05章……豪放磊落と春風駘蕩(後編)
「母さん、連れてきたぞ!」
老夫は居間に泰然と座っている老婦に、釣り人が大魚を釣りあげたような顔で、幸永を見せるように前に押し出した。
老夫の老夫とも思えない馬鹿力から解放された幸永は、その場で畳に額を擦り付けるように平伏した。
「はは、初めまして! 苗字は思い出せませんが、幸永と言う者です! 以後、ご迷惑をかけることになると思いますが、宜しくお願い致します!」
きょとんとしていた老婦は、たちまち顔を綻ばせた。
「まぁまぁ、お若いのにご丁寧に。貴方の話は、友江から聞かせて頂きましたよ。気の毒なさったんですってね。まぁまぁ、頭を上げて下さい。私なんかにそんなに下げることなんかありませんよ。こちらに座って、ゆっくりお話しましょう」
「は、はい!」
幸永は勢いよく頭を上げ、その勢いのままに立ち上がった。数歩移動するのみであったが、あろうことか手と足が一緒に出てしまい、動きがかなり固かった。そして、老婦とは木製の低いテーブルを挟んで、対面する位置に座った。勿論正座である。
老夫も哄笑しながら、老婦の隣にどかりと腰を下ろす。
そこに友江が入って来た。相変わらず笑みを浮かべつつ、上座に座った。丁度、幸永と老夫と老婦を挟むような形だ。
友江が口火を切る。
「何かこっちに向かってくる途中で、幸永さんが自己紹介したみたいだから、両親の紹介は私からします」
友江は顔を幸永に向け、左手を開いて上向きにし、老夫を差した。
「こちらが私の父、柳川進平です。多久さんがさっき言ってたように――」
と、ここで多久と言う言葉に反応した進平が、口を挿んだ。
「お、武に会ったのか! 何か言ってたか!?」
「お父さん、今は友江が喋っているんですから、邪魔しては駄目ですよ」
老婦が、菩薩のような笑顔を浮かべたまま、進平をたしなめた。
一見普通の笑顔ではあるが、その奥にある感情を瞬時に読み取った進平は、苦笑しながら頭を掻いて黙り込んだ。
友江は、老婦ににこりと微笑むと話を続けた。
「草野球チームに所属している心身ともに、元気な父です。因みに、来年の2月で68歳になります」
「ろ、68歳ですか!? いやあ、とても68歳に見えまないですよ」
幸永は、年齢を聞いて感嘆とした声を漏らした。
改めて進平を見てみると、なるほどと思えるほど、歳の割りに若く見える理由が分かる気がした。腹は酒腹なのか太鼓腹ではあるが、他の箇所は鍛えているらしく、筋肉が隆々していて存在を誇示していた。特に、腕は丸太のように太い。髪は短髪ながらも、白髪よりも黒髪の方が目立つ。先ほど見た限りでは背も幸永と変わらないし、同年代のお年寄りを並べてみても、9割9分は同年代とは思われないだろう。
「がっはっはっは! そうであろう、そうであろう! 俺は他のご隠居方と違って若作りしてる方だからな! それに、大病ひとつ患ったこともない!」
乱世に生きる荒武者のような笑い声を挙げると、半袖のシャツを捲くって腕を曲げ、力こぶを作って見せた。
「おお~……」
幸永が進平の上腕二頭筋に感心したのか見とれていると、友江が大きめの咳払いをひとつした。そして、さっき進平にしたように左手を開いて上向きにし、老婦を差した。
「こちらが私の母、柳川江里です。さっき私が言ってたように、春風駘蕩な母なんですよぉ。滅多なことじゃ怒りませんし、常に誰彼ともなく優しい口調で話しかけるんです。差別や偏見はしないし持たないし、面と向かって言うのはちょっと恥ずかしいんですけど、私が尊敬する人物のひとりでもあります」
「確かに初対面ですが、見るからに良い人ということがひしひしと伝わってきますね」
江里は、口を隠すかのように手を当て、ほほほと上品に笑う。
「まぁまぁ、お世辞がお上手ねぇ」
改めて江里を見ると、頭はすっかり白髪のみだが、歳の割りには髪の量が豊富で、しかも少しパーマをかけている。顔はふっくらとしていて、笑っていなくても愛嬌のある顔は、遙か昔は相当な美人で鳴らしていたと容易に想像できた。またその居住まいから、人を安心させるような、もしくはゆったりとさせるような、とにかく不思議な空気を醸し出しているようでもある。
幸永は友江と江里を交互に一瞥する。
(なるほど、柳川さんはお袋さんに似たんだな。……親父さんに似ていたら、ちょっと嫌だな)
幸永は心中で苦笑した。
「いえいえいえ。そう言えば、失礼ですがご年齢は?」
「ほほほ、幸永さんは私のことを何歳だと思っていますの?」
逆に問われた幸永は、暫時黙考する。
「そうですね……50台に見えますね」
「まぁまぁまぁ」
江里はまたしても口に手を当て、静かに笑う。
「私はお父さんと同じなんですよぉ」
「と、いうことは68歳ですか……。全然見えませんでしたよ」
「まぁまぁ、ありがとう。幸永さんが、お世辞が上手で謙虚な人で良かったわ。ねぇ、お父さん」
「いやいや、そんな……」
幸永が恐縮しきった顔でうつむいた。
そんな幸永の肩に、強い衝撃が襲った。テーブル越しに進平が半身を乗り出して、叩くように置いたのである。
当然、驚いた幸永は顔を素早く上げた。そこには、満面の笑みを顔一杯に浮かべた進平が居た。
「そうだな、母さん。いやあ、本当は幸永くんみたいな若者が息子に欲しかったんだ! どうだね幸永くん、つべこべ言わずうちの養子にならんかねっ!?」
幸永の肩をがっしりと掴み、目を爛々と輝かせる進平は、半ば本気で言っているようだった。
「えええっ!?」
「お父さん」
進平の耳に、2方向からたしなめる声が聞こえた。目だけ動かすと友江と江里の微笑みが見えた。しかし、よくよくテーブルの下を見れば、友江が右足、江里が左足の太もも辺りをつねっていた。
進平は、つねられていることをおくびにも出していなかったが、身の危険を察知した。
驚愕している幸永に気づく余裕などない。もしも見ていたら、更に驚愕しそうではあるが。
進平は乗り出した身を引っ込めて、あぐらを掻く。
「いやいやスマン、気が早すぎた。若干忘れてくれ」
江里が更に指に力を入れた。常人なら悲鳴を挙げている段階である。
「むむっ。や、やっぱり、忘れてくれい!」
それを聞いた友江と江里は、進平の太ももから指を離した。
「は、はあ……」
もう何が何やらといった表情の幸永。
友江が口を開く。
「このように、私も両親も幸永さんを歓迎しています。いえ、むしろ大歓迎なんですよぉ。お気に召しましたかぁ?」
幸永の背筋がまっすぐ伸びる。
「はい。歓迎なんてそんな……自分みたいな奴が、柳川さんの家に住めるなんて、嬉しいことこの上ないです」
言い終わると後ろに一歩ほど下がった。
「こんな素性も知れない奴ですが、宜しくお願い致します!」
深々と頭を下げる幸永。
「こちらこそ宜しくお願いします」
「うわっはっはっは! 若い野郎が来て父ちゃん嬉しいぞ! 宜しくな!」
「宜しくお願いします。家族の一員となったからには、色々とお手伝いとかして貰いますよぉ」
一拍の間を置いて三者三様の答えが返ってきた。
幸永は跳ねるように頭を上げて喜色を表にした。
「は、はい! 有難う御座います!」
お礼を言うや、また畳に額を擦りつけるように、頭を下げた。
「よーし、今宵はめでたい! ほらほら幸永くん、男が頭なんかいつまでも下げているもんじゃない! 面上げて、酒でも飲もうじゃないか!」
「まぁまぁ、まだお昼前ですよぉ。でも、今日はおめでたい日ですしねぇ」
「おっ! 母さん分かっているじゃないか! よし、取って置きの酒を取りに行くか!」
進平が機嫌良く居間から出て行く。
「さて、私も遅まきながら、お昼ご飯を作りますねぇ。幸永さんは友江とゆっくりしていて下さい」
「はいっ」
江里も隣接している台所に向かった。
友江がしみじみとした顔になる。
「静かになりましたねぇ」
「そうですね」
幸永は少し疲れたのか、気の抜けた声を出した。しかし、すぐに居住まいを正し、友江を見つめる。
「柳川さんのおかげで本当に色々と助かりました。有難う御座います」
「いえいえ、どう致しまして。あ、そうそう幸永さん。私のことをこれから柳川さんじゃなくて、友江と呼んで下さい。今日から家族なんですからぁ」
暖かい笑みを浮かべながら、不意に手を差し出す友江。
「分かりました。今日から宜しくお願いします。友江さん」
その手を握り笑い合うふたり。
そこに、進平が頃合が良いのか悪いのか、酒瓶を肩に担いで入って来た。
「おうおう、早速手なんか握り合っちゃってぇよ! もうそこまで進んでたのか! 今のわけーもんは早いなっ! 俺と母さんの時代じゃ考えられねかったな!」
幸永は慌てて手を放す。
「す、すいません!」
進平が豪快に笑う。
「何の、謝るこたぁねえよっ。それよかこれからも友江と仲良くしてやってくれよ!」
「はい! 有難う御座います!」
その後酒盛りが行われたが、幸永は日本酒を5合にビールを2本ほど飲んだところで、酔い潰れたという。