海辺に歌う
砂浜を歩いていた禎理の耳に、微かな歌声が響く。
その美しい歌声は、まだ幼い頃、この海辺の町で聞いたものと同じもの、だった。
〈……あ〉
思わず、辺りを見回す。
胸に去来する思いは、懐かしさと、そして申し訳なさ、だった。
しかしながら。どんなに砂浜中を凝視しても、小さな影すら見あたらない。空耳、か。禎理はほうと息を吐くと、砂浜にそっと腰を下ろした。
幼い頃、祭りの音楽を演奏する家族と共に訪れたこの町。小さすぎてまだ何の役にも立たず、皆の邪魔にならないよう一人でふらふらと歩いていたこの砂浜で出会ったのは、少し淋しげな声と、豊かな緑の髪を持つ、海人の女性。砂浜の橋にある小さな岩場に腰掛け、髪を梳りながら、細いがはっきりした声で淋しげな歌を歌っていた、滑らかな肌の人。
「あら、可愛い子ね」
海人を初めて見た所為か、物珍しげに見つめる禎理を、その女性は邪険には扱わなかった。
「貴方にはまだ早いわ」
彼女の真似をして、彼女の歌を歌おうとする禎理に、彼女はそう言って笑ったのを覚えている。
「もう少し大人になったら、教えてあげる」
夕方、そう約束して別れた時に額に触れた、彼女の柔らかな唇の感触も。
だが、その次の日、砂浜に降り立った禎理が見たのは、町の人が着るチュニックを身につけた男の人を海に引きずり込んでいる、同じ海人の女性。海に落ちようとする男性の恍惚とした表情と、海の上に半身を見せている海人の女性の、唇に浮かんでいた残酷な笑みに、禎理は叫び声も上げられず、その場に立ち尽くした。
「……禎理?」
やっと身体が動くようになったのは、その海人が禎理の目の前に来た瞬間。
逃げようと方向を変えた禎理の背後から聞こえてきたのは、悲しげな響きの声、だった。
「歌声で愚かな陸人を引き寄せ、海で溺れさせるのが私の性」
その声は、町へと逃げる禎理の後ろにぴったりとくっついてきた。
「この性は、誰にも止められないの」
その時は、怖かったのと幼かったのとがあって、彼女の言葉の半分も分からなかった。
そして今も、全部分かったとは言えない。
だが、……逃げたことだけは、謝りたい。
だから。
彼女が居た岩場に腰掛け、微かに覚えていた彼女の歌を、静かに歌う。すぐに、目の前の海面が少し、盛り上がった。
「……あ」
禎理の目の前に現れたのは、幼い時に見たのと寸分違わぬ、彼女の姿。
現れて、くれた。禎理はほっと息を吐いた。
「約束、だったわね」
そんな禎理の横に座り、昔のように微笑む彼女。
「教えて、あげるわ。あの時の歌」
「うん……」
今度は、逃げない。
禎理は彼女の緑の瞳を見つめ、強くこくりと頷いた。




