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08章……嫌味な奴と紳士風の人

 街中に幸永がひとり、歩いている。

 何もかもを溶かしつくしてしまいそうな夏の日輪。それを暑さのあまりか、渋面を作りつつ仰ぎ見る幸永の顔からは、汗が滝のように流れ出ていた。

 江里が破れた跡が見えないようにと、上手い具合に修繕してくれたスーツのポケットから、ハンカチを取り出して汗を拭う。何度も拭ってきたせいか、乾いている部分より汗を吸っている部分が多い。まるで拭いた汗を塗りたくっているようではあるが、そうでもしないと不快で堪らない。

 幸永は、濡れたハンカチで汗を拭いたところで、気を引き締めた。そして決意も新たに、スーパーの中へ入って行った。


「御免ねぇ。雇いたいのはやまやまなんだけど、うちは人数が間に合ってんのよ~。悪いけど、他を当たってちょうだいね」

 化粧の濃い太った体躯のおばちゃんが、残念そうな声音で言った。

「そうなんですか……」

 幸永が肩をがっくりと落とし、すごすごとスーパーから出て行く。そこから「これでは駄目だと」しばらくは毅然として背筋を伸ばして歩いていたが、道の真ん中にいきなり立ち止まり、こうべを垂れた。

(これで7回目か……断られたのは。あーあ、何処でもいいから、早く決めたいもんだな……)

 幸永がひとりで町を歩いていたのには、理由があった。

 幸永が友江の実家に居候させて貰ってから、1週間ほど経った。当初こそ戸惑いながらも日々を送っていたが、1週間も経てばそれなりに慣れていた。それとともに、ただ飯を食わせて貰っていることに幸永の気が済まないようになってきた。

 家の手伝いも積極的にしてきたつもりだったが、それでも全く足りないと思った幸永は、アルバイトをすることを決めた。

 家の手伝いもするし、住まわせてもらっているから、アルバイトをして生活費を稼いで少しでも納めたい――その旨を夕食の席で伝えた。

 友江はとろけるような笑顔で承諾。

 進平は感心しきった顔になった後、豪傑笑いをしながら、幸永背中をしきりに叩いていた。

 江里は「まぁまぁ」と言いながら、いくつか質問してきたが、幸永の心意気に感じ入ったらしく、やがて菩薩のように微笑みながら、頷いた。

 翌日――つまり今日。思い立ったらすぐ行動と言わんばかりに、幸永の行動は早かった。町中にアルバイトを探しに行ったのである。

 町中は草野球の次の日に、友江から一通り案内してもらっていた。それに、出発前に江里が念の為に、と、持たせてくれた地図があるから、道に迷う心配は全くなかった。

 早速、地図と己の土地勘を頼りに、あちこちの飲食店やスーパーやコンビニに当たった。

 しかし、ひとつ断られふたつ断られ。そして、たった今またしても断られた。

 幸永が悄然とするのは当たり前である。こんなに断られて、少しも落ち込まない人間などそうはいない。

(とりあえず、他を当たってみるか……)

 幸永は、垂れていたこうべを上げて振り返ろうと、体を回れ右しようとした。

 その時、通行人のひとりに肩がぶつかった。通行人の掛けていた眼鏡が道端に落ちる。

「あっ、すいません!」

 幸永が慌てて落ちた眼鏡を拾い、「眼鏡、眼鏡」と言いながら、地面を撫で回している男に渡す。

「痛いじゃないか、君! あっ、き、君は……!?」

 言ったきり、男は目と口を大きく開けて固まった。

「え? 何処かであったことありましたっけ? うーん……病院内に居なかったし、草野球のチームにも居な……」

 思いだそうと難しい顔をしてつぶやいている幸永を、じっと見ていた男は目と口を再起動させた。

「あ、雨森……幸永じゃないかっ……!」

 男が絞り出すように言うと、決して好意的ではない眼を幸永に向けた。

 その眼に全く気づいていない幸永は、難しい顔そのままに否定する。

「あまもりゆきなが? 確かに自分の名前は幸永ですけど、あまもりなんて苗字じゃないですよ」

 幸永の口調は普通そのものであったが、のんべんだらりんとした口調に聞こえた男は、苦虫を噛み潰したような顔をして幸永の左腕を掴んだ。

「と、とにかく! こっちに来い!」

 男が左腕をぐいぐいと引っ張る。

「え、いや、何なんですか!? 貴方は!?」

 男に引き寄せられながらも、幸永は必死で口と体で抵抗した。

「ええい、黙らっしゃ――いっ!」

 男が大喝すると、幸永がひるんで力が抜けた。その隙に男は、近くの喫茶店に幸永を連れ込んだ。


 幸永と男が向かい合うように座って、30分ほど経ったであろうか。

 男が注文したコーヒーを一口飲んで、カップを静かに置いた瞬間から、弾数無限の機関銃のように話し始めた。

 幸永が居なくなってからのこと、その穴埋めを見つけるのは簡単だったこと、幸永をクビしようかどうか迷っていたこと、幸永はどうしようもない根暗だったこと――など、嫌味たっぷりな口調でぐちぐちとまずは言い切った。

 決して、幸永のことを微々として思いやることのない、一方的な吐露であった。今もなおまだ言いたりないとばかりに、盛んに口を動かし、うつむいて何も言わない幸永を攻撃し続けている。

 さながら無抵抗の民間人を、慈悲もなく打擲ちょうちゃくする軍人であった。

 一方の幸永は、最初の内こそ自分のことではないとぽかんとした顔で、話を聞いていた。しかし、話が進んでいくうちに、その下の名前が同じ人物に憐憫の情が込みあがり、次第に腹が立ってきた。

 だが、相手に悟られてはまずいと、怒りを押し隠す為に、徐々に顔を傾けてひたすらテーブルを見つめるようにした。

 それでも攻撃は続いた。誹謗はますます勢いを増し、働いていた頃の普段の幸永の所作にまで至った。発言を否定し、人格を否定し、そして存在をさえも否定した。

 ここまで言われて、無抵抗の民間人を演じ続ける必要などはなかった。

 幸永は眉を吊り上げ切歯せっしし、握っていた拳を憤激で小刻みに震えさせていた。

「お前は屑だ。屑などは、屑箱に捨てられていた方がお似合いよ。ま、どうしてもって懇願するなら、土下座して靴でも舐めるぐらいでないとな。そうすれば、今までのことは不問にしてやってもいいぞ」

 男が口角を歪め、野卑な笑いを店内に響かせた。

 これが起爆剤となったのか幸永は、テーブルをふたつの拳で叩くと、一気に立ち上がり、拳を解いた右手で男の胸倉を掴んだ。そのまま手首を返して、男を引き寄せる。幸永も顔近づけ、唾を浴びせんばかりに吼えた。

「そうかそうか、そんなに自分が偉いのか! その俺と同じ名前の奴は屑だって言うのか! てめえは何様のつもりだ!? 屑はお前だろうが! 人のことをよくそんなに言えたもんだなっ! そいつが一生懸命に頑張っているかもしれないのに、そんな目で見てたのか!? 俺がそいつならな、即刻お前が居る会社なんて辞めてやるよ! 今のを聞けば、そいつだって辞めただろうしな! ……で、土下座して足を舐めろだと? ふざけたことを言うんじゃねえよ! そいつはな、お前のペットじゃねえんだ! 人間なんだよ! そんなことを言う奴はな、性根とはらわたが腐りきった奴なんだよ! お前みたいにな!」

 怒りを爆発させた幸永は胸倉から手を放し、男を突き飛ばした。ソファの背もたれが背中に当たり、驚愕の目を開いたまま、だらしなく足からずるずると地面に崩れた。

 しばらくだらしない体勢だった男は、いきなり正気に戻った。そして、素早くずれた眼鏡を直し、少しはだけたスーツを整え、幸永の唾がかかった顔をハンカチで拭いた。最後に姿勢を正して座り直す。

 男の一連の動作をめつけていた幸永に、男は無感情に言った。

「貴様はクビだ。に……」

 男が言いきる前に、幸永が怒鳴り声で遮る。

「うるせえ! クビでも何でもしやがれ! 二度と俺の前に、その取り澄ましたツラを見せるんじゃねえぞ! 分かったか!?」

 幸永が顔を真紅に染め、鬼のような形相で怒っている。

「うっ……」

 男の顔色が恐怖で見る見るうちに青ざめていく。

「分かったか!?」

 幸永が、もう一度右手でテーブルを叩いた。

「ひっ、ひいぃぃぃっ!」

 幸永の所作に、次は己が殴られると思った男は、耳障り極まりなく尾を引くような甲高い悲鳴を挙げ、逃げるように去って行った。

 男が去り、暫時ざんじ店の出入り口睨んでいたが、ふっと表情を和らげた。

「ふう……」

 幸永が息をつくと、途端に拍手と歓声が店中から湧き起こった。中には紙吹雪まで作って、いつの間にか幸永に振り掛けている者もいた。

「ええっ? な、何で……?」

 幸永は、困惑しきった顔で誰ともなく小声で問うた。

「何でって、あの胸糞悪い奴を追っ払ってくれたからですよ」

 紙吹雪を幸永にかけている男が答えた。

「えっ?」

 思わぬところからの返答に驚いた幸永は、紙吹雪を振りかけている男を弾かれるように見た。

 そこには、幸永よりも少し背の高い坊主の男が立っていた。体はほっそりとしていて、人の良さそうな顔をしている。

「そうですよね? みなさん」

 坊主の男が柔和な目で店内を見渡す。すると、またしてもどっと拍手と歓声が店内を包んだ。

「私を含めみなさんは、貴方と同じでした。声が大きく、いやでも聞こえるあの男の下衆な言葉を、これ以上聞きたくなかったんです。それに、貴方がいつ言い返すのかとやきもきしていたんですよ。男の野卑な笑い声が聞こえた時などは、あそこに居る宇久うくさんがフォークを投げつけようとして、大変でした」

 坊主の男が掌で右方を示す。幸永が釣られて見ると、確かに照れ笑いを浮かべている宇久と言う老年の男がいた。右手に持っていたフォークを後ろに隠し、左手で頭を掻いている。

 幸永が軽く笑った。

「別に投げて下さっても良かったのに」

「いんや、おらはそこにいる店長さんに怒られたくねかったからな。前に一回怒られたことあんだが、そんときゃ閻魔様かと思ったわ」

 宇久が恥ずかしそうに言った。

 幸永が少しびっくりしつつ、坊主の男の顔を見た。

「申し遅れました。私、ここの喫茶店を経営しております執行しぎょうと申す者です。以後お見知りおきを」

 言い終えるや、頭を深々と下げた。

 幸永は、いきなり自己紹介を始めた執行に、面食らった。それでもすぐ気を取り直した。

「執行さんですね。宜しくお願いします。そして、先ほどはとんだご迷惑をお掛けしました……」

 幸永は深々とこうべを垂れた。

「とんでもありません。先ほどの件に関しては10対0で、出て行った男が悪いんですから。ささ、頭を上げて下さい」

 幸永が申し訳なさそうな顔を上げた。

「申し訳ないですが、先ほどの男の話の続きに戻ります。貴方は声高らかに仕事を辞めると仰いましたよね?」

 執行が確認するように訊いてきた。

「は、はい……」

 今度は何ごとかと声を落として返答する幸永。

「宜しければ、私の店でアルバイトをしませんか? 先日、丁度ひとり抜けてしまって、シフトが瓦解してしまったんですよ。貴方のように威勢が良くて、言いたいことをはっきりと言うけども腰が低い、そんな人を求めていたんですよ。時給も働き次第で昇給もありますし、余りものですが、まかないも給仕致します」

「えええっ!?」

 執行の条件に、しばらくの間目を白黒させる幸永。

 執行は、至って穏やかな表情で返答を待っている。

 やがて、幸永の混乱が収まったらしく、視点が執行に定まった。

「こんな自分に有難い言葉です。喜んで働かせていただきます。これから宜しくお願い致します」

「そうですか。こちらこそこれから宜しくお願い致します」

 幸永と執行が同時に頭を下げると、割れんばかりの拍手と歓声がふたりを包んだ。

 幸永と執行は笑い合いながら、握手を交わした。

 かくして幸永のアルバイト先が決まったのだった。


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