海の詩
鏡のような海面の上を、鳥たちが飛び交う。
その光景を、船尾で休憩していた禎理は目をキラキラさせて見つめ続けて、いた。
現在の時刻は丁度、昼食と夕食の間。賄いの手伝いとしてこの『無限号』に雇われた禎理にとっては、大変な片付けと大慌ての準備の間の、ちょっとした休憩時間である。その休憩時間を全て、禎理は海を見ることに費やしていた。
太陽や月の光を浴びて海面はキラキラとその色を変え、船の後ろにできる波は白く不思議な形に浮かびあがる。
なんて綺麗な光景なんだろう。心からそう思う。こんな光景を『歌』でしか知らなかったなんて、全く勿体無い。
「……そんなに海面見つめて、何が楽しいんだか」
丁度通りかかった『無限号』の船長ダインの呆れた声が、禎理の背後で響く。
だが、山育ちの禎理は、この風景に全く飽きることが、無かった。
突然、飛魚の大群が鋭く海面に飛び出し、船の周りで飛び跳ねる。
小さな魚が立てる波が、光に当たって虹色を作った。
そういえば。ふと思う。海の中には、魚の他に、陸ではみたこともないような大きな怪物や、陸では絶えた『魔法』を遣う不思議な種族が棲んでいるそうだ。
『怪物』らしきモノは、つい数日前に見た。三本マストのこの船より大きな尾びれが海面で跳ねるのを、副船長のエルグの横で見かけたのだ。あれは『鯨』という『魚』だとエルグは言っていたが、あれは絶対『海の怪物』、あるいは『主』だと禎理は今でも思っている。
だが『不思議な種族』のほうは、というと。
〈ここら辺にはいないのかな、海人〉
船の柵にしっかりと掴まり、海面を覗き込む。
強い追い風を帆に受けて快調に進む船の軌跡だけが、白い泡となって遠くに飛び去っていた。
『海人』とは、『この世界』に棲む人間種族の一員である。半人半魚の姿をし、陸に住む禎理たち『陸人』とは対照的に、海の底に美しい街を作って暮らしていると云われている。魔法の技も長けてはいるが、それよりも、美しく力強い声をしているという噂に、禎理の吟遊詩人としての側面が疼いて、いた。
一体どんな声で、どんな歌を歌うのだろうか? 是非一度聞いてみたい。しかし、幾ら水面に目を凝らしても、それらしい姿はとんと見当たらない。
〈……まあ、こればかりは『運』だよね〉
禎理は一人軽く苦笑すると、乗り出していた身体を元に戻した。
そして、手摺に凭れたまま、歌いだす。
この海は 我々の海
時に冷たく 時に優しく
我等を見守る
恵み多き 母なる海
そこに生まれ そこに還る
我等の故郷
男性には珍しい高音が、風に乗って滑るように広がっていく。北の船乗りの間で良く歌われるとダインに教わったこの歌が、今の禎理の一番のお気に入りだった。
歌いながら、何気なく海を見る。
と。
波の間に異質なものを発見し、禎理は思わず手摺から身を乗り出した。
その、目の前に、いたのは。
「……海人!」
驚きであんぐりと口を開けたまま、海面を見つめる。
白く泡立つ波の間には確かに、人間の、しかも女性としか思えないモノの頭が、あった。しかも禎理に向かって手を振っているではないか。
目を凝らしてよくよく見つめると、すっきりと細い肩と小ぶりな胸、そして細い魚の尾びれが海面下で揺れているのが見える。
……この人は、確かに『海人』だ。歌の好きな種族だから、彼女は、自分の歌に誘われてここに来たのだろうか。そう考えた禎理の頬が我知らず綻ぶ。嬉しくなった禎理は、彼女の白い手に向かって自分の手を大きく振った。
だが。
「……何をしている!」
振っていた手が、いきなり強く掴まれる。
振り返ると、大柄で髭もじゃの船員が目を吊り上げて、いた。
「お前、『悪魔』を呼び出して、何をする気だ!」
……へ? 『悪魔』? 海人が?
いきなりの罵声と、理不尽な暴力。戸惑う禎理の身体は、次の瞬間、宙を舞った。
甲板に投げ出され、したたかに腰を打つ。だが、大男の攻撃はこれだけではなかった。
次から次へと繰り出される足蹴を、本能だけで何とか転がって避ける。しかし、逃げ場所は少ない。いつの間にか、禎理は船の最後尾に追い詰められて、いた。
尻餅をついたままの禎理の背後は、底なしの海。唇を噛んだ禎理の目の前に、大男の拳が迫った。
と、その時。
「何をしている、そこの二人!」
ダインの声が、空気を破る。
大男の拳は、避けようとした禎理の鼻先で止まった。
「ウーヌ、お前は見張りのはずだろう。サボるな!」
何時になく厳しいダインの声が、辺りの空気をびりびりと震わせる。
ウーヌと呼ばれた大男はしぶしぶといった感じで拳を下ろしてから、禎理を睨みつけるとそそくさとメインマストの方へと去って行った。
大男が視界から消えると同時に、ほっと息を吐く。
とにかく、助かった。しかし、もしもダインの声が無かったら、どうなっていただろうか。そう思い、禎理は再び溜息をついた。
やはり、自分は、まだ弱い。
「で、何やったんだ、禎理?」
そんな禎理の目の前に、ダインが立つ。
「えっ、と……」
大男が攻撃してきた真意は正確には分からないが、考えられる理由は『海人』のこと。これ一つしかない。
禎理はなるべく正確に、これまでの経緯を全てダインに話した。
「なるほどな」
禎理の話に頷いたダインは、だが次の瞬間、日に焼けた端正な顔を大きく歪める。
「でも、まずいな」
「えっ?」
思わず、首を傾げる。
そんな禎理に、ダインはふっと笑って説明を始めた。
「北の船乗りの中には、彼らを『嵐を呼ぶ悪魔』だとみている向きもあるんだ」
おそらく、嵐の波間で無邪気に遊んでいる彼らをしばしば見かけるからなのだろう。溜息と共に、ダインはそう評した。嵐は神の気まぐれと試練だというのに、全く迷信にも困ったもんだ、と。
「……ま、人の考えはそれぞれだから、ある意味仕方ないんだが」
そう言ってから、ダインは禎理の肩をぽんと叩き、急に声を落とす。
「気をつけろよ。『思い込み』って奴は、時に強固だ」
静かに告げられた事実に、禎理は背中全体がすうっと冷えるのを感じた。
その日の夕焼けは、血を流したように真っ赤だった。
「嵐が来るな」
スープをかき回す禎理の横でエールを煽っていたダインが、ふと呟く。
その言葉通り。日没と同時に雨が降り出し、忽ちのうちに嵐になる。
雷と風と大波に、『無限号』は木の葉のように翻弄された。
「浸水に気をつけろ!」
ダインの声に、雷鳴が重なる。
これまでにも幾多の苦難を乗り越えてきた自負の有る禎理だが、船と嵐のことは分からないし、手にも負えない。何も手伝えないのだから、大揺れに揺れる船内で、禎理は手近のベッドの柱に掴まって震える他、無かった。
船が大きく傾く度に、柱を強く掴み、咽喉の奥からの悲鳴を何とか堪える。自分がこんなにも臆病だったとは。キイロダルマウサギの模糊と蛇神の六華をベッドの柱ごと抱え込んだ禎理の心は震えに震えていた。
と、その時。
大音声と共に、禎理のいる船室の扉が荒々しく開かれる。
振り向いた禎理の腕を掴んだのは、昼間争った件の大男。
「お前の所為だ!」
大声で喚きながら、大男は禎理を乱暴にベッドから引き剥がし、部屋の外へと引き摺り出す。
突然の事に戸惑っているうちに、禎理の身体はいつの間にか船尾甲板へと引き出されて、いた。
「責任を取れ!」
訳の分からない大男の声が、耳を圧する。
車軸を流すような雨が、禎理の服を忽ち水浸しにした。
大男の意図は分からないが、身の危険は確かに感じる。腕を掴んでいる毛むくじゃらの手を振り解こうと、足元の悪い甲板上で禎理は賢明にもがいた。
だが、荒海に慣れている大男に敵う筈が無い。忽ちのうちに、禎理の身体は海に向かって放り投げられた。
宙に浮いた禎理の視界に入ってきたのは、禎理を船ごと掴もうとするかのように伸びて来た暗い大波。だがすんでのところで、禎理の左手が船の手摺を掴んだ。
折り良く揺れた波をつかみ、右腕も手摺にかける。しかし次の瞬間、その右腕に鋭い痛みが走った。
腕に刺さった刃が、真っ暗な景色の中で鈍く光る。その上に見えたのは、禎理の左手を手摺から外そうと賢明になっている大男の醜悪な顔。これまでか。腕から伝わってくる痛みが、抵抗する気持ちを徐々に、だが確実に萎えさせていく。
と、その時。
「何をしている!」
雨音に混じって、副船長エルグの声が響く。
次の瞬間、大男の顔は禎理の視界から消えた。
しかしながら。
〈……ああ〉
離すまいとする気持ちは、痛みに負けた。
手が柵から離れた瞬間、禎理の身体は黒い海に飲み込まれた。
息ができない。
何も見えない。
身体中がもみくちゃにされる感覚も、急速に薄れてゆく。
冷たく、暗い空間に沈んでゆく感覚だけが、禎理の身体全体を支配していた。
これが、『死』、なのだろうか? この、自分自身が剥ぎ取られていく感覚が。禎理がそう、感じた、次の瞬間。
不意に、身体が温かい方向へと引っ張られる。
誰かが、華奢な腕で背中から抱き締めてくれている。そう感じたのは、しばらく経ってから。
「誰?」
思わず、呟く。だが、言葉は泡となって禎理の頬を掠めるだけ。その泡の感覚で、禎理は自分がまだ『水の中』に居ることに気付いた。
そういえば、口の中に異物が入っている感覚はあるが、息苦しさは全く無い。不思議に思った禎理はゆっくりと振り向いた。
だが。幾ら目を凝らしても、見えるのは暗闇ばかり。人の気配は確かに感じるのだが。
「……大丈夫?」
そんな禎理の頭の中で、少女らしい囁き声が響く。
どうやら、禎理の背後にぴったりとくっついている『誰か』が、発している声のようだ。
「あなた、昼間船で歌ってた人でしょ? 丁度良かった」
その声と同時に、背後の気配が消える。
次の瞬間、左腕を掴まれた禎理の身体は、引っ張られるように横へと動いて、いた。
誘われるまま、水の中を泳ぐ。
しばらくすると、ぼんやりとだが徐々に、視界が明るくなっていった。
不思議な事の連続できょとんとする禎理の目の前にいたのは、確かに、昼間波間に泳いでいた少女。そして二人の前下方には、ぼうっとした黄色い光を放つ建造物が見えた。
上の嵐が嘘のように穏やかな海底の広間に、太い石柱を円形に並べた、神殿のような場所。その空間の真ん中に、少女は禎理を導いた。
「実は、あなたに頼みたいと思ってたことがあったんだ」
禎理を見つめ、にこやかに笑ってから、少女は側の石碑を示す。
「これを、歌って欲しいの」
少女の視線に導かれるように、自分の背より高い石碑をまじまじと見上げる。優しい光の間に、何か文字らしき刻み目が、はっきりと見えた。
もっと良く見てみようと、近づいて石碑に手を触れる。次の瞬間、禎理が感じたのは、怒涛のように押し寄せる『文字』の感覚、だった。
知らない『文字』が身体を駆け巡り、歌となって口から飛び出す。だが次の瞬間、締め付けられるような息苦しさが禎理を襲った。
「あらあら!」
少女の声と共に、むせ返る禎理の口に何かが入る。
次の瞬間には、息苦しさは嘘のように消えてしまって、いた。
「……な、何?」
混乱する禎理の胸に、少女が飛び込んでくる。
温かいものが、禎理の胸を濡らした。
「歌うと、真珠は使えないのね。知らなかったわ」
この場所は、海神を祭っている海人の聖地の一つ。そう、少女が呟く。
歌が好きな海神は、石碑に刻まれた歌を歌って祭るのがしきたりとなっているが、歌の『歌い方』を知っている者が絶えてから祭祀自体が途絶えてしまい、荒れるに任せてしまったそうだ。
海神の加護が無い海には海人も魚も寄り付かない。海域は荒れ果て、酷い嵐も起こるようになってしまった。
「だから、歌えそうな人を探してたの。もう百年以上」
「……じゃあ、この嵐を起こしたのは、君?」
思わず、こんな不躾な質問が、禎理の頭を過ぎる。
禎理の気持ちを察したのか、少女はふっと笑って首を横に振った。
「いいえ、嵐も、あなたが海に落ちたことも、ただの偶然」
海人に、嵐を起こす力はない。それだけ言ってから、少女は少しだけ目を伏せた。
「うまくいくんだったら海中に引き込もうとは、思ってたんだけど」
正直なその言葉に、心が動く。
「そう。……だったら」
海人の少女を見つめながら、禎理は思いついたことを頭の中で訊いてみた。
「これを歌うと、嵐は止まる?」
禎理のこの問いに、少女は禎理をまじまじと見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「だったら……」
少女の答えに、ほっとする。
自分を助けてくれたダインとエルグ、そして心底困っているこの少女が助かるのなら。禎理は優しく少女の身体を引き離し、その柔らかい髪を撫でてから、殊更ゆっくりと石碑にその小さな手を置いた。
「ちょ、ちょっと!」
戸惑う少女の声は、溢れ出す『歌』に掻き消される。
息を繋ぐ真珠が口から零れ、その代わりに塩辛い海水が禎理の口腔を満たした。
初めに感じた息苦しさは、しかしすぐに感じなくなる。
石碑一面に刻まれた歌を、禎理は石碑の表面に指を走らせて賢明に歌った。いや、これは『歌』とはいえないだろう。『声』が発せられているわけではないのだから。それでも、海人の『歌』は、禎理の身体全体から発せられ、海の中を確実に伝わって行く。
震える水の感覚を、禎理は確かに感じて、いた。
唐突に、『文字』が身体に入って来なくなる。
終わったのだ。そう思うと同時に、一瞬にして禎理の身体から力が抜けた。
崩れ落ちる身体が最後に感じたのは、海人の少女の華奢な腕が触れる感覚。
「やだ、そんな……!」
泣き声が微かに、禎理の耳を打つ。
「あなたみたいにいい人を殺す資格なんて、私達にはない、のに」
自分は、大丈夫だから。その言葉は、発せられる前に水の中に消えていく。
闇の中、海人達の声だけが、遥か遠くに聞こえた。




