02章……麦藁帽子とワンピース
恍惚とした表情を浮かべた女性がひとり、たたんずんでいる。
中天過ぎ去り、やや西に傾いた夏の太陽が、容赦なく彼女を猛烈な暑さと光で攻撃している。しかし春夏秋冬の中でも、人間を肉体的に精神的にも破壊するのにたやすいはずの太陽が、彼女相手には苦戦を強いられている。なぜなら、既に30分はたたずんだままであるからだ。
デジカメのシャッターが押される。すぐに確認をする。見たままの光景が写されていて、満足そうに微笑んだ。デジカメを下ろし、大海を望む――その繰り返しであった。
彼女は、薄桃色のワンピース姿。袖が二の腕ほどまであり、スカートの丈は膝まであって丁度いい長さである。暑さに適した格好だ。麦藁帽子をやや目深に被り、視界180度に広がる大海を飽きずに眺望している。肩にはやや小ぶりな鞄をかけ、手にはデジカメが握られていた。時折手を動かしては、先ほどのように陽光を反射してきらきらと光る大海を収めていくのであった。
しかし、この恍惚としていられる時間もそろそろ終わりそうであった。
少し離れた所から、何かが滑り落ちる音がした。
彼女は、その物音によって陶酔の世界から現実世界に引き戻された。弾かれたように、何か滑り落ちた方に体を向ける。
(え? 何? 誰か居たっけ……? とにかく見に行ってみよう、かぁ……)
陶酔から目覚めた彼女の行動は早かった。
木柵伝いに、時々少し身を乗り出しつつ下方を見て行く。目の眩むほどの高さであったが、人であっては一大事である。彼女は目を皿のようにして辺りを見回し続けた。
やがて、黒いと言うより紺色の物が見えてきた。その紺色の物は、波が轟々と打ちつけている遥か下ではなく、木柵から3メートルぐらい下の小道のような所に落ちていた。
(まさか……)
彼女は、思わず物が落ちている真下の位置まで駆け寄った。木柵に身を預けるようにして、改めてよく目を凝らし、真下を見る。瞬間、驚愕した。なぜなら、スーツ姿の男が倒れていたからだ。
急激に目眩に襲われる彼女。上体を起こし、ふらつく体を何とか抑えつつ、木柵から2、3歩ほど離れてしおしおと座り込んだ。
彼女は憂える。
(まさか、本当に人が倒れているなんて……。自殺……したのかなぁ? でも、あの高さからなら、打ち所さえ悪くなければ気絶して動けないだけもしれないし……。こうして私がぐずぐずしてる間にも、もしあの人が生きているんだとしたら――)
ぎゅっと拳を握る。その手はやや小さいながらも、力が込められていた。
(――私が助けなきゃ!)
決意がしおれた体に活を入れた。彼女はすっくと立ち上がり土埃を払うと、再び木柵近付いた。木柵を掴み真下を凝視する。やはりぴくりとも動かない。
(まずは救急車を呼んだ方がいいよね)
彼女は携帯を取り出し、119番に通報した。場所が場所だけに時間がかなりかかるらしい。
(これでよし、と。さてと)
何かないかと辺りを見回す。すると、一部分だけ岩が欠けている箇所を見つけた。そこに行ってみると岩を削って造られた階段になっていた。ほぼ直角で危険ではあるが、どうやら下に降りられるらしい。
彼女は思わず尻込みをした。
(まず、この木柵を超えなくちゃ。それから階段……と。うぅ、結構高いなぁ……)
それでも、なりふり構っていられまいと靴を脱いで裸足になり、木柵に足をかけた。
(今日に限ってワンピースなんか着てくるんじゃなかったな……。誰も居ないし、下着を見られることはないけど、流石に汚れるのは抵抗がいるよぅ……)
内心はこう思っていても、右足を高々と振り上げ、躊躇いもなく木柵を股で挟んだ。一息ついた後、梯子を降りるような格好で足場に降り立った。その瞬間、陽射しをたっぷり吸った足場が彼女の足を襲った。
「きゃあ!」
彼女は悲鳴を挙げながら、木柵に飛びつく。足の裏を見ると若干赤くなっていた。
(どうしよう……こうも熱くちゃ助けに行けない。かかとが高い靴なんて、履いてくるんじゃなかったなぁ……)
しばし思案する。喉が渇いたのか、思案をしながら何気なく片手で鞄の中をまさぐる。水が入ったペットボトルを取り出し、キャップを開けて少し飲む。キャップを閉めて仕舞おうとした時、彼女の意識がペッドボトルに移った。
「そうだ! 水を足の裏にかければ、熱くないかもしれない」
早速水を少量口に含み、足の裏に満遍なく吹きかけていく。そして、満を持して再び足場に挑んだ。
(まだ少し熱いけど、さっきよりもだいぶマシかなぁ)
降りて分かった事だが、足場も狭いが階段の幅がかなり狭そうだった。そのまま降りると、確実に足を踏み外しそうなほどである。そこで彼女は、体を横向きにして一歩一歩慎重に降りて行く事にした。
1段目に片足を乗せる。彼女の足が小さいことも幸いして、何センチくらいかは余裕がありそうだった。慎重にもう片足も乗せる――その動作を15回繰り返した。足の裏が、岩から発せられる熱で堪えらなくなった場合は、その都度水を口に含んで吹きかけた。
彼女は息をつく。
(やっと降りられたぁ……。はぁ……心臓が止まるかと思ったよぅ……)
彼女が降りた所は、横幅3メートルほどしかない狭い小道だった。彼女から見ると、正面は断崖で右手は小道が延々と続いている。そして左手には――。
彼女は、赤ん坊のようにはいはいで近付いた。
「大丈夫ですか!?」
彼女が呼びかけるが返事はない。そこで彼女は男を仰向けにし、右手を心臓の辺り、左手を首筋に置いた。顔を横にして男の鼻に近づける。すると、微かに男の鼻息が彼女の耳をくすぐった。心臓も弱々しいながらも動いているようだ。
「良かったぁ……生きているみたい。でも」
彼女は改めて男の全身を見た。
「酷い怪我……」
顔は落下した際に生じた土埃でうっすらと汚れ、頬の辺りに縦に少し大きめの裂傷がある。半袖を着ていたせいか、両腕には合わせて裂傷が5つもあった。ワイシャツは所々破れて肌が見え、いずれもそこからは鮮血が滲み出ている。足はズボンがあちこち破れており、そこから見える肌が内出血を起こしているらしく、青黒くなっていた。
「とにかく、血を止めなきゃ」
彼女は、ワンピースのポケットからハンカチを取り出す。次いで鞄の中をまさぐるものの止血に役に立ちそうな物は、タオルハンカチとさっき足場や階段を下りる際に使った500ミリリットルの水の余り。更にもう1本を開けていない500ミリリットルの水だった。
「目ぼしい物はこれしかないみたい……とりあえず、出血が一番酷い所にハンカチを使おう」
彼女は、左の腕の二の腕辺りがもっとも出血が酷いと判断し、まずは余った水で傷口を洗った。次に、二つ折りにしたハンカチを傷口にあてがい、思いっきり掌で圧迫した。
「ふう……これで30分ほど待つと。左手が空いているんだし、他の傷口も洗わなきゃね」
他の傷口も少量の水を上手く使いながら、汚れを落としていく。洗い終わるとタオルハンカチをまだ手をつけていなかった水で濡らし、男の額に乗せた。
「これでいいかな……? 内出血の処置は分からないから、どうしようもないしね」
一通りの処置が終わってほっとした彼女に、肉を焦がすような熱さが襲った。被っていた麦藁帽子を脱いで引っ繰り返すと、そこに腰掛けた。……と言うよりも、穴にお尻からすっぽりはまったようにも見える。何とも間抜けな格好だが、背に腹は変えられない。
「それにしても、遅いなぁ……時間がかかるとは言え、既に30分は経った気が……」
と、彼女がぽつりとつぶやいた時だった。上方から声が聞こえてきた。
「おーい、おーい! 誰か居るのか――っ?」
「おい、あそこに鞄が置いてあるぞ!」
「まさか……自殺をしたんじゃ」
「馬鹿野郎! 縁起でもないことを言うんじゃねえっ!」
「おい、下の方に人が2人居るぞ! お前等こっちこい!」
(良かったぁ……来てくれたみたい)
彼女が安堵していると、上方から声がかけられた。
「大丈夫か!? 今助けに行くぞ!」
「大丈夫で――」
答えようと彼女が上方を振り仰いだ瞬間、彼女の意識が急激に遠のいた。