剣は選ぶ
「……お前さんが、『禎理』か?」
人込みの中、背後からそう、声を掛けられる。
内心首を傾げつつ振り向くと、小柄な禎理より更に小柄な婦人が、小さな布包みを手に微笑を浮かべて、いた。
「やっと、会えましたな」
頭巾で顔を半分ほど隠しているが、声の調子から、彼女がかなりの老婆だと分かる。
「これで、役目が果せますわ」
唯一表情の窺える唇から紡がれたのは、不可解な言葉。そして、その言葉と共に、老婆は持っていた包みを禎理に押し付けた。
「えっと、これは……?」
押し付けられた布包みをまじまじと見つめてから、視線を再び婦人のほうへと移す。
だが。
「……え?」
信じられない面持ちで、二、三度瞬きする。包みに気を取られていた僅かの時間に、老婆の姿は禎理の前から綺麗さっぱり消え失せてしまって、いた。
一体、何だ……?
狐につままれたような面持ちで、禎理はその場に立ち尽くす他、なかった。
「……消えた? 老婆が?」
冒険者宿三叉亭に素っ頓狂な声が響く。
「ええ」
その声の発生源、茶人族の冒険者ヴァルガと並んで、禎理はカウンターに座っていた。
その目の前に置かれているのは、件の包み。
「大方、雑踏に紛れ込んだか、小路の方に入ったんじゃないのか?」
あくまで冷静な意見を述べるのは、この冒険者宿の主人六徳だ。二人が座っているカウンターの後ろで、この宿の名物であるシチュー用の皿を並べている。
「ん、まあ、多分」
禎理自身も、そう思う。しかし、六徳の意見に頷きながら、禎理の思考は別の所に飛んでいた。
「で、その包みの中身は何なんだ?」
「うん」
ヴァルガに促されるまま、包みを静かに解く。薄汚れた布の中から出てきたのは、簡素な鞘に包まれた短剣だった。
「……ほう、これはこれは」
自ら光を発しているような、磨き上げられた柄に、ヴァルガが目を細める。
次に出てきたのは、感嘆の言葉。
「見事な細工だ」
「うん」
美術や工芸関係に疎い禎理でも、見栄え良く、なおかつ持ち易いように細工された短剣の柄を見ただけで、この短剣が普通の細工ものではないことは理解できる。それを改めてヴァルガに指摘され、初めてこの短剣を見た時の疑問を心の中で繰り返した。
何故、あの老婆は、こんな立派なものを自分にくれたのだろうか?
「どれ、中は……」
禎理の思考には全く構わず、短剣を取り上げて鞘から抜こうとするヴァルガ。
だが。
「な、なんだ、これは?」
不意打ちにも似たヴァルガの素っ頓狂な声に、思考が中断される。大急ぎで横を向くと、顔を真っ赤にして短剣を持つ手に力を込めているヴァルガが見えた。
「え?」
茶人であるヴァルガの力は、普通の陸人である禎理より強い。それなのに、精一杯の力で引っ張っている筈の短剣は、鞘から全く離れていない。ここに来る前に中身を確かめた時には、確かに抜けた筈なのに。
戸惑いつつも、口をへの字に曲げるヴァルガから剣を受け取り、鞘に手をかけて左右に引く。さほど力を入れなくとも、剣は鞘からするりと抜け、冷たく鋭い刀身を曝け出した。
「こ、これ、は……!」
刀身を見たヴァルガの目が、突然丸くなる。
「まさか、ポリノミアル」
無骨なヴァルガの指が、刀身に触れる。
しかしヴァルガはすぐに指を引っ込めると、自嘲に似た笑いを漏らした。
「なるほどな」
その様子を腕組みをしたまま細い目で見ていた六徳が、ふっと笑ってぽつりと呟く。
「ポリノミアルの剣は持ち主を選ぶと聞く。道理で、ヴァルガには抜けないわけだ」
そして、ふと思い立ったように禎理の左手から鞘を取り上げ、じっくり眺めてから再びほうと感嘆の声を出した。
「しかし素晴らしいのは剣だけじゃないな。……鞘の方が、細工は良い」
「はいっ?」
その六徳の言葉に、ぽかんとして六徳の方を見る。
「なんだと?」
そんな禎理の横では、ヴァルガも同じように疑問の声を上げていた。
鞘の細工は、口と先の部分に被せられた滑らかな銀のみ。それ以外は、漆をたっぷりと使って作られた、革製のただの鞘にしか見えない。
「内側を見てみな」
六徳に促されるまま、鞘の内側を覗き込む。微かな光の中、細長い文字のような線が幾重にも重なっているのが、確かに、見えた。
「呪いの一種だ。どんな状況下にあっても、剣が持ち主の所に戻るように、という」
続いて鞘の内側を覗き込んだヴァルガに説明する六徳の声が、ずいぶん遠くに聞こえる。
こんな、もの凄く『良い』短剣を、自分にくれた老婆の真意は何なのだろうか? 疑問だけが、ぐるぐると脳裏を廻る。
しかし、『欲しい』という気持ちも、禎理の心の中には確かに、有った。冒険者になったばかりでお金が無く、ろくな武器が買えない。でも、この剣があれば、きっと、守りたいものを自分の力で守ることができるだろう。
「貰っといていいんじゃないか?」
不意に、六徳の声が耳に響き、禎理は狼狽した。
「で、でも……」
老婆の真意が分からない以上、貰うのはどこか後ろめたい気がする。罠が無いとも限らないのだ。
「じゃ、その『ご婦人』に確かめに行こうぜ」
逡巡する禎理の肩を、ヴァルガが力強く叩く。
「この鞘の細工をした奴に会ってみたいしな」
「え、はあ」
ヴァルガの言う通りかもしれない。とりあえず、もう一度あの老婆に会って、話を聞いてみよう。
六徳とヴァルガにこくんと頷くと、禎理はぽんと立ち上がった。
ヴァルガと共に、天楚の通りを歩く。
「細工なら、職人街だな」
前を歩くヴァルガが大声を張り上げる。
「そう、ですね」
それに釣られて、禎理の声も自然と大きくなった。
別に普通の声でも良いのだが、この雑踏では掻き消されるおそれがあるし、大声は茶人の特性の一つだ。
自分より背の低いヴァルガと歩くと、自分の背が高くなったような気がして不思議な面持ちになる。
つい先日冒険者になって、ヴァルガという『茶人族』と知り合ってから、禎理の茶人に対する知識はかなり修正されていた。これまでは、『茶色の髪をした、背の低い、がっしりとした人種で、金属細工に秀でている』という知識しかなかったのに、今では、茶人の生活上のくせから好きな食べ物まで頭の中に入っている。
こういった気さくで楽しい人々と知り合えるのも冒険者宿三叉亭の魅力の一つだ。六徳の人柄に惹かれて三叉亭で冒険者登録をした禎理だが、自分の選択は間違っていなかったと、今にして思う。大通りを北へと向かいながら、禎理はふと可笑しくなってふふっと笑った。
と。
「何笑ってんだ!」
いきなり、禎理の倍はあろうかという大男が、禎理とヴァルガの間に割って入る。
逃げようと一歩下がった禎理の顔を、男はじっと睨みつけると、次の瞬間には小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「お前、禎理だな。無限流の免許取りの」
心底蔑んだ調子の漂う男の声に、思わず睨み返す。
禎理のその行為が、男には侮辱されたように映ったらしい。腰に佩いた剛刀をすらりと抜き放つと、間髪を入れずそれを禎理に向かって振り下ろした。……だが、遅い!
少し錆の浮いた刀身を難なく避ける。次の瞬間には、禎理の足は男の腹にしっかりと入って、いた。
ゆっくりと、意識を失った男の身体が崩れ落ちる。
「禎理!」
そして、ヴァルガが声を上げたときには既に、禎理はヴァルガの五歩先を歩いていた。
「見事だな、毎度のことながら」
大慌ての面持ちで禎理に追いついたヴァルガの口から、賞賛の言葉が漏れる。その言葉に、禎理は首を横に振った。
喧嘩に勝って褒められるのは、余り嬉しいものではない。
それよりも。
「なんで、こう頻繁に喧嘩を売られるんでしょうね」
ヴァルガに、というより、自分に向かってぽつりと呟く。しかし、問わなくとも、その理由は分かりすぎるほど分かっていた。
小柄で女顔、しかも賎民の身分で、天楚でも指折りの武術道場『無限流』の免状持ち。「何であいつが……」と言われ続けていることは、天楚にいれば嫌でも耳に入ってくるので、痛いほどよく知っていた。
こんなことなら、免許皆伝は遠慮したほうがよかったかもしれない。心に浮かんだその思いを、禎理は慌てて首を横に振ることで辛うじて打ち消した。
……こんな自分に、他の弟子と分け隔てなく接してくれ、免許状までくれた師匠の想いを、踏み躙ってはいけない。
「さあな」
禎理の想いを知ってか知らずか、ヴァルガはいつも通りの声で肩を竦めた。
そして。
「……それよりも、なんで使わないんだ、剣?」
不意に、ヴァルガが禎理の肩掛け鞄を指差して指摘する。
「『免許取り』なら、使える筈だろ。何で鞄に入れっぱなしなんだ?」
「え……」
確かに、冒険者になったばかりで自分の『武器』と言える物を持っていない禎理にとって、今鞄の中に入っている、老婆から押し付けられた短剣は、得がたい『武器』の筈である。『無限流』道場で短刀術に秀でていた禎理には、なおさらだ。
だが。……この剣は、自分のものではない。
「大切な、預かり物ですから」
鞄を自分のほうに寄せてから、静かに、呟く。
ヴァルガは肩を竦めると、禎理を追い越してすたすたと歩き出した。
職人街は、天楚市の北西部にある。
ヴァルガの友人二、三人に、短剣を見せて聞き込みをすると、細工の主はすぐに分かった。
「……細工師と鞘師の夫婦か」
禎理が携帯用の筆記具でメモ書きした羊皮紙の地図を眺めつつ、ヴァルガがそう呟く。その声に、幾分感嘆が混じっているのは、禎理の聞き違いではない。
「しかも陸人族とは。天楚にはいい職人が揃っている」
金属の細工は茶人族の専売特許のように思われているところでの情報だから、ヴァルガが驚くのも無理はない。
「夫のほうは、先頃亡くなったそうだが。……なんとも惜しいことよ」
世界は、やはり広い。
そう思いながら、禎理はヴァルガの持っている地図を後ろから覗き込んだ。
「確か、ここを曲がる……」
地図の通りに通りを曲がると、狭い路地と、真ん中に井戸のある小さな広場が見える。
目的の家は、広場の向こう側にあった。
「……ああ、あのおばあさん」
井戸の前で洗濯していた婦人に老婆のことを尋ねると、返事はすぐに返ってきた。
「さっき買い物袋を抱えて家の中に入っていったから、今居る筈だよ」
婦人が指し示した扉の前に立ち、深呼吸をしてからノックする。
別に緊張しなくても良いのだが、何故か動作が硬くなってしまう。
だが。
居る筈と言われたのに、家の中からの反応が全くない。ノックの音が聞こえなかったのか。そう思い、更に強く扉を叩いてみても、結果は同じ。
「おかしいわね……」
様子を見ていた婦人の呟きが、禎理の耳を打つ。
まさか。……何か、あった?
次の瞬間、禎理の身体は扉に向かって精一杯の体当たりを繰り返して、いた。
「どうしたんだ、禎理!」
禎理の突然の行動に驚いたヴァルガが、駆け寄って大声を上げる。
「倒れてるかもしれない!」
そのヴァルガに、禎理は懸念の言葉を叩きつけた。
「何だと!」
それだけで、ヴァルガはすぐに察したようだ。
「どけ!」
そう言って禎理を扉から離れさせると、ヴァルガは助走をつけて扉に体当たりを、した。
その体当たり一発で、禎理が何度体当たりしても開かなかった扉が、酷い音を立てて開く。勢い余って家の中に転がり込んだヴァルガに続いて、禎理も薄暗い空間に飛び込んだ。
目が闇に慣れるまで、しばらく時間が掛かる。だが、やっと視界に入ってきた風景に、禎理はしばし呆然とした。
細工用の工房だったらしい表の部屋も、台所である裏の部屋も、見事なまでに散らかっている。箱という箱は全てひっくり返され、工具と屑金属と食料が床でごっちゃになっている。
そして、老婆の姿はどこにもない。
「えっ、……泥棒!」
戸口で立ち竦む婦人の声が、耳を打つ。
その言葉で、禎理ははっと我に帰った。
違う。これは……何かを探す時の荒らし方、だ。……でも、一体、何を?
「禎理、こっちを見てみろ」
台所の方から聞こえてくるヴァルガの声に、はっと我に帰る。
急いで声のした方へ向かうと、見事なまでに散らかった床の端に、地下の食料庫に続く大きめの穴が開いているのに気がついた。
「こっちだ、禎理」
ヴァルガの声は、その穴の中から聞こえてきている。
闇の深さを測ってから、禎理は傍に転がっていたランタンに小さな火を灯し、食料庫へと階段を降りて行った。
ここも酷く荒らされた床が、ランタンの小さな明かりでもはっきり見える。
「これを、見てくれ」
その床の真ん中に立ったヴァルガの、指差す方向を照らし、禎理はあっと息を飲み込んだ。
そこに、あったのは。
「……穴、ですか?」
床の端に、ぽっかりと穴が開いている。
ランタンを使って中を覗き込むと、少しだけ濡れた煉瓦が、はっきりと見えた。
「……これって?」
顔を上げて、ヴァルガに問う。
「古い水道か、地下道、だと思う」
答えは、すぐに返ってきた。
「しかし『埋もれた都』ほど古くない。おそらく、『大火』前のものだろうな」
そう言うと、ヴァルガは近くの可燃物に火打石で火をつけ、穴に投げ込んだ。
煉瓦の床に落ちた火は、ぱっと光って跳ね上がり、しばらくの間燃えていた。
その光で見た地下空間は、確かに、二千年以上前にこの場所に存在し、神の怒りに触れて埋められた『都』のものだとは思えないほど新しい。ヴァルガの言う通り、これは、二百年ほど前に起き、天楚を灰燼に帰した『天楚大火』頃のものだろう。
「しかも、空気が澄んでいる。おそらく、賊はここから侵入したんだろうな」
そして、何かを探し、老婆を攫った。
ヴァルガの意見を聞きながら、禎理は敵を見るような心持ちで、眼下の暗闇をじっと睨みつけた。
「『大火』以前なら、長老の所に地図があるかもしれない。……それを見れば、賊の見当はつくだろう」
ヴァルガの言葉に、禎理はこくんと頷いて穴から離れた。
外に出ると、眩しい太陽が禎理を出迎えた。
「うわっ」
禎理より先に外に出たヴァルガが、大声をあげる。
暗闇でもものが見えるという茶人の目は、眩しさも余計に感じるのだろうか。禎理がふとそう思った、まさにその時。
禎理の左頬ギリギリを、何か細いモノが通り過ぎる。
「ヴァルガ! 伏せろ!」
とっさにヴァルガを前に突き飛ばし、禎理は後ろに飛んで壊れた扉の陰に隠れた。
その間にも三発、細いモノが禎理の髪を掠める。
急激な光量の変化に慣れる為に瞬きをしてから、そっと外を窺う。だが、外には、ぶつぶつ言いながら起き上がるヴァルガと、遠巻きにヴァルガを見つめる近所の人々以外、誰も見えなかった。
ゆっくりと、視線を壁に向ける。先ほど禎理の頬を掠めたモノが、石壁にしっかりと刺さって、いた。
「あ」
絶句したまま、風に震える針を見つめる。
この針には、見覚えがある。
「……屋人」
禎理はゆっくりと針から目を逸らすと、何かを払い落とすように頭を強く、振った。
茶人の長老のところへ向かったヴァルガが、古い地図を持って三叉亭に戻って来たのは、日が大分傾いてからのことだった。
「ここが、あの老婆の家。で、この線が多分、あの水道」
地図を指差すヴァルガの太い指を丹念に追う。
古い水道を示す薄茶色の線の上に、現在の通りがその名と共に書かれているので、目的の場所を探すのに苦労はなかった。
「……やっぱり」
古水道の線の先に予想通りの場所を見つけ、かえって落ち込む。
禎理は静かに、自分の予測した場所を指し示した。
「老婆は多分、ここにいる」
「何故だ?」
不思議そうなヴァルガの顔が、禎理の鼻先ギリギリに近づいた。
「……これ」
そのヴァルガの視線を外してから、地図の上に、昼間回収した細長い針を転がす。
「何だ、これ?」
「昼間あそこで飛んできた武器」
そう言ってから、禎理は針を触ろうとしたヴァルガを慌てて止めた。
「不用意に触らないで。……毒が、塗ってあるから」
「なんだと!」
驚愕したヴァルガの視線が、禎理に向かう。
「知っているんだな、禎理。この『針』の持ち主を」
その時になって初めて、傍で地図を眺めていた六徳が口を開いた。
「はい。……俺の同輩だった奴の武器です」
目を瞑って、それだけ口にする。
同時に、ひょろっとした感じの目立たない青年の姿が、苦々しい思いと共に禎理の脳裏に広がった。
〈本当なら、あの時、あいつも免許状を貰える筈、だったのに〉
禎理が無限流の免許皆伝証を貰ったのは、前の師匠野名が臨終の床についている時。偶々、様子を見に来た禎理に、師匠が声を掛けてくれたのだ。
「……免状を、やらんといかんなぁ。お前にも、屋人にも」
かなりしっかりとした声でそう言ってから、野名師匠は禎理の手を借りてベッドの上に起き上がり、傍の羊皮紙を使ってすらすらと二人分の証書を作る。そして、そのうちの一つを、禎理へと手渡した。
「あ、ありがとうございます!」
嬉しかった。ただただ嬉しかった。自分みたいな身分の低い者へも免許状を授けてくれる師匠の優しさが、ただただありがたかった。
だから。
「じゃ、じゃあ、屋人も呼んで来ます!」
舞い上がった気持ちのまま、自分の免許だけを持って、屋人の所まで走る。
だが、屋人を引っ張って師匠の部屋に戻ってきた時には、現在の無限流の師範を務めている野名の息子、一名とその取り巻きたちがベッドの周りを取り囲んでいた。
そして、書かれたはずの免許状は、どこにも、無かった。
〈あの時、屋人の分の免状も貰っておけば……〉
後悔だけが、全身を廻る。
無限流道場に通うのは騎士や貴族階級の者が殆どだったから、刀剣職人の次男である屋人の、道場における地位は、賎民出身の禎理と変わらない。免許状を貰えなかった屋人は、おそらく、一名にいいように使われているのだろう。……免状を、餌にされて。
全ては、自分の所為だ。痛烈にそう思う。
だから。
「行かなきゃ、無限流道場に」
静かに、呟く。
おそらく老婆は、道場に閉じ込められている。そして、屋人も。
「そうだな」
そう言ったヴァルガが、禎理の視界から消える。
次の瞬間、強烈な痛みが、背中を襲った。
「でも、そんな顔じゃいけねぇ。……な」
振り向くと、ヴァルガの大きな口がニコニコと笑っている。その笑いに、救われた気が、確かに、した。
「はい」
絶対に、助け出す。
その誓いと共に、禎理は三叉亭を飛び出した。
直接道場に乗り込んでも埒が明かないことは分かりきっている。だから二人は、老婆の家から古い水道を辿って、道場がある辺りまで行くことにした。
予想通り、道場がある場所で、古水道の煉瓦の壁が一部崩れている。
「偶然を助けにするとは、陸人の考え方は一味違う」
皮肉のこもったヴァルガの呟きを背に、崩れた所からそっと、中を覗き込む。昔見慣れた道場の食料庫の間に、手足を縛られた老婆が気を失って倒れているのが、禎理の目にもはっきりと見えた。
早く、助けなければ。全身が、焦りだす。
幸い、見張りの類は見当たらない。禎理はヴァルガに頷くと、先頭を切って食料庫へと突っ込んだ。
だが。
「……やはり、来ましたね」
老婆の横まで来たところで、嫌な声がする。
顔を上げた禎理は、いつの間にか剣や短槍を手にした男達に囲まれていることに気付いた。
そして、その真ん中にいたのは。
「一名!」
敬称無しで、吐き捨てる。
目の前には、道場で修業しているときから嫌いな奴だったなよやかな影が、あった。
「おや、目上の者に対して無礼なこと。さすが賎民」
そう言って薄く笑う姿は、どこか弱々しくさえ見える。だが、それが見せかけに過ぎないことは、彼と何度も試合をしてきた禎理には分かっている。だから禎理は、答える代わりに、その薄っぺらな顔を思い切り睨みつけた。
先の師匠が生きていた頃から、禎理達低身分の者を蔑みまくっていた奴に、つける敬称など無い。
だが、禎理のこの態度が、一名には気に入らなかったらしい。睨みつける禎理の視線を軽くかわしてから、傍の者に手振りで合図を送る。忽ちのうちに、禎理の周りは剣や短槍の切っ先でいっぱいになった。
尤も、これくらいの囲みなら、多少の怪我を我慢すれば抜けることが可能だ。……但し、禎理一人なら。
どうすれば、この囲みから老婆を助けだせるだろうか? 禎理の思考はこの一点に絞られて、いた。
と。
「短剣を返してもらいましょうか。……持っているんでしょう?」
思いがけない言葉が、一名の口から漏れる。
思考を中断された禎理は一瞬ぽかんとして、この一見優男の師範を見つめた。
短剣。……ああ、これのことか。そこまで考えた禎理の思考のピントが、いきなり合う。そうか。一名達はこの短剣の為に泥棒のまねをしたのだ。
「その短剣は、道場から盗まれたものなのですよ。この女によってね」
老婆を顎で指し示し、酷薄な笑みを浮かべる一名。
「何故貴方に渡したかは分かりませんがね」
だから、返して下さい。居丈高にそう言う一名に、内心カチンと来る。
だが、短剣を渡して油断した隙に、老婆を、穴の傍にいるヴァルガに引き渡すことができれば。そう考えた禎理は、包みのままベルトに挟んでいた短剣をゆっくりと、一名の前に示した。
と、その時。
「渡す必要はないよ」
静かな声が、禎理の耳を打つ。
この、声は。禎理は大急ぎで、床に転がっている老婆の方を見た。
「それはあんたのだ、禎理」
気絶から目覚めた老婆が、しっかりとした瞳で禎理を見つめる。
「夫が野名師匠から預かったんだよ。直してあんたに渡すように、ってね」
……そういう、ことか。はたと気付く。
無限中の免許皆伝証を手にした者は、同時に、剣を一振り師匠から頂く。その剣が、無限流の免許取りだという『証』になるのだ。
禎理は免状は貰ったが、剣は貰っていない。だが、その『剣』を、前の師匠は用意してくれていた。
禎理の胸に温かいものが、一瞬にして広がる。手にした短剣を、禎理は静かに抱き締めた。
そして次に感じたのは、底知れぬ怒り。それは、嘘をついてまで短剣を取り戻そうとした、一名たちに対するもの。
ならば。
短剣を包んでいた布を、静かに解く。そして、その短剣を渡すふりをして、禎理はいきなり一名に向かって飛び掛った。
完全に虚を疲れた取り巻き達の動きが、一瞬止まる。その一瞬で、禎理の短剣の切っ先は、一名の首筋にぴたっとくっついて、いた。
あとは。
「婦人の縄を切れ」
一名の咽喉に切っ先を向けたまま、取り巻きたちにそう命令する。禎理の行動に慌てた取り巻きたちは、多少危なっかしい手つきで老婆の手足の縛めを切った。
短剣の切っ先を一名の首筋に当てたまま、老婆を水道の方まで連れて行くよう取り巻き達に命じる。穴近くに居たヴァルガが、老婆を受け取ったのを、禎理は確かに見た。
だが。
「……そこまでだ、禎理」
聞き覚えのある静かな声が、禎理の耳を打つ。
「屋、人」
振り向かなくとも、屋人が得物である針を、老婆とヴァルガに向けているのがはっきりと、分かった。禎理の短剣が少しでも動いたら、投げるつもりだ。おそらく、禎理が一名を刺す前に、屋人の毒針は禎理の命を奪うだろう。一緒に修行した仲だ。それくらい分かっている。
屋人の針に気付き、ヴァルガが老婆を庇うように立つ。二人が動いても、屋人は針を投げる。それが分かったのか、ヴァルガは老婆を庇ったまま身動き一つしなかった。
禎理が短刀術に秀でていたように、屋人は手裏剣術に秀でていた。屋人の投げる毒付きの針は、どんなところからでも確実に老婆とヴァルガの命を取るだろう。どう、すれば。禎理は唇を噛んだ。この状況から脱出する術を、思いつかない。
勿論、屋人を説得する術も。……自分だけが、免状を貰ってしまったのだから。
「ふん」
鼻を鳴らす音と共に、動けない禎理の手首を一名が掴む。捻られた手首の痛みに、禎理は思わず呻いた。
自分の短剣が床に落ちる音が、やけに大きく響く。と同時に、どこからか蹴りが飛んで来、目の前がいきなり暗くなった。
床に倒れこむ身体の感覚も、分からない。禎理の意識はゆっくりと、だが確実に無くなっていった。
しかし、その時。
「あんたが、『屋人』か?」
凛とした老婆の声が、耳に響く。
次の瞬間、聞こえた言葉に、禎理は思わず目を丸くした。
「預かっておるよ、あんたの剣も」
その、次の瞬間。
「うわっ!」
「屋人! 裏切る気かっ!」
風を切る音に、男達の狼狽の声が重なる。
「禎理っ! 逃げるぞ!」
ヴァルガの声が聞こえる前に、禎理は痛めつけられた身体を何とか奮い立たせて立ち上がった。
「短剣を拾って早く来るんだ!」
穴の出口で、老婆を庇ったヴァルガが手招きしているのが、はっきりと見えた。
針が腕に刺さって呻く一名の足元に落ちていた短剣を、素早く拾う。
そして禎理は、屋人の方を向き、大声で叫んだ。
「来いよ! 屋人!」
一名とその取り巻きたちが怯んでいる隙に、ヴァルガの後から穴を抜ける。
振り向かなくとも、屋人が後ろにいることは、はっきりと分かった。
「準備しておいて良かったぜ」
水道をある程度戻ったところで、ヴァルガが壁に立てかけてあった槌を手にする。そして、道場へ侵入する前にあらかじめ作った仕掛けを止めてある楔を、勢いよく壊した。
大音声と共に、視界が砂埃に包まれる。埃に咳き込みながら闇を透かすと、道場に向かう古水道が瓦礫に埋まっているのが、はっきりと見えた。
「まあ、こんなもんだろうな」
自分の結果に満足して、ヴァルガが莞爾と笑う。
地上に害が無いようにするのが大変だったが、これくらいの土木作業は茶人の専売特許である。
そして。
「屋人」
背後の屋人を見上げ、唇を噛み締める。
「ごめん」
次に禎理の口から出てきたのは、心からの謝罪の言葉。もし、自分と屋人が逆の立場なら、自分は絶対屋人を許してはいないだろう。そう思ったからこその、謝罪の言葉。
しかし、禎理の言葉に、屋人は口を閉ざしたまま首を横に振ると、老婆の前に跪いた。
「……何処に、あるんですか? 俺の、『剣』」
口にした、その言葉に、幾分の期待感が混じっているのを、禎理ははっきりと感じ取った。
「食料庫」
そう言って、すたすたと古水道を自分の家に向かって歩き始める老婆。その後を追う屋人の口元に微かな笑みが浮かんでいるのを、禎理もヴァルガも見逃さなかった。
幾許も無く、老婆の家の地下に着く。
「……そこの小麦の袋を取ってくれんか」
着くや否や、老婆は屋人にそう、指示した。
言われた通り、小麦の袋に手を突っ込んだ屋人の目と口が大きく見開かれるのが、明り取りの窓からの月明かりだけでもはっきりと見える。
吃驚した顔のまま、屋人が手を真っ白にして取り出したのは、細長い包み。
「あいつら、ここも探しておったが、まさかこの袋に入っているとは思いもせんかったようじゃの」
その様子を見て、老婆は満足そうに笑った。
「あんたのだよ。開けてみな」
包みを解く屋人の手が、微かに震えているように見える。
その包みから出てきたのは、腰に佩く長剣。鞘にも鍔にも柄にも流水形の紋様があしらわれている、かなり派手な形のものだ。鍔元に嵌め込まれた赤色の硝子球が、月明かりにきらりと光った。
「派手だな。こいつには、あまり似合わない」
正直な感想を、ヴァルガが述べる。
「なるべく派手に飾るよう、頼まれたからの。……野名師匠から」
ヴァルガのその言葉に、老婆はもう一度笑い、そして更に付け加えた。
「堂々と生きろ、ってことじゃないかの」
長剣を腰に佩いた屋人が老婆に一礼して去る。
月明かりに映るそのしっかりした後姿を、禎理は何時までも見送って、いた。




