黒衣
九七一が、やたら大きな荷物を持って禎理の前に現れたのは、禎理が天楚市内の武術道場『無限流』に入門して半年ほど経った頃、だった。折り良く、寮の二人部屋を一人で使っていた禎理は、一体何があったのだろうと首を傾げつつも喜んで九七一を迎えた。
九七一の正体は、魔界の黒犬。実質的に魔界を支配する魔界の王『魔王数』の意を受け、地上界での魔物に関する仕事を行う役目を担っている。だから、内心ではえらく緊張していたのだが、九七一の用事は呆れるほど簡単なものだった。
「……これを、縫ってくれないか?」
包みの中身を二人用のベッドの上に広げ、そっけなく言い放つ。
禎理の目の前にあったのは、ある形に裁って仮縫いまでしてある黒色の革と布、らしきもの、だった。
余りにも大きいので、ベッドの上に立って広げてみる。おそらく上着であると思われる革布は、見覚えのある形に似ているような気が、した。
「自分で、やってみたんだけど、できなかったから」
確かに、仮縫い以外に、やたらと曲がった縫い糸が見える。九七一の思いがけない不器用さに、悪いと思いながらも噴出さずにはいられなかった。
「いいけど」
笑いながら、頷く。
「でも、誰の服?」
「俺の」
そして、向こうを向いたまま、九七一は更に付け加えた。
「珮理さんが、作ってくれてたんだ」
その言葉に、笑いが一瞬にして凍りつく。
持っていた布地が、禎理の手から滑り落ちた。
『珮理』。その人の名は、今も禎理の胸を切なく締め付ける。
――あの『事件』から、既に一年が経とうというのに。
『珮理』とは、魔王数の妻であり、禎理とも血の繋がりのある女性の名。
一年ほど前、『吸血鬼』騒ぎに巻き込まれていた禎理の前に現れ、その騒ぎの原因となっていた『力ある石』の一つ『吸血石』を、その身と引き替えに滅ぼした『担い手の素質を持つ者』だった。
そして、彼女の『死』に、力を貸したのは……!
「……分かった」
一瞬の躊躇いの後、少し笑ってから、禎理は九七一に向かってこくんと頷いてみせた。裁縫は、昔、「生活に必要だから」と母親から教わっている。だから、きっと上手くいくだろう。
「本当か! ありがとう、禎理!」
禎理の答を聞き、破顔した九七一が禎理の手を強く握る。
その痛みと、心の痛みに、禎理は思わず唇を噛み締めた。
数日後。
硬い革地に悪戦苦闘しながらも順調に上着を縫い進めている禎理の前に、不意に影が立った。
「……やはり、此処だったか」
その声を聞くまでも無く、影の大きさと威圧感で禎理にはその人だとすぐに分かる。魔界の大王、数だ。しかし、人間嫌いの彼がこんな所へ一体何をしに来たのだろうか? 禎理がそういぶかしむより一瞬早く。
「縫うのを止めてくれないか、その上着」
言われたのは、思いがけない言葉。
禎理はきょとんとして、数の顔をまじまじと見上げた。
「あるいは、別の形で縫ってくれるとありがたいのだが」
身体全体から漂う威圧感には全く似合わない言葉が、数の口から迸る。
何故? 首を傾げながらも、ある類似に気付き、禎理は思わずあっとなった。
この上着は、数が着ているものと同じもの。おそらく、数を尊敬する九七一が、同じ形の服を作ってもらおうと珮理にねだったのだろう。
「部下に、同じ格好をされるのは、お嫌なのですか?」
思わず、揶揄の言葉が口をつく。禎理のその言葉に、数は軽く鼻で笑うと、次の瞬間、切れ長のその目を伏せた。
「それも、あるが……」
言葉に詰まる数。
だが、その言葉の先は、言われなくても分かっていた。
おそらく数も、珮理のことを思い出すのが辛いのだ。
「……分かりました」
とりあえず、それだけを口に出す。
禎理の言葉に、数は再び鼻で笑った。
「……あ、ありがとう、禎理」
思わず上ずる九七一の言葉に、気恥ずかしくなって頭を掻く。
縫い上がったばかりの上着を着た九七一の影は、数とそっくりに見えた。
そう、禎理は、珮理の仮縫いのまま、上着を縫い上げたのだ。
珮理さんのことで、数が苦しんでいるのは分かる。でも、痛みでも何でもいいから、数だけは、珮理のことを逃げずにちゃんと覚えていて欲しい。
――彼は、彼女が唯一『惚れた』男、なのだから。
何時になくはしゃいでいる九七一を見つめながら、禎理は心からそう、願った。