冒険者宿三叉亭
腰のベルトに付けていた革製のポーチが、急にもぞもぞと動き出す。
いけない。そう思ってポーチを押さえるほんの一瞬前に、その袋の中で惰眠を貪っていた筈の禎理の相棒、キイロダルマウサギの模糊はポンと石畳の上に降り立って、いた。
「あ、こらっ!」
禎理がそう叫ぶより早く、すぐ横の建物の、観音開きの扉に飛び込む模糊。その小さな生き物の後を、禎理は大慌てで追いかけた。
悪食で有名な魔物であるダルマウサギ族のことだから、微かな食べ物の匂いに惹かれたのだろう。慌てる頭の隅でそう、予想する。禎理のその予想は、不幸にも当たった。
しかも、最悪な形で。
「うわっ!」
建物内に入った瞬間、何か少し柔らかめのものにぶつかり、尻餅をつく。
明るい外から暗い室内に入った為に一瞬前が見えなくなった禎理を襲ったのは、罵声と『温かい液体』だった。
「何だ、こいつは!」
何が起こったのか分からず、呆然とする禎理の頭上から、再びの罵声が響く。
やっと暗さに慣れた瞳で見上げると、尻餅をついた禎理の遙か上の方に、真っ赤になった髭もじゃの顔が有った。どうやら先程ぶつかったのは、この男だったらしい。
禎理が謝るより早く、男は店の――禎理の予想通り、模糊が飛び込んだこの店は食堂か料理屋であるらしかった――カウンターに向かって毒づいた。
「けっ、命拾いしたな、親父」
そしてそのまま、男は勢いよく扉を開け、店を出て行った。
「二度と来るな!」
その背に向かって、カウンターから強い罵声が上がる。
「おまえにやる仕事なんて無い!」
「けっ!」
その声が聞こえたのか、男は店の外で再び毒づいた。
「依頼自体がそんなに無いくせに!」
何が何だか分からない。
禎理は呆然と、出て行った男とカウンターの男――あまり大柄ではないが、さりとて小柄でもない――の応酬を聞いていた。
先程被った『熱い液体』が、禎理の顔から服にぽたぽたと落ちてくる。熱さはそれほどでもなかったが、先程から模糊がぺろぺろと禎理の顔を舐め回しているのが何となくこそばゆい。お腹が鳴りそうな良い匂いが、禎理の鼻腔をくすぐる。どうやら、自分が被った液体はスープかシチューの類らしい。そんなことを思った、丁度その時。
「大丈夫か?」
「あ、はあ……」
複数の人間から声をかけられ、再び顔を上げる。
禎理の視界に入ったのは、板金鎧を身につけた頑丈そうな男と、つり上がった目をした素早い身のこなしの男、そしてフードを被った男女の判別のつかない人物。
この、組み合わせ、は……。少し考えて、答えはすぐに出た。冒険者、だ。と、すると、ここは『冒険者宿』なのか? そこまで考えて、禎理は再び首を傾げた。
禎理が今いるこの場所は、天楚市の歓楽街、一柳町。禎理の同族である『流浪の民』が差配する、禎理にとっては『落ち着く』町である。しかし、そんな禎理でも、ここに冒険者宿があることは耳にしたことすらない。しかも、こんなに美味しそうなシチューを出す冒険者宿、なんて。天楚市はこの国の王都でもあり、冒険の拠点にもなっている。冒険以外の細かい仕事――掃除、荷運びなどの力仕事や、護衛や夜警などといった武術が必要な仕事など――に対する求人も多く有る為、冒険者宿自体は市内に多いのだが。
「大丈夫か?」
そんなことを考えていた禎理の頭上から、出て行った男を罵ったのと同じ声が下りてくる。
その声と同時に、大きめのタオルが禎理の頭上に降ってきた。
「そのままじゃ、外に出られんだろう。裏に井戸があるから、使うといい」
そして軽々と禎理を立たせると、カウンターの中に入るよう禎理を促した。
どうやらこの男が、この店の主人らしい。彼の好意に甘えることにした禎理は、模糊をその両手で優しく包み込み、主人の後からカウンターの奥にある部屋へと入っていった。
店の奥にあったのは、色々な食材や鍋釜が所狭しと置いてある小さな台所。不釣り合いに大きな竈にかけられた大きな鍋からは、先程嗅いだのと同じ良い匂いが漂ってきていた。
案の定、禎理の手の中で模糊が暴れ出す。模糊の気持ちは分からないでもないが、ここで放すと確実に主人に迷惑が掛かる。だから禎理は、ことさらしっかりと模糊を抱き締めた。
その台所にいたのは、頭が天井につっかえそうなくらい背の高い、ひょろっとした男。
「リュー。店番を頼む」
店の主人が、その男にそう、声をかけた。
頷いて表に出て行く男に軽く会釈をしてから、再び模糊を抱え直す。
これだけの食材があるということは、やはりここは『冒険者宿』ではなく『食堂』なのだろう。そう思いながら、禎理は主人が開けてくれた勝手口から店の裏へと出た。
店の裏には、天楚市中に張り巡らされている運河の、小さな流れが見える。その運河の、船着き場の横にある小さな井戸に、主人は禎理を案内した。
「ここだ。好きに使うといい」
そう言って、主人は勝手口から店の中へと去っていく。その勝手口がきちんと閉まったことを確認してから、禎理は模糊を腕から放し、肩にかけていた鞄を下ろしてから上着を脱いだ。
幸いなことに、濡れたのは頭と顔と上着だけだ。下着は濡れていない。そのことにほっとしつつ、禎理は下着を脱ぎ、井戸から汲んだ水で頭と顔を洗った。
幾許もしないうちに、店の主人が勝手口から顔を出す。その手には、新しいタオルと、薄手の上着らしきものが乗っていた。
「ちと大きいが、無いよりマシだろう」
タオルを禎理に被せてから、その上着を広げて禎理に見せる。
確かに小柄な禎理には大き過ぎるが、今は春先でまだ寒い。ありがたく借りることにした。
「あの、ありがとうございます」
借りたタオルで灰茶色の髪を拭きながら、頭を下げる。
「いいって」
禎理の感謝の言葉に、主人は手を軽く振った。
「お前さんがいなかったら、今頃髪を洗っていたのは私だからな」
その鷹揚な態度に、好感を持つ。
少し失礼かなと思いつつも、禎理は先程からの疑問を口にした。
「あの、主人。……この店は『冒険者宿』なのですか?」
「六徳、だ。徳さん、で良いぞ」
そう名乗ってから、主人六徳は屈託無く禎理の質問に答えてくれた。
「ああ、市の許可は『冒険者宿』で取っている」
この冒険者宿の正式名称は『三叉亭』。つい最近オープンしたばかりだという。
「でも、何故そんなことを聞く?」
今度は逆に、六徳から質問を受ける。
「あ、シチューも、美味しそうですし、場所も『歓楽街』ですし、どうして『食堂』じゃないのかな、って」
その問いに、禎理は表面的に答えた。
本当は、『理由』は別の所にあるのだが。
答えながら、タオルの隙間から六徳を見つめる。六徳は、禎理の答えに拘泥していないよう、だった。
「料理も好きだが、冒険譚も好きだからな」
すらすらと、六徳の口から言葉が紡がれる。その口調と理由は、禎理の好奇心を納得させるのに十分だった。
「場所はたまたまだ。だが、今では気に入っている」
「何故ですか?」
「人の多いところだと、秘密の依頼者も人混みに紛れて頼みに来やすい」
六徳の言葉に、心の中ではたと手を打つ。確かに、木を隠すなら森の中、だ。ここに冒険者宿があることで、依頼人が来やすくなり、ひいては冒険者宿自体が繁盛する。それによってまた顧客が増えることによって、一柳町自体もますます発展するだろう。それは、この町には散々世話になっている禎理にとっても喜ばしいことだった。
「終わったか?」
そんなことを考えていた禎理の横で、六徳の声が響く。
「あ、はい」
もう、頭も顔も乾いている。禎理は大急ぎで下着を着、六徳の手から上着を受け取った。
その時。
「冒険者に、なりたいのか?」
「え……」
六徳の不意の質問に、喉が詰まる。
だが次の瞬間、禎理はこくんと頷いた。
「そうか」
それだけ言うと、六徳は勝手口から店の中へと姿を消した。
後に残ったのは、呆然とする禎理のみ。
「……びっくりした」
思わずそう、口にする。
冒険者を志望していることは、禎理と模糊だけの秘密だった。昔お世話になった一柳町の人々にも、現在内弟子としてお世話になっている武術道場『無限流』の師範にも言っていないのだ。それを何故、あの人は指摘できた?
いや。そこまで考えて、禎理は首を横に振った。おそらく、ここが冒険者宿かどうかを尋ねたから、そこから類推したに違いない。
禎理が冒険者を志望する理由は、二つある。一つは、生来の気質。一生涯、大陸中を旅して回るのが定めの『流浪の民』出身である禎理にとって、『遠くを旅して、色々な物事を見聞きしたい』という感情は、自然のものだ。そして、第二の理由、は。
「珮理さん……」
そっと呟いたのは、ある女性の名。自分がその死の原因を作ってしまった、年上の気丈な人。
半年ほど前の自分には力が無く、彼女には守って貰ってばかりだった。そしていざというときに、禎理は彼女を守れなかった。
だから。
守りたい人をきちんと守れる、冒険者になりたい。それが、禎理の願い。
しかし、今の禎理にはまだ力が足りないし、天楚市では法により、十八にならないと冒険者宿に登録できないようになっている。
禎理はきゅっと唇を噛み締めた。
表の店に戻ると、三人の冒険者達と、リューと呼ばれていた男が仲良く談笑しているのが見えた。
カウンターでは、六徳が皿にソーセージを盛りつけている。
そんな六徳に会釈して、禎理はカウンターを出た。
そしてそのまま、店の表扉に手をかける。
と、その時。
「ああ、そう言えば、鞄は大丈夫だったのか?」
六徳の指摘に、はっとなる。鞄が濡れていないことはさっき確かめたが、中にまでシチューが染みていないことまでは確認していない。
禎理は慌ててとって返すと、カウンターの上に鞄を下ろして中身を出した。
鞄の中に入っているのは、布に包んだ軽い包み。武術道場の兄弟子達に頼まれて、一柳町の遊女達に手紙を持って行った、その返事の束、だ。
「それ、手紙か?」
「はい」
六徳の言葉に、こくんと頷く。
指摘の鋭さは、先程と同じだ。
冒険者宿の主人だから、物事の鑑識眼に優れているのだろう。禎理はそう、納得した。
幸いなことに、鞄は厚手の帆布でできており、中の手紙は全て無事だった。
「メッセンジャー・ボーイ、ってところか」
不意に、背後から声が掛かる。
振り向くと、リューと呼ばれていた男が禎理の方を見てにっと笑っていた。
「おおかた遊女達のつれない返事だろう、それ」
そう言って笑ってから、男はリューロートと、自分の名前を名乗った。
「漁師の息子だったんだけど、今はここの弟子をしている」
「仕事サボって喋っているヤツがそんなことを言っても、信用できるか」
リューロートの言葉に茶々を入れたのは、六徳だ。
その六徳が、盛り終わったソーセージを冒険者達のテーブルに運んでから、禎理の目の前にシチューの皿をでんと置いた。
「ほら、食ってけ」
「え、でも」
差し出された皿から漂う匂いが、禎理のお腹を鳴らす。
腰のポーチの中では模糊が暴れている。
だが。
「……お金、持ってませんし」
「いいって。今日の礼だ」
「でも……」
そう言われても、只でご馳走になるのは気が引ける。
禎理は大慌てで首を横に振った。
「だったら、出世払いだ」
そんな禎理の耳を、六徳の声が打つ。
「どうせ冒険者になるんだろ?」
その言葉に反応したのは、ソーセージをつまみにエールを呑んでいた三人の冒険者達だった。
「えっ、お前、冒険者志望?」
「でも、天楚市じゃ十八にならないと冒険者登録できないんじゃ」
次々と、禎理に向かって言葉が投げつけられる。
しかしその言葉は、奇妙な温かさに満ちていた。
その温かさに、ほっとする。
だが。
「えっと……」
言い淀みながら、シチューの皿を六徳の方に押し返す。
冒険者になりたいのは本当だが、『出世払い』は好きではない。世の中、一寸先は闇。未来がどうなるかなんて誰にも分からないのだ。
「ほう」
禎理の、辞退する理由を聞いた六徳の目が、細くなる。
「若者らしくない思考だな」
その言葉に、禎理はしゅんと肩を竦めた。それでも、この信念だけは変わらない。
「……それなら」
そんな禎理の目の前で、六徳が不意に手を叩いた。
「字は書けるんだな、おまえ」
「は、はい」
不意打ちの言葉に、思わずこくんと頷く。
「だったら」
動揺する禎理の目の前で、六徳は更に言葉を紡いだ。
「書類作成を手伝ってもらえるとありがたい。計算もできるんだろ?」
「え……?」
呆然とする頭の片隅で、小首を傾げる。
確かに自分は文字も書けるし、計算もできる。しかしそれを、六徳は何故知っているのだろうか? そんな禎理の思考には構わず、六徳は羊皮紙の束をカウンターの上にでんと置いた。
「リューも、この三人も、腕は立つんだがこういう仕事には向いてないんだ」
「悪うございましたね」
六徳の言葉に、冒険者達がざわめく。
その雰囲気に呑まれ、禎理はしばし疑問を忘れた。
それからも時々、一柳町に手紙を運ぶついでに、禎理は『三叉亭』に行き、六徳の書類作成の手伝いをしてから美味しいシチューをご馳走になった。
シチューは美味しいから、悪食のダルマウサギも喜んでいる。時々あの三人組から、異国での冒険譚も聞くことができる。それに、六徳のざっくばらんな性格も、禎理は好きだった。
だが。六徳については、不思議なことが多すぎる。それだけは確かに、感じていた。物事、特に人物に対する鑑識眼が、鋭すぎるのだ。
六徳は、初めて三叉亭に来た冒険者に、難しい仕事を任せることもあれば「お前には任せる仕事がない」とすぐに追い出すこともある。そしてその鑑定は、間違ったことがない。
何故、そんなことができるのだろうか? 何か『秘密』があるのだろうか?
禎理の疑問はますます募っていった。
そんな、ある午後のこと。
「リューロート!」
天楚の港で、リューロートの細長い影を見つけ、禎理は思わず声をかけた。
「あ、禎理。どうしたんだ」
気さくなリューロートの声が、禎理の耳に心地良く響く。
「師匠のお使いで干魚を配達してくれるよう頼んできたところ。リューは?」
「おれは六徳の手伝い」
大河四路川に面した天楚市は、河を使った交易が盛んに行われている。特に遠方からの珍しい食材は港から運河を使って広場まで運ばれ売買されることが多いが、六徳のように港で直接買い付ける料理人もいないことはない。
自分の仕事は終わっている。禎理は六徳を手伝おうとリューロートと共に港の端に腰を下ろした。
と、その時。
「……おっ」
二人の背後から、野太い声と共に拳が降ってくる。
その前に気配に気付いていた禎理は、リューロートを横に突き飛ばすなり反対に転がり避けて難を逃れた。
「あ、お前!」
ぴょんと起き上がる禎理の横で、同じく立ち上がったリューロートの素っ頓狂な声が響く。
「まだ天楚にいたのか」
誰? リューロートに向かって首を傾げてみせる。
目の前にいる大柄な男は、禎理には見覚えのない人物だった。
「お前にシチューをかけたヤツ」
禎理の横に並んだリューロートが、小声でそう教えてくれる。
そんな二人の前で、男は腕組みをしてから鼻で笑った。
「俺の実力を買ってくれる冒険者宿が見つかってね」
そして後ろを指し示す。
「今じゃ、ほら、仲間もいるぜ」
男の後ろには、男と同じ板金鎧に身を包んだ、いずれ劣らぬ大柄な男が二人立っていた。
「へん」
それに対抗してか、リューロートはことさら大きく鼻を鳴らした。
「いずれも似たような駄者だな」
「何だと!」
後ろの男の一人が、リューロートの言葉に反応して腰の剣に手をかける。
確かに、リューロートの言う通り、禎理から見ても、彼らは姿形は立派だが何かが足りないような気がする。さすが、『あの』六徳の弟子。禎理は妙なところで感心した。
そんな禎理には構わず、男はリューロートに向かって暴言を吐く。
「お前がこんな所でたむろしてるってことは、もう潰れたのか、あの店」
「繁盛してるよ、残念ながら」
しかしリューロートも負けてはいない。男に向かってべえっと舌まで出してみせた。
そのリューロートの行動が、男の怒りを爆発させたらしい。
「けっ、馬鹿にしやがって」
そう言うなり、男は後ろの二人の方を振り向き、禎理とリューロートを顎で指し示した。
「ちょいと手伝え。憂さ晴らしだ」
男も、後ろの二人も、剣を持っている。対して、リューロートも禎理も丸腰だ。
どうする? 禎理が躊躇するより早く。
「それで? 脅してるつもり?」
そう言うなり、リューロートはいきなり後ろの一人に飛びかかった。
不意打ちに、男の剣がよろめく。その次の瞬間、リューロートは鎧で守られていない男の顎に強烈なパンチを食らわせた。
「うっ……」
なすすべもなく、倒れる男。
「すっごい」
禎理の口から感嘆の言葉が飛び出した。
ならば。こちらも。禎理は身を屈めると、仲間がやられたことに呆然とする後ろのもう一人の男に向かって拾った石を投げつけた。
研鑽を積んだ石投げの術が、男の手から剣をはじき飛ばす。同時に、いつの間にかポーチから飛び出していた模糊の身体が、男の頭にヒットした。
「何っ!」
驚愕の声を聞きながら、体勢を崩したその男の懐に入り込み、足技で男の身体を倒す。
道場で教わった急所を強く押さえると、男はぐったりと動かなくなった。
「上手い、禎理」
最後に残った、件の男と対峙したリューロートが、禎理に向かって親指を立てる。
だが次の瞬間、男の剣がリューロートの肩を掠めた。
「うわっ!」
その攻撃を何とか避けるリューロート。だが、その瞬間リューロートに生じた隙を、男は確実に突いた。
男の太い腕が、リューロートの身体を打つ。次の瞬間、リューロートの身体は後方に飛んだ。その後ろにあるのは、河だ。
「リュー!」
禎理が叫ぶより早く、派手な水音が上がる。大慌てで、禎理は港の端から水面を覗いた。
そんな禎理の背に、衝撃が走る。油断した。そう思う前に、禎理の身体は水の中に落ちて、いた。
幸いなことに、禎理は泳げる。
すぐに禎理は水面から顔を出し、大きく息を吸った。
二人を河に落としたことに満足したのか、男の姿は見えない。禎理は内心ほっとして、リューロートの姿を捜した。
しかし。
……リューロートの姿が、無い。漁師の息子の筈だから、泳げないわけはないのに。嫌な予感が、する。禎理は大急ぎで息を大きく吸い込むと、再び水の中に潜った。
少し濁った水の中を見回す。……居た! あまり深くない底の方で、細い影がもがいている。禎理は大急ぎでリューロートの方へと泳いだ。
どうやらリューロートは河底に放置された沈没船の金具に引っ掛かっているらしい。必死にもがく姿から、リューロートの息があまり続きそうにないことを悟った。
早く、助けなければ。引っ掛かっている金具を外そうと、リューロートの側に寄る。だが、がむしゃらに暴れているリューロート自身が邪魔をして、中々近づくことができない。焦れば焦るほど、うまくいかない。しかも、暴れるリューロートの腕が禎理の胸を打ち、その拍子に禎理は息を吐いてしまった。
口の中に、多量の水が入ってくる。これまで、か……。意識が、急速に薄れていく。
と、その時。
鋭い光が、視界を掠める。大きな手が、禎理とリューロートの身体を掴んだのを、禎理ははっきりと、感じた。二人の身体がゆっくりと上へ引き寄せられている感覚、も。
何……? でも、助かった……。
途切れる意識の端に、六徳の顔が見えたような気がしたのは、気のせい、だろう、か……。
見慣れ始めた天井が、禎理の視界に入る。
「お、気がついたか」
首を動かすと、禎理の顔に身体をすりつけてくる模糊の姿越しに、六徳が明らかにほっとした顔でカウンター前の椅子に座っているのが見えた。
どうやら、三叉亭の床に寝かされているらしい。反対の方向に首を動かすと、肩に包帯を巻いたリューロートの元気な姿も、確かに見えた。
「全く、無茶するよ」
禎理と目を合わせたリューロートは、禎理に向かって肩を竦めてみせる。
「丁度徳さんが来てくれたから良かったものの」
だが、半ば投げやりな言葉とは裏腹に、リューロートの表情も明らかにほっとしていた。
「こら、まずお礼だろうが」
そんなリューロートを、六徳が諫める。
「はいはい」
リューロートは六徳に向かって肩を竦めると、起き上がった禎理の側に膝をついた。
「ありがとな、禎理」
「うん……」
禎理の、まだ動かない頭の中は、疑問で一杯だった。
自分達は、一体どうして助かったのだろうか? そして、あの、『手』、は?
「ああ、私だ」
その禎理の疑問を察知したかのように、六徳は禎理に向かって静かに笑って言った。
「私は『魔物』なのだよ、禎理」
それなら、分かる。禎理が助かった理由も、そして、人物の鑑定に優れている理由も。
大抵の魔物は、魔王が支配する『魔界』に住んでいるが、模糊の例があるように、地上に住む魔物は珍しくはない。……料理好きで冒険者宿を開くような魔物は珍しいが。
そして。
「お前さんのことも、御館様から聞いている」
思いがけない言葉が、降ってくる。
それと同時に思い出したは、珮理の、こと。
珮理は、六徳が『御館様』と呼ぶ、魔界の大王数の、妻だったのだ。
半年前に天楚市で起きた『吸血鬼騒動』。その騒動の原因である、魔界から逃げ出した『力ある石』を滅ぼす為に、禎理は珮理に力を貸し、そしてそのことが、珮理自身を滅ぼした。
ぽろぽろと、涙が零れる。
このことを思い出すといつも、涙が零れてしまうのだ。
「大丈夫か?」
驚いたリューロートの声と共に、六徳の居る方向から乾いたタオルが降ってくる。
六徳とリューロート、二人の気遣いが、今の禎理には嬉しかった。
そして。
「だが、私は、お前さんの行動を監視する気も、言動に干渉する気もない」
戸惑う禎理の頭上から、また思いがけない六徳の言葉が降ってくる。
いつの間にか、六徳は禎理の側に来ていた。
それで、良いのか? 禎理は内心小首を傾げた。
だが。
「……あの方と『同じ』性格なようだし」
最後の言葉に、禎理の身体は再び固まる。だがすぐに、心の引っかかりは消えた。
確かに、他人の為に何かしたいという衝動は、珮理と禎理が二人共通に持っているモノ。そして、その衝動は、誰にも止めることができない。
だから。
「ま、これからもひとつよろしく」
差し出された六徳の手を、禎理は強く握りかえした。