04章……豪放磊落と春風駘蕩(前編)
病院の昇降口にひとり、幸永がスーツ姿のまま突っ立っていた。
友江が同居を勧めてきてから、2日経った。今日は晴れて退院することになり、こうして昇降口に立っている。
勿論スーツは自殺した時のスーツで、あちこちに小穴から大穴が空いている。何ともみっともない格好であり、先ほどから10人中2,3人には横目や後目でちろちろと見られていた。恥ずかしさと暑さで汗が吹き出るようである。幸永は、ハンカチで顔の汗を拭いながら、早く迎えに来てくれることを切に願っていた。
因みに、友江が迎えに来てくれると言う。なにで来るかは聞いていない。と言うよりも、教えてくれなかったらしい。
(まさか、自動車で来る訳ないよなあ……。何だかんだで結構のんびりしている人だし。でも、ハンドルを握ったら性格が変わるタイプかもな。マニュアル車をそつなく運転してたら、惚れるかも)
「幸永さ~ん」
幸永が勝手な妄想をしていると、右方から呼ぶ声が聞こえた。そちらを向くと友江が、肩より少し伸びた後ろ髪をなびかせながら、小走りでこちらに向かってくるのが視認できた。
「あ、柳川さん」
友江が良い匂いを漂わせつつ、はあはあと息をしながらにこりと笑う。
「お待たせしましたぁ。すいません、待たせてしまって」
「そんなことないですよー。今さっき昇降口から出たばかりですよ」
「そうなんですかぁ。なら、よかったです。早速ですが、行きましょうか」
「そうですね。お願いします」
ふたりは横並びになって、歩き出した。
幸永が気になっていたことを思い出し、はたと手を打った。
「そう言えば柳川さんは、今日はどうやってここまで?」
「勿論、車で来ましたよ~」
友江が小首を傾げながら、事も無げに答えた。
「ええっ!? マ、マニュアル車ですか? それともオートマ車ですか?」
「今時珍しくマニュアル車みたいでしたよ~」
しばし言葉を失う幸永。
(ま、まさかマニュアルとは……。こりゃ、相当な運転テクニックを持っているに違いない……)
心の中で生唾をごくりと飲み込む。
その様子を不思議そうに覗き込む友江。しかし、幸永は難しい顔をしたまま黙ったままであった。
そのままふたりは、車が停まっている所まで来た。
友江が助手席側に立つと、窓が下げられた。
「すいません、お待たせして」
運転手席に座っている初老の男性が、笑いながらいやいやいやと手を振る。
「そんなに待ってねーよ友江ちゃん。ん? んんんんんっ? 後ろに居る兄ちゃんはあんたの彼氏かい?」
友江は喜悦を浮かべながらも、きっぱりと一刀両断する。
「違いますよぉ。今日から一緒に住む同居人です」
「はっはっは、そうかいそうかい。そいつぁー良かった。まあ、早く乗んなよ。外は暑いだろうに」
「はい。ほぉら幸永さん、行きますよ」
友江が一向に動こうとしない、幸永の手を引いた。
引っ張られて空想の世界から戻された幸永は、後部座席に乗る瞬間に上方を見た。屋根には何とかタクシーと書かれ、台形のプレートのような物が立てられていた。
(なーんだタクシーで来てたのか)
そう思った時には、タクシーは出発して病院の門から出た後だった。
「私の両親を四字熟語で言えば、父は豪放磊落で母は春風駘蕩ですね」
友江は頬に伝った汗を、折り畳まれたハンカチで拭き取った。
「ほう、バランスが取れたお両親なんですね」
「そうですかねぇ? あ、幸永さんもこれを使って下さい」
友江が鞄から無地のタオルを取り出して、幸永に手渡す。
「どもです。有難く使わせて頂きます」
折り畳まれたタオルをそのままに、汗が浮かぶ顔や首筋を、幸永は丹念に拭いていく。
ふたりの会話を聞いていた運転手が、気持ち良さそうに笑い出した。
「はっはっは、進さんが豪放磊落か! そいつぁーいいやっ」
「だって、その言葉以外思いつかないじゃないですかぁ。多久さんは、家の父の事をどう思っているんですか?
「そうさな、んー……」
多久はしばらく考えるような顔をしていたが、すぐに笑いながら、
「やっぱ、友江ちゃんの言う通りだな。俺にも豪放磊落しか思いつかねえなっ!」
と言い放ち、更に豪快に笑った。
一部始終を見ていた幸永が、呆然とした顔で友江に訊ねる。
「柳川さんは、この方とお知り合いなんですか?」
友江が多久の高いテンションに圧倒され、呆然としている幸永に、多久との関係を説明しようとする。
「ええ、多久さんは――」
しかし、そこに多久が割り込んだ。
「お、そこな兄ちゃん、俺に興味があるようだな。よーし、答えてやろうじゃねえか! 俺は多久武徳っつうタクシー運転手で、今年で御歳50歳の初老の親父よ! 友江ちゃんの親父さん――まあ、俺や他の奴等は進さんと呼んでいるが、それはともかくだ。えーっとな進さんとは、草野球のチームが一緒なんだよ! そういう訳で以後お見知りおきをってやつだ!」
多久は言い終えて、豪傑笑いを車内に響かせた。
「よ、宜しくお願いします」
圧倒され半ば戸惑いつつも、幸永は頭を下げた。
「多久さんが説明した通りです。因みに、父や多久さんが所属している草野球チームの方々は、みんな気持ちの良い方ばかりなんですよ」
幸永は、心なしか嬉々として話す友江が勧誘しているように聞こえた。
「そうそう。どうだい? 兄ちゃんも男なら野球に興味あるだろ? 兄ちゃんのようにわけーもんが入ってくれれば、活気づくぞと思うんだがな」
「そ、そうですね……」
「ええい、それなら河川敷の近くにある銭湯の有馬屋の入浴賃を5回奢る! いや、風呂上りのコーヒー牛乳だって奢るぞ! どうだ、こんな好条件他にないだろ!?」
「いえ、あの、その……」
幸永がなおも言葉を詰まらせる。
(弱ったなぁ……野球はできるんだろうけど、こうも必死だと何か怖いな……)
幸永が困っている様子を見て、友江が助け舟を出した。
「まあまあ、多久さん。初対面の幸永さんに、そんなに熱くなっちゃ駄目ですよぉ。ほら、幸永さんだって困っているじゃないですか」
(た、助かったあ……有難う柳川さん)
女神を見るような目で、友江の横顔を見つめる幸永。
多久は、少し申し訳なさそうな顔になる。
「おっと俺としたことが……すまねえな兄ちゃん。俺も気をつけてはいるんだが、野球のこととなると、つい年甲斐もなくはしゃいじゃうって言うか、熱く語っちまうんだよな。我ながら悪い癖だわ」
「いえいえ。歳をとっても、夢中になれるものがあって凄く羨ましいです。多久さんの熱意は十分に伝わりました。しかし、何ぶん唐突のお誘いで、自分としても気が動転しているんですね。回答は、もう少し時間が経ってからでも宜しいですか?」
「おうともよ! 俺はいつだって待ってるぞ。他のメンバーや進さんも大歓迎のはずだし、気が向いたらいつでも来てくれよ!」
「はい! 有難う御座います!」
と、頃合を見計らったように、タクシーが木造の一軒家の前に停まった。
「お、話が一段落したところで着いたぞ。縁起がいいねえっ」
「有難う御座いました」
幸永と友江が声を揃えて礼を言いつつ、タクシーから降りた。
多久は、運転席側の窓を開け、顔を出してふたりの方を見やる。
「おうっ。またな、友江ちゃんに兄ちゃん。進さんに宜しくな!」
多久は、顔を引っ込め窓を閉めてたか思うと、先ほどとは打って変わって法定速度を軽く振り切っているような速度で去って行った。
「ただいま~」
「お、お邪魔します……」
がらがらと戸が横に滑る音と、ふたりの若い声が玄関に響く。
「ぬわに、帰って来た!?」
その声に敏感に反応した歳の上では老人の男が、奥の居間から飛び出すように出てきた。そして、草食動物に襲い掛かる肉食動物のように、足音荒々しくふたりの許へ走ってきた。
「おおっ! 君が幸永くんか!? 思ったより良い男じゃないか! 気に入った! ささ、早く入りたまえ!」
老夫が両手で幸永の両肩をがっしりと掴んだ。
「え? え? ど……どちらさまで?」
幸永はあまりにも突然のことに、あたふたしながら友江に訊いた。
友江が甘露を飲んだような顔になる。
「こちらが父です」
「そ、そうなん――」
「よし、靴は脱いだな! 母さんにも早く会わせてやろう!」
老夫は、幸永の方に置いていた手を放し、その両手を今度は幸永の左腕を握って、引き摺るように歩き出した。
「ですかぁ~……」
老夫に引き摺られ、奥の居間に消えて行く幸永。
こうなることを予測していたのか、至って冷静に笑みを浮かべながら見ていた友江も、ゆっくりと靴を脱ぎ、奥の居間に向かった。