いわくつきの部屋・再び
三年半ぶりに帰って来た自分の部屋は、出発した時と何ら変わりない静寂に包まれていた。
その変わってなさに、禎理は安堵し、軽く笑った。
やはり、この街は落ち着く。
大陸を放浪して生涯を過ごす『流浪の民』出身で、旅と冒険が大好きな禎理でも、やはり、この天楚市のように『落ち着ける』場所があることが何となく嬉しかった。
……そういえば。
肩に掛けた鞄を下ろしながら、ふと思い出して床にしゃがむ。そしておもむろに、町屋には珍しい、部屋に敷かれた重い絨毯をめくった。
その絨毯の下にあるのは、どこにでもある、普通の板敷き床。しかしそこには、魔物召喚用の魔方陣が描かれていた。
月の光が当たることによって発動する仕組みになっているので今は全く普通の床に見えるが、一度魔方陣が発動すると、不機嫌な男の姿をした魔物が召喚され、念力で物を投げ飛ばしたり、幻覚で壁や天井を揺らしたりという、迷惑この上ないことを行う。月が出ている間だけとはいえ、そんなことをされたらたまったものではない。ゆえに、禎理が来るまで、この部屋は『いわくつきの部屋』として忌避されていたのだ。
月の光を全く通さない絨毯のおかげで、今は魔物も召喚されず、表面的には平穏な部屋となっている。だが、この手段が姑息であることは、禎理にも分かっていた。
この『絨毯』がないと、保たれない平和、なのだから。
床を確かめ、絨毯を元に戻すと、禎理は立ち上がり小物を置いている長櫃へと目を向けた。
文字が書け、代書屋を営むこともある禎理の部屋には、筆記用具が常備されている。その筆記用具が入った箱の中から、禎理はインクの小さな瓶を引っ張り出した。
長い間放置されていた所為で、インクが蓋の周りで硬くなってしまっている。そんな瓶の蓋を、手を汚しながらかろうじて開けると、禎理はその中身を、そばにあった手桶の中にぶちまけた。
埃の匂いと、安いインクのむっとする匂いが混ざり合う。
どうも、水分が足りないようだ。禎理は別の手桶を手に階下へ降りると、水を汲むついでに部屋の埃でいがらっぽくなった咽喉を潤した。
そして再び自分の部屋に戻り、加減しながらインクを少し薄めに薄める。インクが丁度良くなったところで、禎理は今度は腰のベルトから自分の短剣を引き抜いた。
その短剣の刃をゆっくりと自分の左親指に当てる。いつもきちんと手入れがしてあるポリノミアル製の刃は、押し当てる間もなくするりとすべり、左親指の付け根に少し深い傷をつけた。
その傷口から滴り落ちる血を、手桶の中に入れ、インクと混ぜる。血が十分入ったと思ったところで、禎理は手桶から左手を上げ、残っていた手桶の水で手を洗ってから、傷口を自分の口のところまで持っていき、塞がるまでぺろぺろと舐めた。
〈……これで、本当に、大丈夫なのかなぁ?〉
少しひりひりと傷む傷口に顔をしかめながら、心の中で呟く。
禎理が大陸を旅している時にお世話になった南方の上級神官ボルツァーノによると、元来、人の『血』には魔力を中和する『力』があるらしい。
禎理の血をインクと混ぜ、『願い』を念じながら元の魔方陣をなぞれば、魔方陣に込められた呪文などすぐに打ち破られるさ。この部屋の魔方陣について相談した時、ボルツァーノは確かにそう、言った。
だが、ボルツァーノの言を疑うわけではないが、自分の『血』にそんな力があるなんて俄かには信じられない。しかしそれでも、この魔方陣に閉じ込められている魔物を、何とかしたい。そう思ったから、禎理は半信半疑のまま、ボルツァーノの言葉を実行しようとしていた。
助言を信じるかどうかはともかくとして、『インク』の用意は整った。
〈で、あとは……やはり夜を待つか〉
魔方陣の姿は、月の光が差さない限り見えない。
幸い、今宵は満月。夕方の光も明るいので、今夜もきっと晴れるだろう。光量十分の状態で作業ができる。
禎理は絨毯の上にごろんと横になると、左手を口から離し、傷の具合を確かめた。
そして、夜。
月が中天に懸かるや否や、煌々とした光が、天窓の色ガラスを通して絨毯を外した床一杯に降り注ぐ。
その光に応じて浮かび上がった魔方陣に、禎理はきゅっと唇を引き締めると、手桶に右手を突っ込み人差し指に昼間作ったインクをたっぷりつけてから、その指で魔方陣をなぞり始めた。
願うことはもちろん、『魔物が自由になれますように』。
「何やってるんだ?」
程なくして、禎理の頭上から声が降ってくる。
顔を上げなくとも、その声が件の魔物のものであることは、禎理にはすぐに分かった。
「久しぶりに呼び出されたと思ったら、変なことやってるなぁ」
不意に、魔物の顔が禎理の目の前に来る。
突然の視界の変化に、禎理は思わずのけぞった。
その途端、しゃがんだだけの禎理の身体はバランスを崩し、床に尻餅をついてしまう。
禎理の不様さに、魔物はからからと笑った。
「そういえば、何日振り、だっけ」
「『日』じゃなくて『年』なんだけど」
気を取り直して体勢を整え、指にインクをたっぷりつけてから、魔物の問いに答える。
魔物と人間の時間の感じ方はかなり違っているとはいえ、彼はあまりにものんきすぎる。禎理は内心で苦笑した。
だがしかし。
「そうかぁ? ……全く変わってないぞ、お前」
「悪うございましたね」
魔物に核心を指摘され、思わずむっとする。実際問題、十七のときから顔も身体も全く歳を取っていないような気が、自分でもする。それは、女顔であることと共に禎理の密かな悩みの一つだった。
「で、最初の質問に戻るけど、何やってんだ、禎理?」
「うん、実は……」
魔方陣をなぞりながら、禎理は、神官ボルツァーノに教わったことを包み隠さず魔物に話した。
「はぁっ? それって、ホントにできんのかぁ?」
果たして予想通り、魔物は半信半疑の声を上げた。
「そんなこと、魔界でも聞いたことないぜ」
「うーん、俺にも分からないけど……」
そう呟きながらも、禎理の手は休まずに魔方陣をなぞり続ける。
だが。
「なあ、それって途中で止めてもいいのか?」
不意に、魔物の口調が変わる。
「薄れてきてるぜ、月の光」
「……あっ」
魔物の言葉に、禎理は慌てて顔を上げた。
指摘された通り、月は既に中天から少し傾き、天窓から入る月の光も弱くなってきている。
しかし、なぞることができたのは、まだ魔方陣の半分ほど。
「さぁ……どうなんだろう?」
そういえば、ボルツァーノにそこまでは突っ込んでは訊かなかった。禎理は内心頭を抱えた。
もしも、一晩ぶっ続けでこれを描かないと効果がないとしたら大変だ。
「でも、どっちにしろ今日はもう無理だよ」
手桶を見ると、特製のインクも残り半分の魔方陣を描くには到底足りそうもない。
「だな」
魔物の方もそれに気付いたらしい、肩を竦めると皮肉たっぷりに言い放った。
「ま、明日も効果があることを祈ってるぜ」
その言葉と同時に、月の光が途切れる。
禎理の目の前で、魔物の姿は忽然と消え失せた。
後に残ったのは、描きかけの魔方陣と疲れ果てた禎理のみ。
〈……とりあえず、寝るか〉
禎理の口から、大欠伸が漏れる。
再挑戦の準備は、夜が明けてからだ。
次の日の夜も、快晴だった。
十六夜の月が、煌々と輝いている。
月の光が魔方陣に達するや否や、禎理は昼間再び、今度は周到に用意した特製のインクで魔方陣をなぞり始めた。
幸い、昨日なぞった場所は、月の光が当たっても光らず、インクの黒い色のままである。どうやら、一晩で魔方陣を全てなぞらないといけないってことはなさそうだ。禎理は内心安堵すると、残りの魔方陣を中和しようとその右腕を精一杯動かした。
「おう、やってるな」
作業開始からしばらくしないうちに、昨日と同じ声が降ってくる。
「頑張れよ〜」
その能天気な声に、作業意欲が削がれる。しかし、この『鎖』から解き放たれさえすれば、魔物は自由で『幸せ』になる。だから、頑張って中和しよう。その思いを抱えて、禎理は作業に没頭した。
慣れてきたのか、魔方陣をなぞる作業は順調に進む。
あと一本、短い線をなぞれば、魔方陣は全て中和される。丁度、その時。
「……え?」
動かそうとした禎理の腕が、途中で止まる。
見上げると、先ほどから黙りこくったままの魔物が、禎理の右腕を押さえていた。
中和作業が進んでいる所為か、向こう側の壁が見えるほど魔物の身体は透けてしまっている。
その姿のまま、魔物は禎理をじっと見つめた。
「どうした……」
あまりの違和感に、禎理が口を開きかけた、次の瞬間。
「……ありがと、な」
微かな声が、禎理の耳に響く。
次の瞬間、禎理の手は魔物によって滑るように動かされ、魔方陣の最後の一線が描かれた。
「えっ?」
一瞬、戸惑う。
その間に、魔物の姿は霧のようにすうっと消えて、しまった。
もう、気配すらも無い。月の光は、まだ煌々と部屋を照らしているというのに。
「そう、か……」
ゆっくりと、呟く。
魔方陣が『中和』されたから、禎理の願い通り、魔物は自由になったのだ。
もしかすると、最後のあれは、魔物の『照れ隠し』だったのかもしれない。
自由になった魔物君が幸せでありますように。禎理はそう願わずにはいられなかった。




