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09章……献身的な人

 誰かが固い物に頭をぶつけたのか、鈍い音が鳴った。

 鈍い音が鳴った方を友江が振り返る。すると、痛そうに額を押さえ、しかめっ面でしゃがんだまま微動だにしない幸永がいた。

「大丈夫ですかぁ? これで5回ぶつけましたけど」

 友江が、玄関先から心配そうに間延びした声を掛けた。

 幸永は、照れ笑いを浮かべる。

「ははは、何の何の。こんなの大したことじゃないですよ。すぐそっちへ行きますね」

 幸永が持っていた雑巾を床に折り畳んで置き、今度はその上に両手を置いて、前傾姿勢となった。雑巾を体全体を使って前方に押し出し、友江の許へ駆け出す。しかし――

「がふぅっ!」

 幸永は、勢い余って靴箱の側面に頭の頂をぶつけた。またしても鈍い音が廊下中に響く。

 近くにいた友江は、幸永が靴箱の側面に衝突する瞬間に目をつぶっていた。恐る恐る目を開けてみると、体が伸びきった状態の幸永が頭のつむじ辺りを押さえて、低い声で唸っていた。

「ほ、本当に大丈夫ですかぁ……?」

 低い声で唸っていた幸永が、友江の声にはっとして慌てて笑顔を作る。

「凄く痛いです!」

 幸永は、親指も立てて歯を出して笑った。 

 そして時間が止まった。幸永も友江も体の体勢や表情そのままに、銅像のように固まった。

 10秒ほど経ったところで幸永は、過ちに気づく。

(あああああっ!? 何を俺は本音を言っちゃってんだよ!? しかも、ご丁寧に親指まで立てちゃったよ!? どうしよう……この状況)

 脳内が、天地を引っ繰り返したような大騒ぎになっている様子の幸永。

「ふふふ、幸永さん。やっぱり痛かったんじゃないですかぁ。駄目ですよ~正直に言わなくちゃ」

 友江が沈黙を一気に破った。

「え、まあ、すいません」

 内心ほっとしつつ、沈黙を作り出してしまったことを反省してか、幸永は苦笑しながら頭を掻いてみせた。

「どうなっているのか、私に触らせてみて下さい」

 そう言うや、友江の傷ひとつついていない白く綺麗な手が、幸永の額に向かって伸びる。

 幸永が「えっ」と、言っている間に手が近づいてきた。額に手が触れると思うと、それだけで心臓が張り裂けんばかりに躍動しているのが分かった。しかし、それでも友江のなすがままにすることにした。

 友江の手が、幸永の額を撫でるように触れる。

「痛っ」

 軽く触れられただけでも痛いらしく、幸永から小声が漏れた。

「あっ、御免なさい。痛かったですかぁ?」

 幸永が真正面を見ると、眉をやや八の字にした友江が覗き込んでいた。友江の良い匂いが鼻腔をくすぐる。

「だだだ、大丈夫ですよ!? はは、はははははっ!」

 幸永が固い笑い声を発しながら、後ずさりをする。すると、後頭部に鈍い衝撃と鈍い音が鳴った。どうやら壁に頭をぶつけたらしい。

「あらら……本当に大丈夫ですかぁ? とにかく、冷やす物を持ってきますねぇ」

 友江は一度にこりと微笑むと、後頭部を押さえている幸永を残し、居間に去って行った。


 時間は早朝に遡る。

 幸永はいつものように早起きし、挨拶をしながら居間に入った。しかし、挨拶が返ってくることはなく、人の気配も感じられなかった。

 テーブルの上には既に作られてラップで包まれた朝食と、1枚の置手紙が置いてあった。その内容は、山登りに行って来るから留守番を頼む、とのことだった。

 そこへ、世界の猫の30種類の顔写真が、所狭しとプリントされている何とも可愛らしいパジャマを着た友江が、寝惚け眼をして現れた。

 幸永がふらふらと歩行する友江を誘導し、テーブルの前に座らせて置手紙の内容を訊いた。

「あ――……たまぁに行くんですよねぇ――……ふたぁりともぉ元気ですからぁ――……」

 寝起きの友江は、普段よりも更に間延びした口調であった。

「なるほど」

 幸永は合点が行ったのかしきりに頷いた。

 その後ふたりは朝食を食べ終え、のんびりとテレビを観ていた。

『このがらくたの山を見て下さい! まさにゴミ屋敷としか言いようがありません! 早速、ここまでがらくたやゴミを集めた家主に話を聞いて見ましょう』

『んだぁ? おらにとっちゃ宝もんなんだで。それをゴミやがらくたと呼ぶなんぞ、言語道断じゃっ! ほんっね、チョーベリーバッドってやつじゃ、けえってくれっ』

『そうはイカのなにがしってやつですよ! 近隣の住民が迷惑をこうむっているんです。それが分からないんですか!? それにねぇ! 時代錯誤も甚だしいギャル語でごまかさないで下さい!』

『黙りゃ! チョベリバチョベリバ言って何が悪いんじゃ!? おらの中では、今一番、波が……きとるんじゃあああああっ!』

『うわっ、な、何を……あああ、アッ――!』

 リポーターの断末魔の悲鳴とともに、映像がぶつりと中断し、数十秒ほどのブラックアウト。その後、可愛らしい象が画面の中央で、『放送が中断しています。しばしお待ち下さい』と、書かれたプラカードを鼻にぶら下げている静止画が流れた。

 あまりに急展開な終わりっぷりに、しばし呆然としていたふたりだった。

 やがて、幸永の口が開く。

「汚い内容でしたね……」

「そうですねぇ。生ゴミなんかを人に向かって投げるなんて、最低です」

 怒っているのか怒っていないのか分からないぐらい、微妙な表情で怒った友江が、何か思いついたらしく、あっと声を挙げる。

「そうだ。今日は廊下の掃除をしませんか。しかも、昔を懐かしんで雑巾がけなんかどうでしょうかぁ?」

 幸永は咀嚼していた焼き鮭を嚥下し、微笑みながら答える。

「おおっ、いいですね~。賛成です。でも、友江さんは卒論を書かなくてもいいんですか?」

 味噌汁を啜っていた友江が、椀置いた。

「たまには休んでも、ばちは当たらないでしょう。今日ぐらいは書かずに休もうと思ってましたし」

 友江の卒業論文は、8割型進んでいた。今日は一段落したとして、1日ぐらい家でゴロゴロしていようと思っていたのである。

「それなら大丈夫ですね」

 箸を巧に動かし、ご飯茶碗についたご飯粒を取りつつ友江は訊く。

「幸永さんは大丈夫なんですかぁ?」

 幸永は、漬物を箸でつまむ。

「ええ、今日はバイトがありませんし、ずっと家に居ようかと思ってましたからね」

 幸永は、バイトが非番な為且つ今日は予定もなく、家で江里の手伝いでもしてのんびりして過ごすことにしていた。

 友江は、コップに半分ぐらいあった麦茶を一気に飲み干す。

「じゃあ、お互い大丈夫なんですねぇ」

 幸永も、なみなみと注がれた麦茶を一気に飲み干す。

「そうみたいですね。朝食を食べ終えて、食器を片付け終えたらしましょうか」

「うん、分かりましたぁ」


 幸永の額に、ひんやりとした物が貼られる。

「有難う御座います。結構冷たいですね」

「粒が増量中みたいですよ~。それよりも幸永さんは、しばらく休んでいて下さい。あらかたは済みましたし、あとは私ひとりで大丈夫ですから」

「いえ、友江さんだけひとりに、掃除をさせるわけには行きませんよ。俺も引き続き手伝います!」

 幸永は、大丈夫だと立証する為に一気に立ち上がった。しかし

「あれ? あれれれ……」

 すぐさま立ちくらみが襲い、そのまま後方へ勢いよく倒れこんだ。その際後頭部をしたたかに打ち、そのまま事切れたかのように気を失ってしまった。

「ゆ、幸永さん!?」

 友江が慌てて体を揺さぶる。だが、全く反応はない。激しく打ち震える自身の胸を抑えつつ、少し冷静になって幸永の心臓と喉に手を置いた。すると、平常時のように脈打っていたので、ほっと胸をなでおろした。

「はぁ、良かったぁ……。でも、どうしようっか……」

 目の前では幸永が気絶している。友江は玉響たまゆら考える。

(とりあえず、居間に連れて行こうかな。畳の上で寝てた方が、体も痛くないだろうし……うん、そうしよう)

 早速、仰向けに気絶している幸永の頭の上の位置に、膝立ちのままいざった。

 友江は、幸永の両脇に自身の両腕を通すように入れて、力こぶを作るように腕を折り曲げ、そのまま引っ張る。しかし、わずかばかりしか動かなかった。

 何度か幸永を引きずり続けた後、手をゆっくりと脇から放し、手の甲で額の汗を拭った。季節は既に8月の上旬である。当たり前のように朝から気温は高かった。

「はあはあ……幸永さんってこんなに重かったんだぁ……。背も私なんかより20センチぐらい高いし、男の人って凄いなぁ……」

 友江が喘ぎながらつぶやいた。なおも顔中に霧吹きで水をかけたような汗が浮かび、幾つかは頬を伝い、おとがいを伝い、雑巾がけをしたばかりの床にしたたり落ちて行く。

「でも、玄関でそのままってわけにも行かないし、私が頑張らないと……!」

 友江は己を奮い立たせると、再び両脇に両腕を差し込んで、幸永の体を引っ張り続けた。

 20分ほどの時間をかけて、ようやく居間に辿り着いた。

 友江は、未だに目覚めることもなく気絶している幸永を、居間の隅に衝撃を与えないように、ゆっくりと置いた。

 台所に向かい、冷凍庫から氷枕を取り出すと、友江はそれをタオルに包んで幸永の頭の下に設置した。

 友江は少し早いとは思いながらも戸を締め切り、クーラーにスイッチを入れた。たちまち居間に、涼やかで火照った体には心地よい風が流れる。

 気絶したままの幸永のことが気になるものの、友江は廊下の掃除を再開した。幸い9割型は終わっていたので、雑巾がけを3往復したところで終了した。

 一通り動き回り、服が肌にぴったりとくっついて下着が透けて見えるほどに、汗びっしょりとなった友江は、シャワーを浴びることにした。

 衣類も新たに半袖ハーフパンツ姿となり、シャワーを浴びてさっぱりとした友江は、涼しい居間で時折氷枕を換えつつ、久々にのんびりと過ごした。


 夕暮れになり、緋色の日差しが純白のレースのカーテンの防御を破り、居間に差し込む時間帯となった。

 その頃になってようやく、進平と江里のふたりが山登りから帰ってきた。

 友江は、早速ふたりに状況を説明すると「そのまま寝かせておく方がいい」とふたりも結論づけた。

 晩御飯の時間になって、進平が荒々しく起こそうとするも、全く反応もなかった。

「まぁまぁお父さん、幸永さんは安静にしておかなければ、駄目ですよ」

「むう……それもそうだな! 今夜はひとり寂しく酒を飲むとするか。そうだ! どうだ友江。俺と一緒に飲まないか!?」

「お父さん、御免ねぇ。明日からまた卒論を再開しなくちゃいけないから、付き合ってあげられないの。本当に御免ねぇ」

「そうか……。く――っ! 早いところ幸永くんが、目を覚まさないものだろうかっ!」

 進平の悲痛な声が居間に響いた。

 それを友江と江里は、微笑みながら見つめるだけだった。

 やがて、ひとりまたひとりと居間を去り、それぞれの部屋に入って眠りについた。 そのまま居間で酔い潰れた進平も、夜中の3時には目を覚まし、酒の抜け切った体を起こした。立ち上がって幸永をしばらく注視する。帰ってきてからのままであった。

「やっぱり、狸寝入りしていて俺たちを驚かそうとしている訳じゃないんだな」

 進平が自論に納得すると、自分にかかっていた毛布を、既にかかっているのにも関わらず幸永にかけてやり、大あくびをしながら寝室に去って行った。


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