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指し示す赫

 久しぶりの音に、ふっと目覚める。

 ぼうっとした意識の中で、禎理ていりは静かにベッドから降り、立て付けの悪い色ガラスの窓を優しく、開けた。

 思った通り、暗闇の中を、たくさんの雨粒が白い直線を描いて落ちている。

 昨日は、確かに雪だったのに。

 季節は確実に、春に向かっている。

 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、まだ見ぬ世界が自分を呼んでいるような気が、確かに、した。

 また、旅立つ日が来る。あの、キラキラと輝くような日々が。

 それが嬉しいのは確かなのだが、同時に、後ろ髪を惹かれるような思いも、心の中にあることを禎理は知っている。その想いに溜息でむりやり封をすると、禎理は冷えた身体を再びベッドに横たえた。

 と。

 部屋のドアが、音を立てて開く。

 そのドアの向こう、冷え冷えとした闇の中に立っていたのは。

「……玄理げんり!」

 その小さい姿を認めると、禎理は大慌てでベッドから飛び起き、傍らの毛布を掴んでドアまで駆け寄った。

 そしてその細い肩を暖かい毛布で包む。

「どうした、眠れないのか? 雨の音が、気になるか?」

 自分のベッドに腰掛けさせ、優しくそう訊ねると、玄理は禎理をしばらく見つめてから、やがてこくんと頷いた。

「やっぱり、淋しかったか」

 玄理と同室の先輩学生、ルドルフとブラヴェは、今日は何かの行事らしく学問所の方へ泊まっている。だから禎理は、寝る前に一応「一緒に寝るか」と聞いたのだが、その時は玄理は首を横に振ったのだ。しかし、まだほんの五つの子供。強がりはほんの僅かしか続かない。

 だが。

 禎理の言葉に、玄理は首を横に振ると、禎理に向かってがばと抱きついてきた。

 と、すると。……まさか、気付かれてしまったのだろうか? この心のざわめきに。

「……まさか、ね」

 この子がここまで鋭いはずがあるまい。禎理は一人苦笑すると、震える玄理の背中を優しく撫でた。

 しかしながら。

 やむをえず、とはいえ、故郷を捨ててここへ来た玄理に頼れる者は僅かしかいない。しかも、玄理にそうさせた原因は、彼の両親をむりやり『説得』した禎理にあるのだ。だから本当は、玄理がもっとしっかりするまで、禎理はここにいないといけないのだろう。

 だがしかし、禎理の胸にあるざわめきは、誰にも止めることができないのだ。

 それが、禎理の性。

〈ごめんな、玄理〉

 心の中で、謝る。

「……そうだ」

 もやもやとした気持ちを振り払うように、禎理は玄理に軽く笑いかけた。

「何か温かいものを飲んだら、眠れるかもしれない」

 禎理の言葉に、玄理もこくんと頷く。

 寒くないように玄理に毛布をしっかり巻きつけてから、禎理は玄理の手を引き、暗い階段を静かに下りた。


 冷たい雨が降っていても、地下にある台所は暖かかった。

 朝用にと炉の上にかけられているスープと、天井からぶら下がっている薬草類が、不思議と温かい匂いを醸し出している。

 炉の埋み火を使えば、ミルクを温めることくらいはすぐにできる。ボルツァーノが飲むお茶用の砂糖をくすねると、禎理は塊を一つ、いつの間にかついてきていたキイロダルマウサギの模糊もこに投げる。その後で、温めたミルクの入ったカップ二つに砂糖をたっぷり入れると、その一つを玄理に持たせた。

「熱いから、気をつけろよ」

 うんと頷いて、玄理がカップを口に近づける。しかしまだ熱かったのだろう、近づけたカップをそのままに、玄理の表情がしばし止まった。

 そんな玄理をみていると、禎理の心も和む。

 緩やかに笑いながら、禎理も自分用のカップに口をつけた。

 と、その時。

 禎理の耳が、雨の音に混じった微かな物音を捕らえる。

 これは、……上の食堂から、だ。

 こんな時間に、誰が? そう考える前に、はたと思い当たる。

 ……まさか!

「玄理」

 禎理の表情が変わったのを見て、きょとんとする玄理。その玄理を、作業用テーブルの下の野菜籠の陰に模糊とミルクカップごと大急ぎで押し込む。

「俺が帰ってくるまで、ここでじっとしてろ」

 そして玄理が頷くのを確認する間もなく、禎理は食堂へ向かって駆け出した。

 食堂へ続く階段を上りながら、ちっと舌打ちする。

 ここ最近、聖堂へ盗みに入る罰当たりな泥棒が出現している。つい先日も、隣の『水の神殿』から金細工の祭器が盗まれたと、禎理はボルツァーノから聞いていた。だが、隣で起こった事にも拘らず、学寮の責任者ボルツァーノの指示は「放っておけ」。「ここには盗んで価値のあるものは置いてないからな」というのが彼の言い分だったのだが、その言葉に従ったことが裏目に出た。

 最速で扉を開け、食堂に足を踏み入れる。

「……やっぱり」

 見回すまでもなく、食堂は完膚なきまでに荒らされていた。ボルツァーノの定位置である奥の間の後ろに飾られていた燭台が、綺麗さっぱりなくなっている。

 そして床には、泥の付いた足跡が、中庭に出るドアまで点々と続いていた。

「追いかけるしか、ないな」

 禎理はきっと唇をかむと、足跡を追って中庭へと出た。

 禎理と玄理が台所へ入った時よりも、雨脚は弱くなっている。その雨の音に混じって、ぴちゃぴちゃという足音特有の音が、確かに禎理の耳に入ってきた。

 また、近くにいる。そう思う間もなく、禎理自身も音の方へ走り出す。いくばくも行かないうちに、禎理の目は、暗闇にうごめく大柄な背を発見した。

 いた。あいつだ!

 幸い、雨音が禎理の軽い足音を消してくれている。禎理はなるべく静かにその相手に近づくと、気付かれる前にその背後を腰に差した短剣で襲った。

 だが。

 禎理の短剣より早く、背中が動く。

「ちっ」

 攻撃が当たらなかったことに、禎理は舌打ちした。

 だが、相手が抱えていた荷物が下に落ちるのだけは、音で分かる。

 ならば。

 禎理は相手の横から回りこむと、虚を付くように飛び上がり、相手の頭に鋭い蹴りを叩き込んだ。

 相手が倒れるのが、気配で分かる。

 だが、足場の悪い中で飛び上がった為、禎理のほうも無事では済まなかった。

 着地に失敗して、足を捻る。

「くっ」

 下半身に走った痛みに、禎理は一瞬気を取られた。

 その時。

 禎理の全身が総毛立つ。

「……しまった!」

 泥棒は、一人ではなかった。

 だが、それ気付いた時には、短剣の切っ先が禎理のすぐ傍まで来ていた。

 大慌てで、腰を捻る。

 しかし、必殺の一撃からは、逃れることはできなかった。

 全身を駆け巡る痛みが、声を奪う。

 だが、視界が消える直前、禎理は自分を刺した相手を確かに、見た……。


 カチャカチャという食器の音に、玄理ははっと目を醒ました。

 と同時に辺りを見回す。

 目の詰った野菜籠が、ぼうっとした玄理の視界を温かく遮って、いた。

〈……えーっと〉

 眠り込む前のことを、必死で思い出す。

 確か、禎理とミルクを飲みに来て、何かに気付いた禎理にここに押し込められた。それだけは、覚えている。そして当の禎理は出て行ったきり、未だに迎えに来てくれない。もう既に、辺りはこんなに明るくなっているというのに。

「……げ、玄理?」

 不意に、視界が開ける。

「どうして、こんな所に?」

 野菜籠の向こうに、神殿文官フレネーの驚き顔が、あった。

「え、えっと、あの、禎理さん、が」

「禎理、が?」

 玄理の言葉に、フレネーがいぶかしむ。

「禎理なら、今朝はまだ見ていませんねぇ」

 フレネーの言葉に、玄理の背筋が凍る。

 嫌な予感が、した。

 その腕に模糊とカップを抱えたまま、大急ぎで作業テーブルの下から這い出す。そしてそのまま、玄理はフレネーを押しのけると、突っ走るように台所を出た。

「ど、どうしたんですか、玄理!」

 背後に、当惑したフレネーの声を聞きながら。


 大急ぎで駆け込んだ食堂には、当然のことながら誰もいない。

 目に映る、いつもとは違う雑然とした風景に、玄理はしばし呆然とした。

 せっかく、禎理がいつも綺麗にしていたのに……!

 だが、辺りを見回して扉の前に泥の付いた足跡を見つけると、玄理はその足跡に沿って走るように歩き始めた。

〈禎理、さん!〉

 頭の中には、禎理の無事しかない。

 と。

 食堂棟を曲がったところで、不意に立ち止まる。

 玄理が少し怖いと思っている、この学寮の長ボルツァーノが、玄理のずっと先で俯いて立っていたのだ。

 その足元に横たわっているの、は?

「玄理!」

 いきなり、身体全体が後ろに引っ張られる。

 抵抗する間もなく、ボルツァーノの姿は黒い影に遮られて見えなくなった。

「見ては、だめです」

 玄理の目の前にいるのは、これまで見たことのないほど厳しい顔をしたフレネー。

 何故? と聞く間もなく、玄理はフレネーに引き摺られるようにして学寮の方へと連れて行かれて、しまった。


 玄理を追って来て、ボルツァーノのただならぬ様子に気付いたフレネーは、玄理を寮に閉じ込めるなり大急ぎで師匠の所へ戻った。

 戻ってみると、ボルツァーノは地面に屈みこみ、ぬかるみの中から一人の青年を抱き起こしたところだった。

「師匠」

 ある悪い予感に囚われながら、ボルツァーノに近づき、その背中に向かってゆっくりと声をかける。声を掛けられて初めてフレネーに気付いたかのように、ボルツァーノははっと顔を上げてフレネーを見つめた。

「それは、やはり……」

 ボルツァーノが抱き上げた泥の塊に目を落とし、絞り出すような声でそれだけ訊ねる。

「そうだ」

 ボルツァーノはフレネーに向かって少しだけ頷くと、ただ静かに、青年の顔の泥を落とした。

 汚れを落として出てきた顔はやはり、フレネーも見知っている者の顔。

「もう少し、見つけるのが早ければ……」

 そこだけ赤黒く染まっている脇腹に触れて、ボルツァーノはただ静かに呟く。

 確かに、その傷だけで、人一人が死ぬ筈がない。

「しかし、このままにはしておけぬ」

「……そう、ですね」

 フレネーはそれだけ言うと、目をごしごしと拭ってから桶を取りに台所へと、向かった。


 今日は授業には行かなくていいと、玄理はフレネーによって半強制的に自分の部屋へと閉じ込められた。

 だが、先ほど見た光景がどうしても気になる。玄理はそっと部屋のドアを開けた。

 ……あそこに倒れていたのは、本当に、禎理さん、なのだろうか? それを、確かめたい。腕に飛び込んできた模糊を抱えて、玄理はゆっくりと、寮の階段を降りた。

 とりあえず、外に行ってみよう。玄理は一人こくんと頷くと玄関の扉にその手をかけた。

 と。

 全く偶然に、玄理の目がボルツァーノの執務室の方へ向く。

 執務室のドアは少しだけ開いていた。その中から低い声が漏れ聞こえてきている。

 もしかすると、禎理のことを何か話しているのかもしれない。そう思った玄理は音を殺して執務室に近づき、ドアの隙間から中の様子をそっと覗いた。

 隙間から見えるボルツァーノの部屋には、主の姿の他に、二人の人物の姿が有った。一人は文官の服装だが、もう一人はボルツァーノと同じ神官の服装をしている。『水の神殿』の神官長、ブリュアン師匠だ。

「……傍にフレネーの短剣が落ちていたわけだろう? 犯人は明白ではないか」

 ブリュアン師匠の低い声が、辺りに響く。

「持ち主が刺したとは限らないのでね」

「しかしそれをどうやって確かめる?」

「それは……」

 それに対し、ボルツァーノ師匠はあくまで飄々としているように玄理には思えた。

 しかしそれより何よりも。玄理を驚かせるのに十分なものが、部屋の中央に置かれているのを、玄理は確かに、見た。

 二人の師匠の前に組まれた台の上、そこに灰色の服を着て横たわっているのは、禎理ではないのか……!

「あ」

 思わず声が出る。

「誰だ、そこにいるのは」

 その声で、ボルツァーノに気付かれてしまった。

「玄理か。……入ってきなさい」

 何時になく優しいボルツァーノの声。その声がかえって怖く感じ、玄理は扉の前で動けなかった。

 それに。

 目の前に横たわり、微動だにもしない人物が禎理だとは、どうしても信じたくない。

 そんな玄理の心情を察したのか、ボルツァーノがブリュアンの後ろに控えていた文官に目配せする。

 確かあの文官の名前はヴィエート。そう教えてくれたのは禎理だった。玄理がそんなことを思い出している間に、件の文官が目の前に現れる。あっという間に、玄理の身体はボルツァーノの横に、あった。

「よく見ておきなさい、玄理」

 師匠に促されるまま、確かめるように台上の人物を見つめる。

〈やはり、禎理さん、だ〉

 玄理の瞳から、涙がぼろぼろと零れ落ちた。

 雪が解けると去ってしまいそうな気は、確かにしていた。だが、こんな形では、なかったはずだ。

 玄理の腕から模糊がぽんと飛び出し、禎理の頬にその頬を摺り寄せる。だが、自分の主人のただならぬ様子に気付いたのだろう、模糊はぱっと禎理から離れると、困った表情を玄理に見せた。

 模糊のその行為につられるように、玄理も恐る恐る禎理に近づき、その土色をした頬に触れる。だが、その何者も寄せつかないような冷たさに、玄理はすぐにその手を引っ込め、傍の模糊をぎゅっと抱き締めた。

 怖かった。ただただ怖かった。

 玄理は反射的にボルツァーノの背後に回り、その上衣を固く握り締めて、いた。

 そんな玄理の頭の上に、ボルツァーノの白い手が置かれる。

「よく見ておきなさい、玄理」

 繰り返される言葉。

 見上げると、その声に反し、ボルツァーノの眼光はいつも通り鋭かった。いや、その瑠璃色の瞳は、いつも見ているよりきつく光っている。その瞳の色に促されるように、玄理は視線を台上の禎理に戻した。

 丁度その時。

「……玄理! こんな所に!」

 驚きの声が、静寂を破る。

 執務室の扉の前には、驚きと焦りで顔を赤くしたフレネーが立っていた。

「あれだけ部屋にいるように言ったのに」

「大丈夫だ、フレネー」

 そんなフレネーを、ボルツァーノが手招きする。

 フレネーは口を閉ざすと、こくんと頷いて横たわる禎理の傍に立った。

「禎理を、よく見ておきなさい、玄理」

 同じ台詞を、ボルツァーノが再び繰り返す。

 意味が分からないながらも、玄理はじっと、先ほどから微動だにしない禎理を見つめた。

 静けさが再び部屋を包む。

 しかしすぐに、ノックの音が部屋に響いた。

「お呼びでしょうか?」

 その音と共に耳に入ってきた声に、玄理はびくっとして、掴んでいたボルツァーノの上衣をぎゅっと握り締めた。

 この声の主にされた仕打ちは、今でも忘れることができない。

 しかし、怯えながらも、玄理はボルツァーノに言われた通り、禎理から目を離さなかった。

「入りなさい、アクセ」

 ボルツァーノが、声の主の名を呼ぶ。

「手伝って欲しいことがある」

 アクセの、傍若無人にしか聞こえない足音が、玄理のすぐ傍で止まる。

 恐ろしい人が近くにいる。玄理の全身はぶるぶると震えて、いた。

 だが。

「あっ!」

 恐ろしさも忘れてしまう光景に、思わず声が出る。

 玄理はボルツァーノの上衣を引っ張ると、禎理の方を指し示した。

 横たわる禎理の脇腹が、見る見るうちに赤く染まる。突然の出来事に、玄理はしばし息をするのも忘れた。

「……なるほどね」

 ボルツァーノの手が、玄理から離れる。その手で玄理を自分の上衣から優しく引き離すと、ボルツァーノはやおら一歩踏み出し、ぐっとアクセに迫った。

「やはりお前だったか、アクセ」

「な、何のことでしょう、ボルツァーノ師匠?」

 迫力満点のボルツァーノに、焦るアクセ。

 そんなアクセに、ボルツァーノは顎で禎理の脇腹を示した。

「あれを見て、まだ白を切る気か?」

「そ、それ、は」

 狼狽するアクセ。

 ボルツァーノはそんなアクセから離れると、自分の机の上に置いてあった短剣を掴み、再び素早くアクセの眼前に戻った。

「禎理を刺したのは、この短剣だ」

 フレネーの、赤黒く錆びた短剣を指し示してボルツァーノが言う。

「傍らに落ちていたし、傷口に錆が付いていたからな」

「で、では、その短剣の持ち主が犯人なのでは?」

 上ずった声を出しながらも、あくまで白を切るアクセ。

 だが、ボルツァーノの声はあくまで淡々と、事実だけを積み上げた。

「お前も武官の端くれなら、武官用のこの短剣がどういった魔法を掛けられているかぐらいは知っているだろう」

 神殿所属の武官に渡される短剣には、『傷つけることへの責任』から、その短剣を用いた者が被害者に近づくと、被害者の傷口から血が出るという『呪い』が掛けられている。だから、禎理の傷口から血が流れ出た時に彼に近づいた人物こそ犯人となる。

「まやかしだ!」

 全身をわなわなと震わせながら、アクセが叫ぶ。

「自分の部下の罪を隠そうとして」

 対して、ボルツァーノの答えはあくまで冷静だった。

「確かに、この短剣は我が部下、フレネーのものだ。……だが」

 ボルツァーノは表情を崩さず、ただゆっくりと玄理を指差した。

「『子供』が見ている」

 続いて背後を顎で示す。

「ブリュアン師匠も、だ」

 無垢な『子供』と、権威の象徴である『水の神殿』の長。この二人の証言を『嘘』だと決めつけられる者は誰もいない。

 がくっと床に膝をつくアクセ。そんなアクセに、ボルツァーノは冷たい言葉を吐きかけた。

「ここ最近の盗難も、お前の仕業だろう?」

 盗難事件にかこつけ、女の事で虚仮にされ恨みを持つ禎理を誘き出し、命を奪ってその罪をこれまた恨み重なるフレネーに擦り付ける。武術を一通りマスターしている禎理の行動いかんによっては自分の方が傷つく可能性があるという、ある意味下手な策だ。しかし、恨みだけでよくここまで策を弄することができることだ。そう評したボルツァーノの声は、侮蔑に満ちていた。

 不意に、ボルツァーノの腕が、アクセの胸元に伸びる。

 次の瞬間、ボルツァーノはアクセの胸元を掴み、自分の前に引き揚げた。

「策を弄するなら、完全な策を立てろ」

 先ほどとは違う、怒りに満ちた声が、あたりに響く。

「不完全な策で禎理を刺すなっ!」

 そう言ったボルツァーノの顔が上気して赤くなっているのを、玄理ははっきりと見た。

「ボルツァーノ師匠!」

 今にもアクセを力任せに殴りそうにみえたボルツァーノを、フレネーが慌てて止めに入る。

 と。

 アクセの懐が、きらりと光る。

 今まで大人しくボルツァーノの罵声に付き合っていた筈のアクセの腕が、急にぴっと伸びたように、玄理には感じられた。

 アクセの左腕が、体格ではアクセより小柄なボルツァーノの身体を弾き飛ばす。その手の中にあったのは、武官用の短剣。そしてその切っ先の前には、無防備なフレネー、が。

「あっ!」

 思わず叫ぶ玄理。

 だが。

 次の瞬間、玄理の視界は灰色の布に覆われる。

 その布を大急ぎで取ると、アクセの短剣をフレネーに当たる寸前で止めている禎理の姿が、はっきりと見えた。

「禎理、さん!」

「ヴィエート!」

 驚きに満ちた玄理の声に、ブリュアンの声が被さる。

 忽ちのうちに、アクセは、飛び出したヴィエートの下敷きになって、いた。

「……気持ち悪い。目がくらくらする」

 その傍でしゃがみこむ禎理。

 倒れこむその身体を、フレネーがしっかりと抱きとめた。

「……やれやれ、全く、馬鹿力な奴め」

 その横では、ボルツァーノが渋面を作って、いた。


 ブリュアンの指示により、アクセは『水の神殿』の武官達によって神殿群内の査問所へ連れて行かれた。

 おそらく、彼は罪を償うまでそこにいることになるのだろう。

 そして後に残ったのは、ボルツァーノ、フレネー、玄理、そして禎理。

「……騙して悪かったな、二人とも」

 『水の神殿』の者達が去ってから、ボルツァーノはフレネーと玄理に向かって軽く頭を下げた。

 その傍では禎理が首を竦めている。

 元々、禎理の傷は酷いものだったが『致命傷』ではなかった。しかし、禎理から犯人としてアクセの名を聞き、ボルツァーノはある種の危機感を持った。これ以上アクセを野放しにしてはいけないと感じたのだ。前の事件で釘を刺したにも拘らず反省の色が全くない。これは、もう、古い権力争いなど関係ない。今どうにかしなければ、今後もこのような事件が続く。ボルツァーノはそう判断した。

 だが、偉い後見人が付いているアクセと、ただの臨時雇いである禎理では、有利不利は目に見えている。悪くすると罪が不問になるおそれも、確かにあったのだ。

「だから、一芝居打った、ってわけさ」

 公共の場でアクセを裁けば、後見人たちにも何も言えない。だからボルツァーノは禎理と謀り、薬を用いて禎理の仮死状態を作り上げたのだった。

「まあ、これで玄理たちの『心配事』はなくなっただろう」

 そう言いながら、玄理の頭を軽く叩くボルツァーノ。

 しかし、説明だけではどうしても、心が納得しない。だから玄理はゆっくりと禎理に近づき、その頬にそっと触れた。

「玄理?」

 首を傾げる禎理の頬は、いつもの通り温かい。

 その温かさに、玄理の心は本当に納得した。

「ごめんな、玄理」

 そんな玄理を、禎理は優しく抱き締める。

「心配したろ」

「うん」

 それでも、この温かさが戻ってきたのなら、それで良い。玄理ははっきりと、そう、思った。


 三日続いた雨で、地面の雪はすっかり溶ける。

 だが、泥が入ってしまった脇腹の傷が結局熱を持ってしまい、旅に出られるほど暖かくなったというのに禎理はベッドに縛られたまま、だった。

「……ここにずっと居ろってことさ」

 そんな禎理を、見舞いに来たボルツァーノはそう評する。

 その言葉を聞く度、禎理の胸の疼きはますますその度合いを増していった。

 未知の世界を見たいのは確かだ。だが、ここに、この場所にずっと居るのも悪くはないのではないか? だが、『ここに居る』という決定をしたところで、いつかは、心のままに、誰にも知らせずふいっとここを去ってしまうだろう。自分の持つ、そういった『性』を、禎理はきちんと自覚していた。

 出て行くにせよ、残るにせよ、後悔だけはしたくない。

「まあ、どっちでもいいんじゃないのか?」

 そんな禎理の気持ちを知ってか、ボルツァーノはあくまで涼しげに言い放つ。

「何処に居ても、お前はお前だ」


 確かに、ボルツァーノの言う通りかもしれない。


 傷を気遣いながら、ゆっくりと上半身を起こす。

 春を告げる風が、開け放たれた窓から入り込み、禎理の背を、優しく、押した。

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