時には逃げるのもアリ
前方を、注意していなかった訳ではない。
しかし、気が付いた時には既に、禎理の左腕は大男の剣の柄に軽く触れてしまって、いた。
「おい、お前!」
次の瞬間、毛むくじゃらの手が禎理の襟を捕らえる。
「俺の剣に触ったな!」
目の前に、不細工な赤ら顔が大写しになった。
生臭い男の息から察するに、どうやら昼日中からかなり酔っているらしい。大体、禎理の手が男の剣に触れたのも、禎理が道端に積もったままの雪を避けようとした所に千鳥足の男が近づいて来ただけ、なのだが。
襟をきつく掴まれ、息が苦しい。身体中を乱暴に揺すられて、爪先立ちの足も悲鳴を上げかけている。それでもとにかく、キイロダルマウサギ族の魔物模糊と、蛇型の『土地神』六華だけは何としても守り抜かなければ。右手で男の手首を掴み、振り解こうともがきながらも、禎理の左手は無意識のうちに、腰のベルトに引っ掛けてある、二匹の魔物が入ったポーチへと向かった。
だが、その動作が、男の注意を引く。どうやら、同じくベルトに差して背中に回してある手斧と短剣を取ろうとしているように見えたのであろう。投げ捨てるように禎理を放すと、尻餅をついた禎理の目前で腰の刀に手を掛けた。
酔っているとは思えない澱みのない動作で、剣が鞘から抜ける。剣の切っ先が、冬の光を反射してきらりと光った。
しかし。こんな奴にやられっぱなしの禎理ではない。尻餅をついた状態から腕の力だけでぴょんと立ち上がると、刃の切っ先が鼻先に来る前に間合いより遠くに後ろ飛びし、くるりと向きを変えるなり一目散に男の前から脱げ出した。
「……あ、おいっ!」
禎理の行動に戸惑い、男の行動が一拍遅れる。
その間に、禎理は家の間の細い隙間に入り込み、ちょうど放置されていたゴミ箱の陰に身を潜めた。
いつも袖口に隠し持っている、鉄片を叩き伸ばして作ったお手製の手裏剣を手の中に構えてから、ゴミ箱から少しだけ頭を出し、先ほどまで居た通りを覗いてみる。
禎理を見失って興味を失ったのか、通りに立ったままの男はゆっくりと剣を鞘に収め、また千鳥足で通りを歩き始めた。
男が視界から消えると同時に、ほっと肩の力を抜く。
左手でポーチをまさぐると、模糊がぽんと飛び出して来、心配そうな顔で禎理を見上げた。
「大丈夫だよ、模糊」
そんな模糊をポーチに押し戻しながら、深く溜息をつく。
〈この町に泊まるのは、無理だな〉
寒い雪中での野宿が続いたので、街道沿いのこの町の門が開いていた時にはほっとしたのだが、あんな厄介者がいるとなると、ここに留まるのは愚策であろう。向こうが禎理の事を覚えていないとは限らないのだ。
〈……仕方ない〉
少しだけ肩を竦めると、禎理は模糊をポーチに優しく戻し、六華が模糊にじゃれつくのを確かめてから、用心しいしい雪の積もる通りへと戻った。
食料が心もとないので、大通りをぐるりと見回し、見つけたパン屋へと向かう。
ちょうど焼きたてらしい香ばしい匂いに、禎理の腹がぐうと鳴った。
悪食のダルマウサギが暴れているポーチを左手で押さえつつ、買い物をしている女たちの間に割って入り、店の前に設えられた棚の上から日持ちのしそうなパンを選ぶ。
冒険者宿の主人六徳がくれた餞別がまだ残っているので、今日は大きめのパンを買おうかな。と、禎理が思った、まさにその時。
湿った道に響く重たい足音に、悪寒が走る。
振り向く間もなく大急ぎで、禎理は周りの女達のスカートの陰に隠れた。こういうときに、小柄な身体は便利だ。
スカートの陰からパンが置かれた台の陰に移動し、通りを窺う。思った通り、先ほど禎理に絡んできた男が、ちょうどパン屋の前を通り過ぎるところだった。しかも、男の後ろには、同じような大柄で毛むくじゃらの男が四人もいるではないか。隠れておいて良かった。禎理はほっと溜息をついた。五対一の直接対決では、禎理に勝ち目は無い。
「……何やってんだい」
不意に声を掛けられ、ゆっくりと上を向く。
パン屋の女将の丸顔が、きょとんとした表情で禎理を見下ろして、いた。
「え、と」
さっきあの男に絡まれて、と、小さい声で話す。
「またぁ!」
忽ち、女将は呆れた表情になった。
「本当に、あの疫病神どもが」
弱そうな者には片端から喧嘩を売るんだから。心底侮蔑した声で女将が言う。
「全く、あいつらが来てから厄介ごとばっかだよ」
店に居た他の女達も、一様に眉を顰めている。
「昼間から酒をかっ喰らっては、あんなふうに大通りを闊歩するし」
「でも、諌めようとすれば、悉く半殺しの目にあっちまう」
「魔物を退治してくれたとはいえ、これではねぇ」
「魔物?」
確か、この辺りには人に害をなすような魔物は居なかった筈だ。と、すると……!
ある予感を感じつつ、禎理は女たちの話に割って入った。
「どんな魔物だったんですか? あの人達が倒したっていうのは」
その後の女達の話を総合すると。
十日ほど前、細く長い影が町の上空を通り過ぎ、西の山に落ちた。その後、あの五人組が現れ、山に落ちた魔物は自分たちが退治したと吹聴したというのだ。実際に町の人々が山へ向かった所、中腹に醜悪な魔物が倒れており、矢傷や刀傷が認められたことから、五人組の話を不審がっていた町の人々も彼らを信じざるを得なかったそうだ。
「……そう、なんですか」
予感が正しいかどうか、確かめなければならない。
禎理は女達に丁寧に礼を言うと、パンを買ってから早足で町を飛び出した。
目指すは、西の山。
目で見つける前に、生臭い匂いですぐにそれと分かる。
女達の話通り、魔物の屍は、確かに、山の中腹に長々と横たわって、いた。
「……やっぱり」
がっくりと、肩を落とす。
腐敗して、多少姿形は崩れているが、微かに煌く鱗と、目の後ろに生えた翼は、間違いなく六華と同じものだ。と、すると。これは間違いなく六華の親。所属地を追われた『土地神』、だ。かつては栄光と尊敬に包まれていたであろう魔物の、無残な姿に、禎理は思わず目を瞑り天を仰いだ。
しかしながら。幾ら所属地を追われ、弱っているとはいえ、神は神だ。腕は良いがすぐに増長する男達に、そう簡単にやられるものなのだろうか? そう、首を傾げながら、禎理は仔細に屍を観察した。
見ているうちに、妙な事に気付く。身体に付いている傷の多くが、治りかけの古い傷なのだ。しかも矢傷が多い。
刺さったままの矢を抜き、これも仔細に眺める。
〈……これは!〉
確かめるように、もう二、三本抜いて比較する。矢に使われている矢羽は全て、大陸西側にしか居ない鳥の羽で作られていた。
禎理が暮らしていた天楚市は大陸東部の交易都市であり、所属している冒険者宿『三叉亭』は冒険者の間では有名な場所だから、はるばる西方から来た冒険者の話を聞くことができる。だから、矢羽を見ただけで、禎理にはすぐにこれが大陸西方で作られたものだと分かる。
と、すると。答えは二つ。あいつらが西の人間なのか、それとも矢傷は西でついたものか。
しかし、矢傷が治りかけである事を合わせて考えると、結論は一つしかでてこない。あの男達は、弱りきった身体を休めようとこの山に降りた蛇神を叩いたに過ぎない。
辿り着いた結論に、禎理は形の良い唇を噛み締めた。
自分の親だと分かったのか、ポーチから出てきた六華が屍の周りを飛び回り、切り裂くような声を上げる。
哀しげなその声を聞きながら、ふつふつと湧きあがる怒りを、禎理はしっかりと感じて、いた。
その夜は、風上に見つけた茂みの間に潜りこんで眠った。
春はまだ遠く、刺すような風は冷たかったが、大きめのマントにくるまり、模糊と六華を抱いているとかなり温かく過ごすことができる。
腕の中に居る、模糊のふわふわとした黄色い毛と、六華のつやつやした鱗を優しく撫でてから目を閉じる。
だが。
しばらくして見えた光景に、驚愕する。
禎理の真下に、炎が見えたのだ。
〈なっ……!〉
混乱しつつ辺りを良く見回すと、自分が炎の上を、くねくねと身体を動かしながら舞っているのが分かる。
これは……夢だ。あの土地神の、在りし日の。
禎理はゆっくりとその顔を下に向けた。
炎の周りには、黒っぽい板状の石が十一枚立っている。その外側には円形に水路が穿たれ、更に外側の、森との隙間にできた空間では、たくさんの男女がくるくると踊っていた。
人々が腰にぐるりと巻きつけた色とりどりの布が、炎の光を反射してキラキラと輝く。その衣装と、金色の髪から覗く尖った耳とで、禎理にはそれが何かすぐに分かった。
……森人、だ。
禎理たち『陸人』とは違う人種である『森人』は、十一神派を奉じ、大陸北側の森で閉鎖的な暮らしを送っている。六華の親であるあの魔物は、森人の暮らす森の土地神、だったのだ。
そのことに気が付いた禎理の目の前で、不意に景色が変わる。真っ暗な空間から響いてきた弓弦の音に、禎理はとっさに身を反らせた。
だが。次々と飛んでくる矢を全て避けきれるわけがない。忽ちのうちに滑らかな身体は傷つき、痛みが全身を駆け巡った。
のたうちながら、下を向く。簡単な鎧を着けた、冒険者らしい一団の薄笑いが、薄暗い中でもはっきりと見えた。
あんな奴ら、炎の一息で簡単に倒すことができる。しかし、炎が森に燃え移ったら、どうなる?そう感じた次の瞬間、痛む身体を捩じらせて上を向く。
今は、ここを去るしかない。
だが、容赦なく飛んでくる矢は驟雨のように、弱った身体に突き刺さる。
形容しがたい痛みに、禎理は思わず叫んだ……!
叫び声で目が醒める。
自分の声? ……いや、違う。また聞こえた。
大急ぎで起き上がり、薄明の霧の中を見回す。……下のほうから、だ。
茂みをかき分けて、あっとなる。あれは、街で暴れていた件の『冒険者』達ではないか! 五人のむさ苦しい男達が、一人の女性を囲むようにして、屍の周りに立っているのが、禎理の位置からでもしっかり確認できた。
「……ほら、これが証拠だ」
五人のうちの一人が、屍の方を顎で示す。
「本当に俺達がやったんだぜ」
「嘘よ。あんたたち本当は何もしてないんでしょう」
ニヤニヤ顔の男達を、女性の甲高い声が一蹴する。
「弱った所に偶々来合わせたってヤツじゃないの? みんな言ってるわ」
「なにっ!」
一人の男の手が、女の服を掴む。
その時には既に、禎理の両手にはお手製の手裏剣が握られていた。
持っているだけ全ての手裏剣を、物陰から投げる。その飛来物に男たちが戸惑っている間に素早く男達の背後に回り、剣は使いたくなかったので近くで拾った太い枝切れで彼らの後頭部を次々に殴った。
我に帰った大男の一人が、大慌てで刀を禎理に向ける。だがしかし、素早さでは禎理のほうが上だ。忽ちにして、男達は五人が五人とも、気絶して地べたに不様に転がった。
多少卑怯な手段を使ったような気もしないでもないが、大男五人にこっちは一人だ。妥当な手段だろう。
「……君の言うとおり、こいつらは卑怯者だよ」
突然現れた禎理を戸惑いと不審の表情で見つめる女性に、屍から抜いた矢を渡す。
「町で一番の博学者に見せて」
東にはいない種類の鳥の羽根で作られた矢羽が付いているのだから、この矢がこの地方では絶対に作ることのできない物であることは、少し知識のある人ならすぐに分かる。
あとは、町の人たちが何とかするだろう。
「さてと」
矢を抱えた女性が走り去るのを確かめてから、気を失っている男達を適当な蔓草を使って身動きできないように縛り上げる。
あとは。
「……では、自分も、逃げますか」
これ以上、厄介ごとに巻き込まれる訳にはいかない。
自分の『使命』は、六華を無事に『森人の土地』まで連れて行くこと、なのだから。
斃れた魔物に背を向けたまま、首を垂れる。
次の瞬間、禎理の姿は風のように消え去って、いた。




