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10章……復するものと喪失するもの

「待てよ幸永! 待てったら!」

「うわああ~ん! 父ちゃんと母ちゃんが――っ!」 

「そっちに行くなっ、幸永! 危ないぞ!」

「へ? 兄ちゃん? 兄ちゃ――ん!」

「ふう……あっちに辿り着いたか。幸永! 僕も今行くから待ってろよ!」

「うん! あ、あぶ……」

「幸な……が……助け……」


 かけられている毛布を跳ね飛ばす勢いで、幸永はようやく覚醒した。

「はあ、はあ……またこの夢か……」

 息は悪夢を見ていたのか荒く、瞳には涙が溜まっていて視界が歪んで見える。幸永は手の甲で涙を拭き取ると、すぐに違和感を感じた。

(ここは一体何処なのだろう……)と。

 見慣れない光景に激しく戸惑う幸永。

(テレビもテーブルも壁掛け時計も自分の着ている服さえも、自分の物じゃない。他人の物だ……)

 大小様々な疑問が頭に浮かび、とうとう幸永は頭を抱えてしまった。どうやら混乱の境地に達してしまったらしい。

 そこへ友江と進平が居間に入って来た。ふたりの顔がぱっと明るくなる。

「あ、幸永さん……目を覚ましましたか。良かったぁ……心配したんですよぉ」

 友江は、瞳を潤ませながら優しく微笑んだ。

「おおおっ! 幸永くん! とうとう覚醒しよったか! 良かった良かった! 俺は酒を飲む相手が居なくて、寂しくって堪らなかったんだぞ! 母さん! 酒だ酒! 今朝は祝い酒だ!」

 進平が高笑いすると、台所から割烹着かっぽうぎ姿の江里が、横に細長いお盆にご飯や味噌汁や焼き魚などを載せて運んできた。

「まぁまぁ、幸永さん、目を覚まされましたか。さぞ、おなかも空いていることでしょうし、どうぞ遠慮なく食べて下さいねぇ」

 江里も菩薩のように微笑んでいる。

(な、何で見ず知らずの人たちが、俺の名前を知っているんだ……?)

 えも言えない恐怖と疑心で、幸永は訳が分からなくなり、とうとう猜疑心だけが胸中を圧した。

(俺のことを親しげな目で見ているようだけど、全部嘘や偽りに決まっている……。見ず知らずの俺を油断させておいて、警察につき出す腹だろう……。一刻も早く逃げなければ……)

 顔面を蒼白にした幸永がやにわに立ち上がった。好意の視線を蹴散らすようにして誰とも目を合わせることなく、うつむいたままそそくさと居間の戸の所まで行く。そして、振り向くやさっと頭を一度下げ、誰ともなく言った。

「か、勝手に家に入って、すいませんでした……。もう、致しませんし会うこともないでしょう……。なので、身勝手ではありますが、通報するのだけは勘弁して下さい……。で、では、失礼致します……」

 もう一礼すると玄関に向かって走り、靴を潰し履きしたまま何処へともなく駆け去って行った。

 その様子を呆気に取られた様子で見ていた3人は、はっと我に返ると顔を見合わせた。

「もしかして……記憶が戻った……?」

「俺たちのことを誰とか言ってたし、その可能性は高いだろうな」

「まぁまぁ……どうしましょう」

「と、とにかくお父さん! 悪いんだけど、多久さんに電話して下さい。すぐに追わなきゃ、またあそこに行っちゃうかもしれないから……」

 友江は激しく動揺していた。不吉な事柄や文字しか頭に浮かばない。胸が締め付けられ、早く向かって助けなければという焦心に駆られている。

「あ、ああっ!」

 進平が子機を取って、多久に電話をかけはじめた。

「お母さんは……」

 友江は、今度は江里の方を向く。すると、いつの間にか普段の柔らかな表情とは違い、引き締まった顔つきになっていた。

「分かっています。友江、貴方も準備なさい。貴方が動かなければ、今後一切幸永くんと一生会うことはないでしょう。いざとなれば私も出ます。いいですか、ここが正念場ですよ」

 母の優しく力強い言葉に、焦心に駆られていた友江の心は、少しながらも落ち着きを取り戻した。

「はい。有難うお母さん」

 いつしか友江も、普段とは違う顔つきになっていた。

 対照的に江里の顔が綻ぶ。

「うんうん。それでこそ柳川家の娘よ」

「おい、友江に母さん! すぐにたけが来るってよ! 早いところ支度するぞ!」

 電話を終えた進平が、珍しく狼狽している。

「お父さん、落ち着いて。今は焦っている場合じゃないのよ」

 友江があえて冷え切った口調で言った。

「あ、ああ……」

 これには流石の進平も落ち着かざるを得なかった。


 一方の幸永はタクシーを拾って、一路自殺を図った岬に向かっていた。

 行き先を告げたきり、うつむいたままずっと黙りこくっているの幸永に、タクシーの運転手は一抹の不安を覚え、しきりに話しかけていた。しかし、ことごとく無視され、話のネタが尽きたのか運転手も無言になった。その代わり、先ほどから不安そうな目でちらちらと幸永を窺っている。

 タクシーの運転手の挙動など一切意に介していない様子の幸永は、たびたびふられる無駄話に付き合っているほど、心の余裕などなかった。ただただ、1ヶ月弱の空白を思い出そうと脳味噌を働かせつつ、なぜ死ねなかったのかを自問自答していたからだ。だが、いくら思い出そうにも自問自答しようにも何も出てこなかった。

 やがて幸永は、そのふたつを考えることを止め、死に意識を集中することにした。何せ兄が呼んでいるからだと、幸永は今朝まで観ていた夢を、そう自分なりに受け止めていた。

(今までの夢に比べて鮮明かつ明確だった……。さっきの夢ではっきりした。兄ちゃんは、俺のことを呼んでいるに違いない……。今日こそ、今日こそ……! 俺は死んで、父さんと母さんとそして兄ちゃんに会うんだ……! 俺だけ生き残る必要なんて何もない!)

 幸永は、シートに拳を突き入れた。

 その音に運転手が仰天し、バックミラー越しに幸永を凝視する。相変わらず、つむじをこちらに見せつけるようにしてうつむきつつ、今度はシートに拳を突き入れたままの幸永がいた。

 運転手が冷や汗をかきつつ、生唾を飲み込む。嫌な物を避けるようにしてバックミラーから目を離すと、目的地近くのバス停が見えてきた。天佑を得たとばかりに相好を崩す。

「お客さん、お客さん。そろそろ岬前のバス停に着きますよ。そこで降りますか?」

 運転手自身が驚くほど、声が生き生きとしていた。

「……はい」

 それに対し、うつむいたまま答える幸永の声は、底冷えするほど低いものであった。

 その声にぞっとした運転手は、たちまち笑顔を凍りつかせた。

 やがて、微妙な空気のままバス停に着いた。

 運転手が後部座席の左側を開け、引きつった笑顔で到着を告げると、うつむいたままだった幸永が、顔を上げて真正面を向いた。至って普通の――平然とした顔だった。

「すいませんが、ちょっと待っていて貰えますか……? 30分ほどで戻りますので……」

「わ、分かりました」 

 幸永が無表情に言った言葉に運転手は、断れば何をされるか分からないと思い込み、首を縦に振った。


「おっ? あれはうちの会社のタクシーじゃないかっ。何であんな所に停まってんだ?」

 多久が疑問を口にしていると、すかさず進平が焦燥に駆られた声を挙げる。

「何でもいいから急いでくれっ! 早くしねえと幸永くんが危ねえんだ!」

「了承です!」

 アクセルをより一層力強く踏み込む多久。タクシーが法螺貝を吹いたような駆動音をたてながら、急加速していく。

 全部座席のふたりはてんやわんやなのに対し、後部座席の友江と江里は冷静だった。乗ったその瞬間から毅然とした態度で、前方を黙って凝視し続けている。

 多久が、バス停近くに路上駐車しているタクシーの後方につけるような形で、タクシーを停めた。タクシーから素早く降り、停まっていたタクシーの運転席側に駆け寄った。

「おお、やっぱり秋月あきづきじゃないか! お前こんなとこで何してんだ?」

「あ、多久さん。何って人を待っているんですよ」

「人?」

「ええ、薄気味悪い奴でしてね。あっちの高台の方に行ったきり、まだ帰って来ないんですよ」

 ふたりの会話を聞いていた進平が、いきなり運転席側のドアを開けると、秋月の胸倉を掴んだ。

「し、進さん……何をするんですか」

 突飛な進平の登場に肝を潰した秋月が、苦しそうに声を出した。

 進平は意に介さず、血走った目で問う。

「それは何10分……いや、何分前のことだ!?」

「そ、そうですね。10分……いや、5分前ことだったと思います……」

「本当か!?」

「ほ、本当ですよ! 進さんに嘘なんかつきませんよ!」

 進平は胸倉から手を放しつつ、後方を振り返りながら友江と江里に向かって叫ぶ。

「幸永くんは高台に向かったってよ! 俺たちもこうしちゃいられん! 早く行くぞ!」

 しかし、ふたりの姿は既になかった。

 多久が言上するように恐る恐る言った。

「ふたりなら、既に高台に向かいましたよ」

「そ、そうなのかっ? それを早く言ってくれよ! 俺も行って来るから、武ものぶと一緒に待っててくれ!」

 そう言うと進平は、一目散に高台に向かって走っていった。

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