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模糊、風の魔法を使う

「……ううっ、痛ったぁ……」

 岩がごろごろ転がっている河原のほとりで、禎理ていりは仰向けのままそう、呻いた。

 今年最初の薬草を摘みに行こうと、天楚てんそ市の南に広がる春まだ浅い山々に分け入った禎理だったが、その帰途を山賊に襲われてしまった。一応応戦はしたものの多勢に無勢、命からがら逃げ回る途中で足を滑らせ、岩だらけの崖を滑り落ちてしまったのだ。

 幸い、崖の高さがそんなになく、打撲と擦り傷だけで命に別状はなかったし、崖から落ちた為か山賊達は禎理を見失ったらしく、落ちてから今まではどこからも攻撃の手は伸びてきてはいない。が、しかし、逃げる途中で斬りつけられた左腕から、今でも血がどくどくと流れ落ちているのを、禎理は危機感と共に感じていた。

 早く止血しないと命に関わる。しかし身体を動かそうにも打撲の痛みでどうしても身体が言うことを聞かない。そうこうしているうちに意識はどんどん薄れていき、命の危険がますます迫ってくる。

〈どう、すれば……〉

 うまく働かない頭を必死に動かしても、答えが出ない。

 禎理は半ば途方に暮れていた。


 頬にあたる湿った暖かい感覚に、禎理の意識は少しだけ聡明さを取り戻した。

「……模、糊?」

 苦労して瞳を動かすと、禎理の頬を盛んに舐めている模糊もこが見えた。

 ずっと禎理のポケットの中で惰眠をむさぼっていたのだが、どうやら何か食べ物が欲しくて起きだしてきたらしい。

 一度だけ禎理の頬に軽く噛みつくと、模糊は禎理の視界から姿を消した。

 そして程なく、禎理の左腕の方から、ぴちゃぴちゃと何かを舐める音が聞こえてくる。

「……ああ」

 おなかが空いた模糊が、左腕から流れ出る禎理の血を舐めているのだ。

〈模糊の栄養になるのなら、それでもいい、か……〉

 そう思いながら、禎理はゆっくりと目を閉じた。


 目を開けると、すでに明るくなった青い空が見えた。

「……あ」

 暖かく光を投げかける太陽の眩しさに二、三度目を瞬かせる。

 血が足りないせいか頭がくらくらし、身体中の痛みはまだ治まってはいないが、左腕の傷は血が止まっているし、そして何より、どうやらまだ生きているようだ。

 苦労して上半身をおこす。それを見て、口の周りを血で赤黒く染めた模糊が嬉しそうに禎理の膝に乗ってきた。

「模糊」

 禎理は模糊の口に付いた血を丁寧にぬぐってやった。


 幸いにも近くに落ちていた鞄から出した布で左腕の傷口を縛ってから、禎理はのろのろと立ち上がった。

 まだ少しふらふらするが、何事もなければ無事に天楚市まで帰れるだろう。

 足下を確かめるようにゆっくりと一歩を踏み出す。

 と。

 不意に、禎理の横合いから槍の穂先が迫ってきた。

「えっ!」

 鍛えられた反射神経が少しの差で槍を避ける。だが、禎理の身体は再び地面に逆戻りした。

「くっ」

 尻餅をついた格好の禎理に再び槍が突きつけられる。

 顔を上げると、昨日禎理をさんざん追いかけ回した山賊の一人が、胸がむかつくほどにやついた顔をして立っていた。

 その山賊をきっと睨みつける。しかし、睨んだだけではどうにもならないことは自明の理である。

 と、その時。不意に模糊が禎理の前に躍り出た。

「模糊っ!」

 槍を持った山賊に小さなダルマウサギが敵うはずがない。禎理は思わず右腕を伸ばし、模糊を掴もうとした。

 次の瞬間。模糊の体が急に大きくなった、ように感じた。

 と同時に、今まで受けたことのないような多量の風が禎理の全身を取り囲む。

 風が吹き上げる砂と石に、禎理の視界はたちまちにして閉ざされた。


 目を開けると、見知った顔が禎理を見下ろしていた。

「……え?」

 しかしその顔は、この時刻には天楚市内にある自分の店で開店の準備をしているはずだ。こんな山の中にいるはずがない。

「お、気がついたようだな」

 天楚市内にある冒険者宿『三叉さんさ亭』の亭主である六徳りっとくはそう言うと、禎理の額にその大きな手を当てた。

「気分は、どうだ」

「あ、あの」

 どうしてここに? そう問う前に、禎理の視界に次々と情報が入ってくる。

 この景色は見たことがある。『三叉亭』の中、だ。

「……どうして」

「それはこっちが聞きたい」

 禎理の問いに、六徳は渋面を作って言った。

「何せいきなり現れたんだからな」

 ますます頭が混乱してくる。

 禎理の横では、同じく模糊がきょとんとした目を六徳に向けていた。

 どうやらあの時、模糊が何だかの『力』を働かせ、その結果禎理は三叉亭まで空間転移してしまったのだ。それだけは分かった。しかしどんな『力』だったのか、そして何故模糊がそんな『力』を使うことが出来たのか。疑問ばかりが頭を駆けめぐる。

「まあ、とにかく、だ」

 六徳は禎理の左腕に目をやると、医者を呼んで来いと奥にいるコックのリューに怒鳴った。


「……多分それは、禎理の血を舐めたからじゃないのか?」

 「模糊が発した『力』は一体どこから来たのか?」という禎理の疑問に、魔界の黒犬九七一くないは少し考えてからそう答えた。

 『この世界』の『魔力』とは、この世界を流れる『魔力線』と術者の血の中にある『魔力要素』が共鳴して発生する『力』である。『担い手』の素質を持つ禎理の血の中には風に関する『魔力要素』が存在するはずなので、それを舐めた模糊にも『力』が少しだけ宿ったのではないか。これが九七一の推論である。

「ふうん……」

 九七一の推論に納得しながら禎理は模糊の方を見た。

 話の主役である模糊は、今日も相変わらず日向で惰眠をむさぼっていた。


 その後、模糊が『力』を使うことは全く無かった。

 しかし禎理はずっと、模糊の底力をしっかりと認識して、いた。

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