03章……脱却と出会い
暗闇の世界にひとり、幸永はたたずんでいた。
光が差し込まれず、何も見えない世界。雑音、雑踏などの生活音は全く聞こえない。自分の手足も顔も目も鼻も口があることさえも確認できない。自分がどんな格好をしているのかも分からない。
茫漠たる暗闇の世界の中で幸永はただ独り、思考能力が皆無である人形のように、突っ立っていた。
気がつけばある日から幸永は、この世界に定期的に来ている。いや、来たくなくても、連れてこられていると言った方が正しいのかもしれない。
当初の幸永は、必死に抵抗をしてみたりもした。走り回ったり、蹴りを入れてみたり、拳を繰り出してみた。家族の名前も、先生の名前も、友達の名前も、知り合いの名前も呼んでみたりした。
しかし、反応はない。全く以って一切皆無。走り回っても何も当たらないし、石ころの1つもないし、殴ったり蹴ったりしてみても、感触はない。ただ、空を切るのみ。呼びかけにも返事がない。もう1度走り回ったり、殴ったり蹴ったり、呼んでみた。だが、結果は同じだった。
堪え切れなくなり幸永は、慟哭した。自分の声や自分が発する物音しか響かないことに懼れ恐怖した。
初めて連れてこられた時は、そこで目覚めた。
それから連れてこられるたびに、幸永は徐々にその世界に取り込まれていった。ひとつひとつの行動を無駄だと思っては諦めた。やがてはこの世界では何もせず、ただただ思考も行動も停止せねばならないことを悟った。
(叫んでも喚いても、どうせ独り。ならこうやって、ひたすら俺自身が目覚めるのを待ってた方がいい)
いつしか幸永は、そんな事を自分自身に命じていた。
今回も幸永は身じろぎひとつもせず、余計な事も考えず、目覚めを待っていた。無音、無臭とにかく無と暗闇が支配する世界。
突然、幸永の頭上に紙のような薄っぺらい物が舞い降りた。それに驚いた幸永は、頭上を仰いだ。すると突如として光が射した。あまりの眩しさに目を細め、右手で庇を作りつつ直視し続ける。
天井と思われる所が、楔を打ち込んだようにひび割れ、頭上を覆っていたと思われる紙のような物が、ひらひらと舞い落ちてくる。その都度に少しずつ幸永を射す光が増えた。
そして、とうとう天井が崩壊した。無音でなければ、さぞ豪壮な音を立てて崩れ落ちただろうと、容易に想像できるほどだ。それほどまでに、凄まじい量の紙のような物と光が幸永に降り注いだ。
天井の崩壊が周りにも伝播し、幸永の目の前や右方や左方や後ろ、足元をも崩壊するに至った。暗闇の世界が完全に崩壊したのである。
暗闇の世界が崩壊し、それでもまだ視力さえも奪ってしまうような光が、四方八方から発せられていた。
幸永は目を糸のように細め、今度は何処の世界に放り出されたのか、視認しようとする。しかし、こうも眩しくては何も見えてこない。
光の中で困惑していると、不意に人の腕が現れた。幸永はいきなり出現した腕に驚き、飛ぶように退いた。よくよく見ると白皙の手は、握手を求めるかのように、開かれている。
幸永は、その傷ひとつとない白皙で綺麗な手に惹かれ、握った。温かみを感じたその瞬間、視界が白一色になり、何も見えなくなってしまったのだった。
幸永がゆっくりと目を開けた。右方から目映いばかりの光が、起きたての幸永の目を攻撃する。視界がまだはっきりとしていないのか、しばしぼうっとしたままだった。
(ここは何処だろう?)
やがて、視界が徐々に開けてきた。それとともに意識も明瞭になってきた。
その時、鈍い痛みが全身を奔った。苦痛で顔を歪める幸永。
(なぜかは知らないけど、怪我しているみたいだな……)
幸永が右手で体のあちこちを擦る。ふと、左手に温かみがあることを感じた。手を見ると、夢の中で見たのと同じ白皙で綺麗な手がそこにあった。しかし、夢の記憶は幸永に残っていない。
(手があるってことは、人もいるよな)
などと、幸永が馬鹿な事を思いつつ、顔を上げた。
「え……」
思わず幸永は息を飲んだ。そこに、薄桃色のワンピースを着た女性が居たからだ。
彼女は、美しく整った目鼻立ちをしており、しかも少女の幼さを残したような童顔。背はそんなに高そうではない。体の線も細く、余計な贅肉はついてない感じだった。肩まで掛かる黒髪は、小さい顔をより小さく見せていた。
「あ……お、お目覚めですかぁ?」
彼女が、少し驚きつつもにっこりと微笑みながら、頬を赤らめて幸永に絞り出すように訊いてきた。
「ええ、まあ……」
幸永は、彼女に見惚れていた。だから、
「良かったぁ。なかなか目を覚まさないので、心配だったんですよぉ」
「は、はあ……」
「お医者さんも、怪我は大した事ないって言ってましたし、早く退院できそうですねぇ」
「え、ええ……」
「……話聞いてます?」
「う、うん……って、聞いてます聞いてますよっ!」
返事もついつい生返事を返していた。しかも何度も。
彼女が笑顔のまま頬を少し膨らませる。
「何度も同じ言葉を繰り返す人って、大体人の話を聞いてないんですよねぇ」
「う……すいません……」
図星をつかれた幸永は素直に頭を下げた。
「ふふ、謝らなくてもいいんですよ」
「それにしても……何で病院のベッドの上に俺はいるんでしょうか。しかもあちこち怪我してますし」
「それは貴方が崖から飛び下りたからですよぉ。幸いにして命に別状はなかったから良かったも――」
話を聞いていた幸永は、布団を蹴飛ばさんばかりに驚いた。
「ええっ? ま、待って下さい! 崖から飛び下りた!? 俺がですか!?」
「そ、そうですよ。飛び下りる瞬間は見てませんけど、崖下の小道に倒れてましたぁ」
幸永のあまりに突然の豹変ぶりに驚きつつも、彼女は努めて冷静に答えた。
「崖? 何で俺があんな所に? 自殺? 何で自殺するんだ?」
頭を抱え、ぶつぶつと頭の中で湧いてくる疑問を口にする幸永。
その様子を見ていた彼女が、ある事を直感した。
「もしかして……あそこにいたことを憶えていないんですか?」
幸永の口の動きが止まり、はっとしたような表情で彼女の目を見つめる。
「そうなんですよ。全くもって何にも憶えてないんですよ……」
幸永がふうっと息を吐くと、またも頭を抱えて念仏を唱えるように、再度疑問を言い出そうとする。
「憶えていないのなら、私が見たままですけど……話しましょうかぁ?」
彼女は、また幸永が同じ事を繰り返すのを見て入られなかったのか、即座に割り込んだ。
「お願い致します!」
半分猛り立ちつつ、一度彼女を見つめて頭を高速降下させる幸永。
「わ、分かりました」
その威勢にたじろぎつつも、彼女はその時の状況を話し始めた。
話を聞き終えた幸永が、深い溜め息をひとつつくとしばらくの間緘口した。
「俺は何て馬鹿な事をしたんだ……」
ぽつりと出た言葉に体が反応したのか、前のめりに突っ伏す。
だらしなく前に伸びきり、突っ伏した幸永を心配そうに見ている彼女も、かける言葉が見つからなかった。
またしても沈黙の時間が流れた。
突っ伏している幸永は、しまったと思った。
(まずいな。このまま俺が黙ってたら、この人は喋り辛いだろうな……よし、ここはひとつ)
突っ伏した体勢から一気に上体を起こすと、驚く彼女を尻目に笑顔を作った。
「それにしても、貴方は親切な方ですね。こんな奴ほっとけば良かったのに、助けるなんて。本当、有難う御座いました」
「え、いや、そんな事ないですよっ。私は、当然のことをしたまでだと思っていますので、お礼などぉ……」
行動の読めない幸永に、完全に虚を衝かれた彼女は、若干しどろもどろになって答えた。
幸永は彼女の言葉を一切聞いていないのか、捲くし立てるように続ける。
「しかも、貴方のような方に助けて頂いて且つ傷の手当までして頂いて……俺はなんて幸せ者なのかとっ……! 怪我さえなければ欣喜雀躍したいところですが、今動くと痛そうなので止めときますっ! それでも、それでも! 今の俺は歓天喜地ですっ! 本当に……本っ当に有難う御座いました!」
言い終わるや、幸永は頭をギロチンの刃のように落下させる。そのままベッドに頭を打ちつけたと思うと、そのままスプリングが利いたのか撥ねかえった。
(あれ? 土下座をするつもりが、撥ねかえったぞ)
撥ねかえると思っていなかった幸永は、謝る前の体勢に戻ったまま茫然自失となった。
その一部始終を見ていた彼女は、様々な思いが駆け巡った。素直にお礼を言うか、(打ちつけた)頭大丈夫ですかと言うべきか、とりあえず引けばいいのか、と。しかし瞬時に答えは出た。今は笑おう、と。
「ふふふふふ、有難う御座います。私、こんなに真摯になって謝る方を見たことなかったので、正直呆気に取られてしまいましたぁ。面白い方ですねぇ」
茫然自失としながらも、口に手を当てながら笑う彼女を目の端に留めていた幸永は、何とか沈黙から脱したことを悟った。
「そ、そうですかっ!? いやあ、そう仰られると嬉しいなあ」
幸永が照れながら頭を掻く。
「そう言えば、貴方のお名前を訊いてませんでしたねぇ。私は、柳川友江と申します。以後宜しくお願い致します」
「こりゃご丁寧に。柳川さんですね。こちらこそ宜しくです。あ、俺も自己紹介がまだでしたね。俺は……えー……えーっと……」
幸永が顔を天井を向けて、うんうん唸って思いだそうとしている。
(って……何も思い出せないな。何でだ? こうも自分のことを憶えていないって、ありえないぞ)
この所作に友江は、またしても直感せざるを得なかった。
「もしかして、名前も……ですか?」
天井を向いて、うんうん唸っていた幸永の顔が、ゆっくりと降りてきて友江を捉える。
「そう、みたいです……」
「そう、ですかぁ……。生年月日もですか?」
首を縦に振る幸永。
「住所もですか?」
頷く幸永。
「そうなんですかぁ……。落ちた時に頭をぶつけたんでしょうね。その衝撃で記憶喪失になったとか……」
「記憶喪失!?」
幸永の上体が、背後から誰かが突き飛ばしたかのように、再びそれなりの音をたてて突っ伏された。先ほどの頭みたく、撥ね帰って来ない。そのまま全く動かなくなった。
「だ、大丈夫ですか?」
友江は無駄だと思ったが、訊いてみた。案の定返事は帰ってこない。
幸永は悩乱しつつも、脳味噌を何とか働かせて様々な考えを巡らせていた。
(名前も生年月日も住所も祖父母両親きょうだい親戚の名前も憶えていない。こんなに絶望する事はないぞ……。しかも、今の世の中生きていく為には金は必要だろうし。でもなあ、通帳を何処にやったか思い出せないし……あ、せめて財布があれば、何らかのカードが入ってるはずだ。免許証も多分あるだろう。俺と一緒のツラをしていたら……それが今の俺だ!)
幸永がいきなり上体を引き起こすと、懲りずにびくっとなっている友江を尻目に枕元を見た。枕元には、着ていたスーツの上下が綺麗に折りたたまれて置いてある。スーツのポケットとズボンをまさぐった。しかし、何もない。最後の望みを絶たれ、心情的に絶望の淵に立った幸永が、また突っ伏そうとしたその時。
「待って下さい」
凛とした落ち着いた声が病室に響く。心なしか友江の顔が、怒っているような表情をしていた。
「え?」
「まずは落ち着きましょう。これじゃ堂々巡りになってしまうばかり。ひとつ、貴方は名前も分からなければ身元も分からない。この件に関しては、デジカメで写真を撮って警察に届け出ましょう。ふたつ、何もかもを失って住む所がない。この件は私が何とかしますので、次回お見舞いに来た時にでも朗報になるよう、尽力します。宜しいですね?」
「は、はい」
人が変わったように声色を若干変えて流暢に語りきった友江に、幸永はいささか驚いた。
鞄からデジカメを取り出し、2,3枚幸永を撮ったのち、相好を崩す友江。その顔は先ほどまでの困った顔ではなくて、幸永が目覚めた時に見せていた向日葵のような笑顔だった。
「じゃあ、私はそろそろ帰ります。早速、色々な事をしなければならなくなったので」
「なんか、本当すいません……。俺なんかの為に良くして下さって」
「いえいえ、お気になさらず。きっとこれも何かの縁です、私もできる限りの事をするので、貴方も自分でできることは自分でして下さいねぇ」
「分かりました。とりあえずは養生しようと思います」
「うん、それが一番です。では……」
そう言ったきり、動こうともせずにある一点を注視している友江。顔色も段々赤みを帯びてきていた。
「どうしたんですか?」
幸永はその変化に全く気付かず、いつまで経っても動かない友江を不思議に思った。ふと、友江が見つめている方を見てみると、自分の手と友江の手がずっと繋がれたままことに気づいた。
「す、すいません!」
謝辞を述べつつ慌てて手を放し、引っ込める幸永。
「あ、いえ、こちらこそ! では、今度こそ失礼します!」
先ほどまでの平静さは何処へやら。顔を熟れたトマトのように真っ赤にし、友江は足早に立ち去って行った。
幸永は友江を見送った後、握っていた手をしばらくの間、射るような眼差しで見つめていた。
数日後。
「どうも。元気にしてましたか~」
病室に間延びしたような声とともに、友江が入って来た。両手で様々な種類の果物が入ったバスケットを携えている。
「ええ、怪我もだいぶ良くなりました。それに、たった今柳川さんが来られたおかげで完治しましたよ」
両腕を嬉々として勢いよく回して見せる幸永。
「いってえ!」
しかし、痛みが走ったのか悲鳴を挙げた後、渋面を作った。
「ほらほら、あんまり無理しないで下さいよぅ。これはお見舞いです。良かったら、召し上がって下さい」
「おお、有難う御座います! いやあ、いい加減病院食にも飽きてた頃だったんです。あんな不味いものなんかより、旨みと甘みが沢山詰まってる果物の方が、一千万倍マシですからね!」
ふたりは顔を見合わせてしばし笑い合った。
一通り笑い終えたところで、友江が成果を発表し始めた。
まずは身元特定。警察に頼み、捜し人としてあちこちにビラを貼ったものの、今のところ情報はなし。両親や親戚と名乗る人物もまだいないらしい。
次に、あと数日で退院しなければならない幸永の、引き取り先のついての話になった。
「あれから、家に帰って両親に話したんですよぉ。そしたら、ふたつ返事で快諾してくれました」
「はい?」
いきなりそんなことを言われても、理解できるはずが無い。幸永の頭上に無数の疑問符が浮かんだ。
「どういうことですか?」
「どうもこうも、私の家に住む事になったんですよ」
「え……えええええっ!?」
病室中に響き渡る幸永の大音声。
その大音声を友江は、耳を塞ぎ損ないまともにくらった。
「そ、そんな……。柳川さんの家は、見ず知らずの野郎がある日突然上がり込んでもいいんですかっ!?」
「え、ええ……父も母も『息子がひとりできたみたいで嬉しい』って言ってましたし、問題ないかと」
頭の中身が、幸永の大音声によって攪拌されそうになりつつも、両親の意のままを伝えた友江。
「ででで、でも、俺みたいな奴が住んでも柳川さん自身はいいんですかっ!?」
「はい」
「えええ――」
「黙りなさい」
目を回していた友江が真顔になって、冷淡な声を発した。これ以上叫び声を聞きたくないのだろう。
「す、すいませんでした」
幸永が謝ると、
「分かればいいんですよぉ」
友江の顔が笑顔に戻った。
「本当に悪いですよ。これまでも何度も助けて頂いたのもありますし、今回は同居なんて……」
「そうですか……」
友江が肩をがっくりと落とし、悄気返った。
その様子を見た幸永は、困惑しつつも色々と今の状況を顧みた。
(よくよく考えれば、退院しても住む所がないんだよなぁ……。その他諸々問題も出てくるだろうし……ここはご厚意に甘えようとしよう)
幸永がにこりと笑う。
「でも、折角のお誘いですし、どうせ退院したって住む所が無いわけですし、お言葉に甘えてお世話になっても宜しいですか? ご両親のご好意もあるみたいですしね」
「え? ……ほ、本当ですか?」
友江の顔に明るさが戻ってきた。
「はい! 不束者ですが、宜しくお願い致します」
何処ぞの花嫁のように、正座に直り、その姿勢のまま三つ指をついて、深々と上体を折り曲げた幸永。
その姿に思わず友江が吹き出した。
「そんな、お嫁に行くんじゃないんですから。こちらこそ宜しくお願い致します」
友江も深々とお辞儀を返した。お辞儀をし終えたあと、あることを思い出した友江は、手を打った。
「そう言えば、名前はどうしましょうか?」
「名前? ああ……どうしましょっか? 好きに呼んで下さって結構ですよ」
名前のことをすっかり忘れていた幸永は、自分の事ながらも面倒臭いのだろう、友江に一任することにした。
「では、私の好きな言葉からでもいいですか?」
「いいですよ。本当に、ポチでもタマでもシロでも何でもいいですから」
「ふふふ、犬や猫じゃないんですから。永遠と幸せから字を取って"幸永さん"と言うのはどうでしょうか?」
「幸永ですか~。良い名前だと思いますよ。いやー、柳川さんはセンスがいいなあ」
幸永に褒められ、友江の顔がより一層綻んでいく。
「そうですかぁ? 有難う御座います。そうだ。リンゴでも剥きますね」
「いいですね。頂きます!」
これが――最初のふたりの出会いだった。記憶喪失のひとりの男と、男のことを何もしらないひとりの女。ふたりが待ち受けるのは幸か不幸か。ただ、今言えることは――。
「あれ? 上手くいかないなぁ……」
「既に丸味を帯びてませんね……四角形のリンゴですか……」
「何でこんなに上手くいかないんでしょうかぁ……?」
「こう言っちゃ失礼なんですが、柳川さんの剥き方に問題がありますね。ナイフだけ動かしちゃ、皮と一緒に実も取れちゃうんですよ。なのでこうやって――」
「うわあ、凄いですねぇ。どうやって動かしているんですかぁ?」
今はまだ、幸せだと言うことだけ。