本』になってしまったのだ。
目の前で起こった魔法のような出来事に、しばし目をぱちくりさせる。しかしどう見ても、三角の両手の中にあるのは、三冊分の厚みを持った一冊の『本』、だ。
「やはりこれも、情報通りだ」
一人納得する三角。
そして、次の瞬間。三角が『本』を開くと同時に、立っていられないほどの振動が禎理を襲った。
「わっ!」
よろめいて床に激突しそうになり、慌てて受身の姿勢をとる。だが、教授も同様にバランスを崩したと見ると、床に手をつき、反動を利用して教授を床の激突から救った。
そんな二人の上に、部屋にあったテーブルや椅子が無造作に降り注ぐ。
最初に落ちてきたテーブルを盾にして、禎理はどうにか教授を守った。
「やはり、これは、すごい」
三角の顔は醜悪に歪んでいる。
これは、まずい。禎理は心底そう思った。
原因はおそらくあの『本』。今すぐにでも、三角の手から取り上げなければ。
だが、禎理がここを動くと教授が危ない。
「わしに構うな」
躊躇う禎理の背を、教授が押す。
「でも……」
「わしのことより天楚のことじゃ」
この教授の一言が、禎理を決心させた。
振動は部屋の外でも起こっているらしく、港の方から悲鳴や罵声が聞こえてきている。教授の言うとおり、このままでは天楚市自体が無残に破壊されてしまう。
「ごめんなさい、教授!」
盾にしていたテーブルの足を教授に渡し、再び床に手をついて三角の前に飛び出す。
その禎理の行動に呼応するかのように自分の居場所から飛び出した模糊が、丁度良く三角の顔に当たった。
「うわっ!」
思わぬ反撃に、三角の手から『本』が滑り落ちる。その『本』を禎理は大急ぎでキャッチした。
そしてそのまま、三角に背を向けて窓へ走りよる。三角が本を取り落とすと同時に振動は収まったので、禎理の行動はスムーズにいった。
窓に体当たりし、貴重な窓ガラスを粉々にする。硝子の破片が腕に刺さったが、そんなことは気にも留めない。厚手のフードを被ってきて良かった。首筋を硝子の破片から守りながら、禎理は何とはなしにそう、思った。
あとは、ただただ逃げるのみ。
よろめきながらも何とか地面に着地すると、禎理は脇目も振らずその場から逃げ出した。
そのまま走り続けて、天楚市の市壁を出る。
その頃には既に、逃げ込む先を決めていた。
〈……『蛇神の森』しかない〉
天楚市の西側、川向こうには、常民は誰も近寄らない深い森がある。『蛇神の森』と呼ばれるその場所は、名前の通り、毘央という名の蛇身の土地神が支配している『精霊たちの森』であった。
そんな場所だから、もちろん三角たちはそう簡単に追って来ることができないだろうし、この『本』が何なのかを教えてもらえるかもしれない。そう思っての決断だった。
秋の『蛇神の森』は、何時になく『賑やか』だった。
落ち葉がひっきりなしに舞い落ち、裸の枝が風に煽られてかさかさと鳴る。禎理と模糊の足元でも、赤や黄色の葉が乾いた音を立てていた。
と。
「何をしておる」
不意に背後から、女性の声が響く。
この声は、今までに何度も聞いたことがある。やはり、ご自身で出てこられたか。予想通りの展開に禎理は心の奥底でくすりと笑った。
「……お騒がせします、蛇神様」
しかしそんな感情はおくびにも出さず、一動作で身体の向きを変え、膝を折って緑服の女性に頭を下げる。
よほどのことがない限りこんな改まった挨拶はしないのだが、『彼女』は別格だ。
「久しいの、禎理」
禎理は家族を失うまでこの森に暮らしていたし、冒険者になってからもしばしば薬草摘みや精霊たちの頼みごとを叶える為に森を訪れている。だから実は、『蛇神の森』の『女王』毘央とも知り合いだった。
「今日は何をしに来たのじゃ?」
楽しさと優しさが入り混じった声で、そう尋ねられる。
簡潔に用件だけ言おうと、禎理は鞄の底に隠した『本』を静かに取り出した。
「それ、は……!」
禎理の手の中の物を認めて、しばらく考え込む毘央。
一瞬で変わったその表情に、禎理の心に不安が生まれた。毘央は、この本について何か知っているのだろうか? とてつもなく恐ろしい『何か』を。
だが、禎理が言葉を発するより早く、毘央の腰まである緑の黒髪が柔らかく揺れた。
「時に、禎理、今夜はもちろんここに泊まっていくのだろうな」
「あ、は、はあ……」
いきなりの言葉に、正直面食らう。
しかし、迷惑が掛からない程度に匿って貰うことを頼もうとしていた禎理にとっては、渡りに船だ。
だから禎理は、勢い込んでこくんと頷く。
「よし、決まりじゃな」
毘央の微笑みに、正直ほっとする。
だが。
「皆の者、喜べ」
次の瞬間、辺りに美声が響く。
「『歌い手』が来た。今夜は宴じゃ」
その玲瓏たる声に、森中の精霊たちがざわめいた。
〈……やっぱりそう、来たか〉
風が葉を鳴らすような声の中で、『歌い手』である禎理だけが一人、心の中で頭を抱える。
やはり、どこに行っても『精霊たちの宴』からは逃れられないようだ。
香ばしい匂いが、空きっ腹に響く。
腹の音に促されるように起き上がると、黄色い塊が禎理の鼻先を掠めた。
「あ、こらっ、模糊っ!」
幾ら『安全』な『蛇神の森』とはいえ、周りも確かめずに飛び出すのは危険すぎる。禎理は大慌てで、木の洞から飛び出す直前の模糊を捕まえた。
耳を澄ますと、薪の爆ぜる音が聞こえてくる。
森の精霊が嫌っている筈の『火』の気配にきょとんとした禎理は、殊更ゆっくりと外を見やった。
すぐに視界に入ってきたのは、焚き火の横に刺さった何本もの木の串。その串に付いているのは、禎理には懐かしい、木の実をすりつぶして作った『団子』だった。
「おはようございます」
あまりにも美味しそうなその団子に見とれている禎理の耳に、優しい女の人の声が響く。
顔を上げると、焚き火の向こうに、禎理より二、三年上に見える女の人が笑っているのが確かに見えた。
「あ、おはよう……」
涎まで垂らして見とれているのが恥ずかしくなり、思わず下を向く。
「もうそろそろ焼けるわ。いらっしゃい」
そんな禎理を見たからなのか、女の人は殊更大きな笑顔を見せた。
禎理には『懐かしい』団子の作り方を知っているということは、彼女もおそらく『流浪の民』の一員なのだろう。こんな森の奥深くに自分以外の人間がいる理由をそれで納得すると、禎理は木の洞から滑り降りた。
差し出された串を受け取って口に運ぶ。熱々の団子は、昔の味がした。
「……やっと起きたか」
その団子を頬張っている間に、毘央が静かに現れる。
「昨日の本、まだ持っておるな」
毘央の問いに禎理は頷くと、木の洞から件の『本』を取り出した。
実は昨夜、宴がはねた後で、寝所用のこの洞に案内してくれた精霊の一人から『光』を分けてもらい、殆ど徹夜で問題の『本』を読破している。しかしながら、どんなに眺めても、嶺家文字の解説しか書かれていない。あえて言えば、神官帝国フビニで見たことのある『辞書』のような気も、した。
と。
「その本、私の……!」
不意に、甲高い声が上がる。
いつの間にか禎理の横にきていた女の人が、禎理の手から本を奪い取って、いた。
「やっぱり、三冊合わせてしまったんだ……!」
『本』を手にしたまま、わなわなと震える女性。
「何なんですか、この本?」
首を傾げながら、禎理は毘央にそう、訊いた。
「……『魔法が使える本』、といえばいいのかしら」
しかし答えたのは、『本』をしっかりと握りしめたままの女性。
彼女の――名前は千波という――話と、禎理自身の知識とを総合すると。
『この世界』では、身体に『魔力要素』を持っていない人は『魔力』を使うことができない。その『不便』を解消する為に、大昔に大陸を支配していた『嶺家』一族が開発し、一つ一つに何らかの『魔力』が込められている『嶺家文字』を用いて、どんな人間でも『魔法』が使えるようにしたのがこの『本』、らしい。しかし、この『本』を作成した人間も『本』の危険性を承知していたのだろう。悪用されないように分冊にし、三冊揃わないと『魔法』が発動しないようにしたのだ。
そのことが忘れ去られても、『本』は『流浪の民』の間で大切にされ、現在まで伝わっている。
千波の『本』が盗まれたのは、今年の初夏。北の街に薬草の行商に行った時にかっぱらいに遭い、鞄ごと盗まれたらしい。
「『本』が悪用されたらどうしよう、って、ずっと思ってたけど、まさかこんなことになるなんて」
本を握り締めたまま、うなだれる千波。
毘央は、そんな千波から『本』を静かに取り上げると、禎理の目の前で一度ひっくり返し、そしてまた逆にひっくり返した。
「……あ」
起こった出来事に、禎理と千波が同時に声を上げる。
いつの間にか、三冊に分かれた『本』が、毘央の手の中にあった。
「大丈夫じゃ、千波」
そのうちの一冊――確かに商館に有った『本』だった――を千波に渡しながら、毘央が呟く。
「ちゃんと『自分の手』にあるではないか」
泣き顔のまま、自分の手の中の『本』と毘央を交互に見つめる千波。そんな千波に、毘央はもう一度力強く頷いた。
「ありがとうございます、蛇神様」
再び涙ぐむ千波。
その横で同じく毘央から二冊の本を受け取った禎理は、先ほどの説明をもう一度反芻していた。
危ないな、と思う。二百年前に起きた『魔法革命』以降、『この世界』から『魔力』と呼ばれるものは殆ど全て消え去ってしまっている。そんなところにこの『本』が現れたら? 世界は確実に混乱する。
醜悪に歪んだ三角の顔が脳裏に浮かぶ。あんな奴がこの『本』を手にしてしまったら、世界は確実に滅びてしまう。それだけは何としても避けなければ。
だが。『辞書』としてみると、この『本』にはかなりの価値がある。こんな貴重な『本』を、闇雲にこの世界から抹殺しても良いのであろうか?
と、その時。
〈……写本、だ〉
不意に思いつく。
三角も、教授が持っていた『写本』ではなく『原本』の方を欲しがっていた。おそらく、『原本』に使われている紙かどこかに『魔力』が込められているのだろう。きっとそうだ。
『写本』を作って、危ない『原本』は燃やしてしまおう。
禎理はそう、千波と毘央に提案した。
「そんなことができるのか、禎理?」
半信半疑な顔で、毘央が呟く。
「できます。……材料さえあれば」
「それはいい考えね!」
千波のこの言葉が、禎理の背を確実に、押した。
その日の内にどこからか、毘央は大量の羊皮紙とインクを調達してきた。
精霊たちが法力で作ってくれた『写本室』で、禎理は三冊目の『本』を写し始めた。
禎理所有の二冊には『写本』があるから、とりあえず三冊目だけ写せばよい。
「……もう二冊も、写しておきたいの。いいかな」
その『写本室』に、千波が二人の男の子を連れてくる。まだ『大人』になる前くらいの男の子達の名前は、立と呎。呎は自分の息子で立は従弟だと、千波は禎理に説明した。
もちろん、禎理に否やはない。二人は早速写本室に閉じこもり、二冊の『本』を写し始めた。
話を聞くと、二人とも千波の『本』から『文字』を幾つか教わっているらしい。『本』は一つなのに学ぶ人は二人。それで大丈夫なのかな、と、禎理は思わず首を傾げた。
「もちろん、最終的にはどっちか一人にしか本を渡せないのだけど」
二人とも才能があるのだからと、千波が笑う。息子である呎に『本』を継がせたいのだが、立の方が才能がありそうなのが千波の悩みらしい。
「ふーん」
二人のことを楽しそうに話す千波。
そんな千波が眩しく見えて、禎理は思わず目を細めた。
そうして、幾日かが過ぎた、雪のある日。
「禎理、大変!」
起きぬけの頭に、甲高い声が響く。
寝床に指定された木の洞から這い出ると、禎理の目と鼻の先に少女の姿があった。若木の『精霊』だ。
「松明持ったむさっ苦しい奴らが、森の入り口にいる!」
おそらく、三角だ。いつかここを突き止めるだろうとは思っていたが、やはり、来たか。
「とにかく、行ってみる」
禎理は武器を留めてあるベルトを引っ掴むと、精霊が指差した方向へ大急ぎで駆けて行った。
「蛇神様にだけ伝えて! 千波さん達には、言わない方がいい!」
精霊にはそう、指示して。
精霊が言ったとおり、森の入り口には、火が点いた松明を持った屈強な男どもが大勢、『蛇神の森』と四路河の間にある僅かな空き地にたむろしていた。
その中心にいるのはもちろん三角。その隣に、男に刃物を付きつけられた教授がいるのが、枯れ草の間から彼らの様子を確かめている禎理の目にもはっきりと見えた。
おそらく、教授の命と森の消失をネタに禎理を脅迫し、『本』を奪おうという魂胆なのだろうが、『本』の『魔力』を知ってしまった今となっては、どう利用するか分かったものではない三角に渡すことだけは絶対にやってはいけない事だ。しかし、教授も、精霊たちが住まう森も、かけがえのないものである。
さて、どうするか。草むらにしゃがみこんだまま、禎理はしばらく考え込んだ。
とにかく、口に自信は無いがここは『交渉』しかないだろう。禎理は意を決し、草むらから腰を上げた。
だが、三角側は早々に待ちくたびれてしまったらしい。禎理が交渉に飛び出すより早く、枯れ草に火が放たれる。炎は乾いた落ち葉を舐め、あっという間に辺りの木々に燃え移った。
〈……なっ〉
煙が口に入り、思わず咳き込む。炎に巻かれた木々の叫び声が、禎理の耳に確かに響いた。
森のために、早急に何か手を打たないと。でも、今の禎理では何もできない。
〈どう、すれば……〉
禎理が途方にくれた、丁度その時。
「禎理さん!」
いきなりの叫び声とともに現れたのは、立と呎。
「蛇神様に、言われ、て」
驚く禎理の前に、二人は『本』を差し出した。
「使って、良いって」
「禎理なら、ちゃんと使えるだろうって」
荒い息を吐く立の言葉を、呎が裏付ける。
禎理は口の端をきゅっと引き締めると、三冊の本をしっかりと受け取った。
本をしっかりと持ち、三冊いっぺんにひっくり返してから元に戻す。すぐに、禎理の手の中に一冊の分厚い本が現れた。
『水』という言葉を思い浮かべながら、本を開く。すると、忽ちにして、禎理の周りに大量の水が現れた。次から次へと、水の塊が空中に現れては地面に向かって落ちていく。その水で、森の火事はすぐに消し止められた。
「何、これっ?」
突然多量の水に囲まれて、立と呎が叫び声を上げる。
だが、三角側の動揺の方が酷いようだ。
「うわっ!」
「逃げろっ!」
火の消えた松明を放り出して逃げる男達の足を、流れを持った水が掬う。あっという間に、男達は四路河の方へと引き込まれて行った。
だがしかし、その流れの中に教授も巻き込まれている。それを認めるや否や、禎理は思わず教授に向かってその右腕を伸ばした。もちろん、森の中にいる禎理の手が教授に届くわけがない。だが、禎理が伸ばした腕は、教授の服の裾を確かに、掴んだのだ。
戸惑う間もなくすぐに教授を自分の方に引き寄せる。しばらくすると、森に火をつけた男どもは三角を含めて綺麗さっぱり河の中へと消えてしまった。
後に残ったのは、びしょ濡れになった教授と子供二人、そして全く濡れていない禎理のみ。
そんなこんなで春が来て、写本を作る作業は製本まで全て完了した。
「これで、いいかな」
紙は羊皮紙だが、装丁も中身も原本と寸分違わぬ出来映えに、満足して頷く。
確認の為、写本を三冊重ねてひっくり返してみる。予想通り、もう一回ひっくり返しても、写本は三分冊のまま、だった。
「……それで」
ほっとする禎理の横にいた千波が、不意に口を開く。
「『原本』はどうするの?」
やはり燃やしてしまうの? そう訊いてきた千波の言葉は、少し残念そうに禎理の耳に響いた。
その言葉に刺激されたから、でもないのだが、禎理は少し考えてから、手に持った三冊の『原本』のうち、千波が所有していた一冊を千波に返した。そして、禎理が大叔母から頂いた本を立に渡す。
「あと一冊は、蛇神様、あなたが持っていて頂けませんか」
物を預けるのに、『蛇神の森』より安全なところはない。禎理はそれをきちんと知っていた。
それに、蛇神毘央に預けておけば、立と呎が本を交換するのに便利だろう。そうも思ったのだ。
「別に、良いが」
そなたはどうするのじゃ? 禎理から本を受け取りながら、毘央がそう訊ねる。
「俺は、写本で大丈夫です」
その問いに、禎理ははっきりとそう、答えた。
文字を勉強するだけなら『写本』で大丈夫だ。三冊目の『本』に書かれた内容は、写している間にしっかりと自分の頭に入っても、いた。
「迷惑をかけた教授に渡したいと思っています」
「それが良いじゃろう」
禎理の答えに、毘央は満足げに頷いた。
千波と、自分の『本』が持ててにこにこ顔の立と呎に見送られ、蛇神の森を出る。
春の風が、禎理の周りを優しく吹きぬけて、いった。




