BLOODYCHERRY
昔、昔、神話の昔
まだ世界が生まれて間もない頃の事
「風神様、風神様
おなかがすいていませんか」
地上界をふらふらと彷徨っていた風神に
そう声を掛けてきたものがいた
風神が声のした方を見ると
そこに有ったのは一本の木
背が低く、くしゃくしゃのよれよれで
幹も葉っぱも棘だらけの木
ちょうど小腹を空かせていた風神は
首を傾げてその木に問うた
「君は実のなる木ではないようだが
何も無いのにどうやって腹を満たせと?」
木がそれに答えて曰く
「確かに。でも私はまだ成長途中
貴方の血を少し分けてくれさえすれば
果汁滴る甘い実をこの身いっぱいにつけてみせましょう」
その木の思惑は風神を
騙して自らの力を蓄える事
それを知ってか知らずか風神は
いきなりその右手を木の棘に突き刺した
風神の血は棘から木の中に入り
木全体を潤していく
一晩経って仰ぎ見ると
枝という枝に果実がたわわに実っていた
それを見た風神はにこっと笑い
棘から手を抜き枝に飛び上がった
その果実は血のように赫く
天上の美酒のように甘かった
その果実を口いっぱい頬張った後
思惑が外れて戸惑う木に風神は言った
「これから、私が与えた力が切れるまで
毎年この時期にこの実をつけよ」と
その人だかりを最初に見つけたのは禎理だった。
天楚市の北方、直和地方を歩いていたときのことである。
針葉樹林が高くそびえ立つ森。そこにある細い道から少し外れた木々の間に人の背中らしきものが見えたのだ。しかもその数は二、三人ではない。十人、いやそれ以上いるようだ。こんな森の中にそんなに人がいるとは珍しい。
「何かあったのかな?」
禎理は傍らを歩いていた垂耳の体格の良い黒犬に声をかけた。
「さあな」
禎理の問いかけに、黒犬――実は九七一という名の人型をとることができる魔犬である――は首を横に振って答えた。
「でも、気になるな」
よく耳を澄ましてみると、風が木の葉を揺らすさやさやという音に混じって笛や太鼓の音らしきものも聞こえてくる。こんなところでこんな音が聞こえるとは、何か祭のようなものでもやっているのだろうか? 考えれば考えるほど好奇心が高まっていく。
笛の音につられてか、禎理の上着のポケットで惰眠をむさぼっていた小さい魔物、キイロダルマウサギの模糊も何事かと顔を出してきた。その模糊を再びポケットにしっかりと押し込みながら、禎理の足はいつの間にか人込みの方へ駆け出しはじめていた。
そんな禎理を見て溜息を一つついてから九七一も後に続く。
近づいてみると、人だかりは思っていた以上に大きかった。
この近辺の村人と思われる服装をした人々が、森の中にぽっかりと出来た空き地にびっしりと立っている。その群衆の真ん中に、あまり大きくない、少し捩れた木があって、その根元で何か儀式のようなものをやっているようなのだが、禎理と九七一が何をやっているのか見ようと背伸びをしたり、人々の足の隙間から覗こうとしたりしても全く何も見えない。
「……うーん、だめかぁ」
しゃがみすぎて強かに鼻を地面にぶつけてしまった禎理は、とうとう諦めて溜息をついた。その横で九七一が同じように溜息をついている。
人垣は魔物である九七一が人型になれば見えないこともないくらいの高さだから、何とか頑張れば九七一には見えるかもしれない。だが、幾ら何でもこんなに人がいる前で変化の技などは当たり前だが見せるわけにはいかない。
「……よし」
見るのは諦めたが、何をやっているのかは知りたい禎理はついと立ち上がると、側に居た優しそうな老人に声をかけた。
「……あの、ここで何をやっているのですか」
声をかけられた老人はゆっくりと振り向くと、禎理を見てにこっと笑顔を見せた。どうやら害意はなさそうだ。
「おやあ、旅の人かい? 今、明日の『儀式』の前祭をしているところじゃよ」
その老人は禎理の質問に嫌がる様子を見せずにそう答えると、空き地の真ん中にある木を指差して言った。
「あの木は、『BLOODYCHERRY』の母木でな」
「ブラッディチェリー!」
老人の言葉に禎理は心の中で「わおっ」と叫んだ。
『ブラッディチェリー』とは、この地方特産のさくらんぼの一種で、初夏の頃に天楚市の市場でよく見かける果物である。外見が血のように赫い為か気味悪がる人もいるが、普通のさくらんぼより一回り大きいうえに、一つ口に入れるとその甘い香りと果汁が口いっぱいに広がり、とても美味しい果物である。もちろん、上流階級に人気がある上、その美味しさに比例して価格が高い為、禎理が口に入れる機会はめったになかったが。
「実は、ここ最近あの木に実が全くつかんのじゃ」
老人の話によると、ここ二、三年、天候はそんなに悪くはないのに母木に実がつかないという事態が起こっているそうだ。しかも、それに呼応するかのように他の木でも実のつきが悪くなっている。そこで、近隣の村人が相談した結果、母木に『生贄』を捧げ、実の復活を祈ろうということになったらしい。そして、今木の根元で踊っている少女が明日『生贄』として母木に捧げられるそうだ。
「生贄、ですか」
先ほどのうきうきした気持ちがたちまち沈む。
古い習慣を否定する気はないが、命を犠牲にして成り立つ『幸福』は悲しすぎる。
「……お、終わったみたいじゃな」
老人の言葉に、禎理はふと顔を上げた。
禎理の心が沈んでいる間に祭は終わってしまったらしい。いつの間にか笛や太鼓の音が止み、村人達が少しずつ帰りはじめている。
村人達の顔が一様に暗くみえるのは気のせいだろうか。
「旅の方、今夜は我が家に泊まらんか?」
帰り際に老人がそう言ってくれたのを禎理は丁重に断った。
『魔物』である九七一や模糊のこともあったが、何より、あの木の側に行ってみたいと痛烈に思ったからだった。
何故そんな気持ちになったのかは分からない。『生贄』の事が心に引っ掛かっていたからかもしれない。それとも、禎理にも分からないもっと他の理由が、この時の禎理の心にあったのだろうか?
村人が全くいなくなってから、禎理はその木の下に立った。
注連縄を張られたその木は少し曲がっており、幹も枝も棘だらけだったが、それでも、辺りに荘厳な雰囲気を漂わせていた。
「……ふーん、これが『母木』ねぇ」
しかし九七一の方はそんな神聖さなど欠片も感じていないらしい。無造作に近寄ると幹をぽんぽんと叩いて言った。
「大昔、風神様に騙されて実をつけるようになった木、だったっけ、これ」
九七一の言うところによると、この母木は、神話時代に『風神』の血を受けたことにより、あんなに赫く美味しい実をつけるようになったらしい。
「とすると、普通の人間の血なんか捧げたって実がなるわけないよなぁ。……風神様の血ならともかく」
ぼそっと漏れた九七一のこの言葉に、禎理ははっとして母木を見上げた。
〈もしかしたら……!〉
出来るかもしれない。『担い手』の素質を持ち、自分と同等の『力』をその血の中に持っていると風神自身から言われたことのある禎理ならば……!
禎理はベルトに留めていたナイフを無造作に抜くと、左の袖をぐいっとめくり、あらわになった腕を勢いよく切り裂いた。
左腕からたらたらと血が零れる。その血が母木の根にかかった。
「ちょ、ちょっと! 禎理!」
禎理が自分の左腕を切り裂いたのを見て驚いたのか、九七一が血相を変えて禎理に飛びついてくる。
「九七一、痛い!」
黒犬の短毛が傷口に入り、禎理は思わずうめいた。
「痛い、じゃない!」
九七一はさっと人型になると、禎理の左腕にぐるぐると布を巻いて止血した。
「何てことしてんだよ!」
責めるようなきつい眼で睨まれる。
「あ、あの、ちょっと、実験を……」
「実験?」
禎理の慌てたような言い訳に九七一は一瞬首を傾げた。が、すぐに理解して再びきつい眼に戻る。
「風神様の真似か? でも実験するだけなら他に方法が有るだろう」
わざわざ腕を切り裂かなくても良いだろうがと一喝する。
「ごめん……でも、ほら」
九七一に左腕を抑えられたままの禎理は上を見上げ、そしてにっと笑って上を指差した。母木の枝の一つに、小さいけれども赫い実が一つ実っているのが見えたのだ。
「うーん」
実った実を見た九七一は再びゆっくりと首を傾げた。
「でも、腕を切り裂くのは……」
風神様だってゆっくりと一晩かけてその血を母木全体に行き渡らせたんだぜ、と九七一は半ば呆れたような声を出した。
「分かった」
禎理は、今度はしばらく考えてからすっくと立ち上がった。
慎重に右手の親指の付け根にナイフを滑らせる。そして盛り上がってきた血を、母木の幹の樹皮が取れている隙間にしっかりと押し付けた。
どのくらいそうしていただろうか。
とくん、とくん。
禎理の心臓がゆっくりと波打つ。その音と呼応するように、母木が禎理の血を少しずつゆっくりとその身に吸い込んでいくのが分かった。
耳を幹にそっと押し付けてみる。木の中を水や養分が流れていく音が聞こえ、不思議に安らいだ気分になっていく。
そしてそのまま、禎理は暖かい闇の中へと落ちていった。
そして一晩が経ち。
「……理、禎理」
九七一の興奮気味の声に禎理は物憂げに瞼を上げた。
「上を見てみろよ!」
言われるままに上を見上げる。
「……うわあっ!」
ぼうっとした禎理の瞳に映ったのは、たわわに実った真っ赤なブラッディチェリー。朝露に包まれたその実は、太陽の光を受けて宝石のようにきらきらと輝いていた。
「いただきっ!」
人型になった九七一が幹に飛びつく。たちまち枝の一つに達し、その枝についていた実を口いっぱい頬張りだした。ポケットの中で寝ていた模糊もそれに続く。
「わっ! ちょっと!」
禎理も負けじと木に登ろうとした。だが、一晩中母木に血をあげていた所為か血が足りず、その場にへなへなと座り込んでしまう。
その間にも九七一と模糊は美味しそうに実を頬張っている。
「それ、俺の血だぞ……!」
根元に座り込んだ禎理はそう叫ぶのがやっとだった。
伝え聞くところによると、このブラッディチェリーの母木は、この後約五百年もの間毎年欠かさず赫い実をたわわにつけ続けたという。




