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泣き声は赫く

 いつもは静寂に包まれている森が、異常なほどにざわめいている。

 冒険者宿『三叉さんさ亭』で借りた馬を走らせながら、禎理ていりは、辺りの様子に心が冷たくなるのを確かに感じて、いた。

 いつものように冒険から帰ってきた禎理を待ち受けていたのは、天楚てんその貴族六角公の危篤の知らせ。その知らせを三叉亭の主人六徳りっとくから聞いてすぐに、禎理は馬で天楚市を飛び出したのだ。

 しかし、天楚市から六角公の居住地である六角郷までは、馬を飛ばしてもかなりの距離がある。天楚を出たのは昼前だったのに、今、辺りは黄昏の光に包まれていた。

 冷たさを増した風が、禎理の頬を叩く。その風の容赦の無さに、禎理の身体と心はすっかり冷え切ってしまっていた。

 不吉な想いが何度も脳裏を過ぎる。

 六角公真まことは、天楚国の有力貴族であると同時に辣腕な政治家でもある。今の天楚国が繁栄を保っているのは公の力であることは、禎理レベルの下層市民でも承知のことである。

 そして六角公は、天楚に住む全てのものに優しかった。それも人間に対してだけではない。六角公は、その領有地である『蛇神の森』に棲む精霊や魔物達にも優しかった。天楚国に『魔物守護法』を作り、魔物達を、その『血』に潜む『力』を欲する悪どい貴族や商人から守ってくれたのは公だ。

 生まれたときから『蛇神の森』で暮らし、そこに棲む精霊や魔物が大好きな禎理にとっても、彼は本当に『大恩人』である。だから禎理は、暇さえあれば公の住む六角郷を訪れ、自分が採った薬草を公に渡したり、旅の間に集めた歌や物語で公の無聊を慰めたりしてきた。

 その公が、死ぬかもしれない。今年の夏ごろから、健康がすぐれないとは聞いていたが、まさかこんなに早く。

〈……いや〉

 心にわだかまる不吉な思いを振り切るように、禎理は強く首を振った。

 まだ、公が死ぬと決まったわけではない。

 とにかく先を急ごうと、禎理は再び手綱をしっかりと握り締めた。


 梢を渡る風に、悲痛な泣き声が混じっているように聞こえるのは、気のせいだろうか?


 向かってくる馬の足音に、禎理ははっとして手綱を引いた。

 今禎理が走っている道は、森から六角郷へぬける一番の近道で、馬一頭がやっと通り抜けるだけの幅しかない。だからとりあえず脇に避けようと、禎理は手綱を操り、馬を止めた。

 だが。

「……須臾しゅゆ!」

 黄昏の中、こちらに向かって来た馬に乗っていた人物を見て、禎理は思わずその名を叫んだ。

 彼は確かに、六角公の姉の息子、天楚騎士須臾だった。

「禎理!」

 須臾も馬上の禎理に気付き、馬を止める。

「何処へ行くんだ、禎理?」

「六角郷」

 しかし何故須臾がこんなところで馬を走らせているのだろうか。彼は六角公の後継者であることは、天楚に住む者なら誰でも知っている事実だ。しかし、瀕死の公の傍にいるべき人物がこんなところで馬を走らせているなんて、どう考えても絶対おかしい。だから禎理は、きつい調子で須臾に問わずにはいられなかった。

「須臾は? こんなところで何をしている?」

「私、は……」

 禎理の問いに須臾は一瞬言葉を詰まらせる。

 その一瞬で、禎理は彼の目的を完全に理解した。

 心なしか、頬をなぶる風が悲痛なほどに強くなったような気が、する。その耳に流れ来る、悲鳴のような泣き声も。

「馬鹿な事は止めろ、須臾」

 須臾の行き先は、『蛇神の森』の奥深く。そこにいる、『泣き女』と呼ばれる冥界神配下の精霊に会いに行こうとしているのだ。

「『泣き女』を止めたところで、六角公様の命が助かる保証は無い」

 確かに、死を司る精霊とも云われている『泣き女』に頼めば、六角公の死は止められるかもしれない。しかし、しかしである。

〈『自然の理』を、破るわけにはいかない〉

 禎理の理性はそう、警鐘を鳴らしていた。

 だから禎理は、須臾を止める。

「しかし!」

 だが、須臾の感情は、いつも鍛えている彼の理性でも抑えられないところまで来てしまっている。

「あの方はまだ、死んではいけない!」

 確かに、六角公には死んで欲しくないと、禎理自身も思う。だが。

「とにかく、私は行く!」

 そう言うやいなや、須臾は馬腹を蹴って飛び出す。

 『泣き女』の泣き声さえ止めれば、公は助かる。須臾は心からそう思っているようだ。しかし、確かにそんな言い伝えも存在するが、あくまで『言い伝え』である。それが正しいかどうかの保証は無い。

 それに。禎理がその心の内に秘めたある想いが、須臾の暴走を許さない。

 だから。

「待てよ!」

 須臾の後から、禎理も自分の馬を走らせた。

「俺も行く」

 六角公のことも心配だが、感情が高ぶったままの須臾を一人で行かせるわけにはいかない。

 『自然の理』に、須臾を逆らわせるわけにはいかないのだから。


 二頭の馬は、疾風のように森の小道を駆け抜けた。

 と。

「……あいつ、だ!」

 森を流れる小川のほとりで、須臾が馬を止める。

 須臾の視線を追った禎理は、その先に髪の長い女が蹲っているのを見つけた。

 ざんばらの白髪、裾を引きずるようなぼろぼろのローブ、そして時折上げる叫ぶような泣声が、彼女が間違いなく『泣き女』であることを示している。

 須臾は表面だけ感情を押し殺した顔で馬から下りると、そのまま彼女の方へと向かった。

「……待て、須臾」

 転がるように馬を下り、そんな須臾の腕を何とか掴む。

「乱暴はよせ」

 『泣き女』に暴力を振った者がどんな残酷な末路を辿ったかも、伝説にきちんと示されている。それに、例えどんなに悪さをする精霊でも、虐められるのを見るのは禎理の性に合わない。だから禎理は、その体格差を何とか克服して須臾の顔を自分の方に向かせると、ただ瞳だけで落ち着くようにと声をかけた。

「……大丈夫だ、禎理」

 そんな禎理の気持ちが分かったのだろう。須臾は黙って頷くと、掴んでいた禎理の腕を振り解いて再び『泣き女』の方へと向かった。

「何も、しない」

 その言葉の通り、須臾はすすり泣いている『泣き女』の背後に立つと、その膝を地面につけてただ静かに彼女の震える肩を抱いた。

「お願いですから、泣くのをやめてください」

 そしてその姿勢のまま、いつになく優しげな声でそう言う。

「あの方はまだ、死んではいけないのです」

 その声には、いつもは隠している須臾の公に対する感情が、確かに込められていた。

 だが。

「止めよ。若者よ」

 背後から聞こえる威厳ある女性の声に、禎理ははっとして振り向いた。

 そこに、いたのは。

「……冥界、神」

 禎理の目の前に立っていたのは、その華奢な腕に不釣合いなほど巨大な鎌を持った女性。その神々しさに打たれた禎理は呆然とした状態のまま、膝を折って地面に跪いた。

 だが、そんな禎理には見向きもせず、冥界神スターティスはただ静かに、『泣き女』を抱いたままの須臾の背後へと向かって行った。

「そなたの気持ちも分かるが」

 そして、ある種緩慢な動作で須臾を『泣き女』から引き離すと、冥界神は優しげな、しかし厳しさを含んだ声で諭すように言った。

「理を曲げるわけにはいかない」

「分かってます。です、が……」

 その言葉に納得のいかない須臾は、冥界神からそっと目を逸らすと反論の言葉を口に出す。しかし、彼女から発せられる悲しみに満ちた威厳に、須臾の言葉は途中で途切れてしまった。

「分かって、貰えぬか」

 これまで堪えていた涙が、須臾の目からぼろぼろと零れ落ちる。

 うなだれた須臾を見て、冥界神はゆっくりと彼の手を離した。

「『自然の理』を破ってまで生きる生は、不幸しか生まない」

 そして、そこで初めて、冥界神は禎理の方を見て薄く微笑む。

「それは、おぬしが一番良く分かっておる筈よの、禎理」

「……はい」

 俯いたままの禎理の脳裏に浮かぶのは、『この世界』の為に『自然の理』を破って生き続けた一人の女の姿。彼女のことを思い出す度に、禎理の心は痛みに震える。そして、彼女が受けた苦しみを、思い出すのだ。

「さあ、ここを離れるがよい、若者よ」

 全てを一掃するような強い風が吹く。

 次の瞬間、冥界神も、『泣き女』も、二人の前から姿を消してしまって、いた。


 すっかり元気をなくした二人が、馬と共に六角公の屋敷に辿り着いたのは、夜がすっかり明けた頃だった。

「……須臾様!」

 馬上の須臾を認めて、六角公の執事が走り寄ってくる。

「何処に行っていらっしゃったのですか!」

 その執事の、怒りの中に含まれた悲しみを、禎理ははっきりと感じ取った。

 やはり、そうか。


 しかし、その予感を確かめることなく、禎理は軽く馬腹を蹴るとそのまま六角公の屋敷を後にした。

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