01章……新入社員と若い医師
中編(長編?)処女作。
2008年に勢いで書き上げられたものです。
それまではちょこちょこ短編を書いていたものの、それ以上のものは書いていませんでした。
物語の雰囲気としては暗くもあり、明るくもある。
普通の恋愛してますし、濃いキャラ(おもにおっさん)もいるって感じです
道の上に男がひとり、横たわっている。
寝ているかのように見えるし、気絶しているように見える。
傍から見れば、気を失っているのか死んでいるのかが分からない。
しかし、なぜか腕や顔に負った赤黒い擦り傷や切り傷の痕が生々しくできており、傷口から血が少しずつながらも滲み出ている。
それでも、彼は痛みを感じていないのか一向に目を覚ましそうにない。
雲のない真っ青な空の下、ひたすら熱く何もかもを焼き尽くしそうな夏の日差しを受け、彼は昏々と眠り続けていた。
バスの最後部座席に1人、若い男が座っている。乗ってからずうっと俯いたままで、表情を窺い知ることさえもできない。
彼は、たった一言の言葉に苦しみ、悩まされていた。
彼の名前は雨森幸永。22歳。4月からとある会社に働いている新入社員だ。
今日は6月27日の水曜日。普段なら、会社に出勤して仕事をしてしかるべきであるのだが、この日も胃が刺すように痛かった。4月下旬からこの調子であり、かれこれ週に1度は病院に通っている。
今日は、1ヶ月半前に行った精密検査の結果が出ると言う。幸永は遅いと思いながらも病院に赴いた。
診察室に入る前、幸永は直感的に入室を躊躇った。今日に限って薄い純白のカーテンを隔てた先で、えも言われぬ不安に駆られたからである。しかし、このままつっ立ってる訳にもいかない。幸永は軽く深呼吸をひとつしてから、扉代わりのカーテンに手をかけた。
「あ、おはようございます。雨森さん」
幸永が入室すると、医師は幸永の方に向き直り、屈託ない笑みを浮かべる。
その笑みを見て幸永は、不安が杞憂に終わった事を確信した。
「……どうも」
幸永は、無愛想に答えながら椅子に腰掛けた。
「調子はどうですか?」
「……悪いです」
「雨森さんは、相変わらずですねえ」
「はい?」
「いえ、何でもありません。それよりも聞いて下さいよ! また奥さんが――」
診察もせずに早速雑談を始める医師。
「宗像さん、またですか……」
宗像の雑談は、同僚や上司の愚痴から始まる。それが終わると悩みをぶちまけ、妻の話があってしめは娘の話で終わる――この一連の話が終わる頃には、20~30分は経過しているのである。
その間幸永は、その雑談を興味なさげに相好を一切崩さず、ただ黙って聞くだけである。
これがいつしか定着した光景だった。
(相変わらず男の癖によく喋る奴だ……)
幸永が心中で悪態をつくが、勿論、宗像に聞こえるはずもない。
「――で、今娘が水疱瘡に罹って大変なんですよ! 私なんかうつると悪いからって、追い出されたんですよ! 私だって娘が心配なのに――」
幸永は、この恒例行事がいつにも増して長い気がした。こうも長いとふつふつと疑念が湧いてもくる。壁掛け時計を横目で見ると、40分を経過しようとしていた。
「宗像さん」
「分娩の時だって……え、何でしょうか?」
話を中断されて驚いた顔になる宗像。これまで話を中断された事がなかったからである。
「何か……俺に言うことありませんか?」
不思議そうな顔になる宗像。
「言うことですか……? あ、もしかしてまた話が長引きましたか。本当にすいません。いやあ、雨森さんを見ると色々と喋りたくなるもので」
「いえ、そうではなくて……。1ヶ月半前にやった精密検査の結果ってどうなったんですか?」
宗像の動きが一瞬、石像のように固まった気がした。だが、すぐに口元が動き出す。
「あー、精密検査の結果ですか。あれはもう少しかかるとの事で、もう1ヶ月ほどお待ち下さい。連絡が行かなくて申し訳ありません」
宗像が、目は笑ったまま眉を八の字にし、深々と頭を下げる。
(まさか、俺は……)
幸永の体中に色々と湧いてくるものがある。
「宗像さん!」
幸永の疑念が確信に代わり、行動として机を掌で叩いた。二の句を継ごうとするが、唇をわなわなと震えさせるだけで何も言えない。色々と言いたい事はある。しかし、それを言った所で何にもならない。ただ、2ヶ月間築きあげた関係が壊れるだけであるからだ。
幸永は、何だかんだでこの押し付けられたような関係が気に入っていた。宗像は、診察のたびに幸永に何でも惜しげなく話すし、親近感も湧いた。宗像が幸永をどう思っているかは分からない。それでも幸永は、心中で悪態をつきながらも、宗像の事を許していた。
だから幸永は、裏切られた気分になった。例え、善意から来る嘘でも腹が立つし、悲しくもなった。様々な感情が入り混じった顔で、ただただ刺すような視線を宗像に投げ続けた。
やがて、射るような視線に耐えられなくなったのか、頭を下げたままだった宗像が、頭を上げた。顔からは笑みが失せ、物憂げなものになっていた。
「申し訳御座いませんでした。正直私は、逃げようとしていました。しかし、逃げられないんですよね」
宗像は、幸永の表情を予測していたのか驚きもしなかった。小さく深呼吸すると、話を続けた。
「雨森さん、覚悟して頂けますか? 私も辛いですが、貴方はもっと辛くなるでしょうから」
「……お願いします……」
「そうですか……。では、雨森さん、貴方は――」
宗像はその後、その一言を言って多少精神的にゆとりができたのか、堰を切ったかのように、治療方法や薬の使用有無などを話し続けた。
幸永は、血の気が引いていくのを感じた。脳髄が大きく揺れている。その病魔に対する葛藤、絶望、悲憤が混ざり混沌としている。何となく予想は出来ていた。だが、衝撃があまりにも大き過ぎた。
幸永は、とうとう堪えられなくなったのかいきなり立ち上がると、逃げるようにして診察室からとび出した。
宗像から告げられた一言。
宗像は、他にも色々と話した。しかし、とにかく幸永にはその言葉のみが、告げられた瞬間から頭痛がするほど輪唱している。
――貴方はガンです。
そのたったの一言が幸永を苦しめ、悩ませていた。
バスのアナウンスが、次の停留所の行き先を告げた。もう既に、終点の1つ手前の停留所である。
「そうだ……自殺しよう」
幸永がそうつぶやいた時には、インターホンを半ば無意識に押していた。
バスのアナウンスは、確か前崎岬前と告げていた。
前崎岬前は観光地であり、ロープウェイに乗って高台まで行くと、壮観な眺めが一望できることで有名である。
幸永は、バスから降りて今度はロープウェイに乗り込んだ。時折、風のせいで揺れはするがそれに動じる風もなく、ただじっと生気の抜けきった眼で正面を見続けるだけだった。
しばらくして停留所に到着すると、ロープウェイに乗ってた表情そのままに、歩き出した。歩き方にも力が入らず、ふらふらと歩いている。
少し歩くと青いものが視界に入った。海が見えたのである。ふと、眼を海から離すと、切り立った崖から落ちないように落下防止の為の木柵が、崖沿いに延々と連なるように立てられている。その傍には大海をゆっくりと望めるように、ベンチも等間隔も設置してあった。
幸永は、腰元ぐらいの高さの木柵を超えて、足場に立った。そこはわずか数十センチしかなく、ともすれば崩れて落ちてしまいそうであるが、もはや生気の抜けきった幸永には気になりもしなかった。
幸永は、持っていた黒皮の鞄を投げ捨てた。
鞄が遥か下方に、吸い込まれるように真っ逆さまに落ちて行く。
その落ちて行く様を幸永は、少し前のめりになって一遍たりとも眼を離さずに見届けた。
(これであと戻りできなくなった……。どうせ、生きていても1人だ……。かえってガンになって良かったのかもしれない……。父さん、母さん、兄ちゃん……これで俺も……)
と、右足を少し動かした瞬間だった。足場の岩が少し欠けてしまい、体勢を崩した幸永は、そのまま岩肌を転がるように落ちて行った。
悲鳴さえも挙げることができず、それはあっと言う間の出来事であった。