#0 勇者、立つ
僕はその日、緊張のあまりか、まだ夜も覚めきらぬ暗闇の中目覚めた。携帯の液晶の中の時計は、まだ午前四時半を指している。
窓に目をやると、ぼんやりと薄明かりが差し込んでいる。まだ冬至を過ぎたばかりだというのになぜだろうとカーテンを開けると、雪が積もっていた。東京で見る雪は何年ぶりだろう。天気予報は雪が降るなんて一言も言っていなかった。
雪はすべての音を飲み込んで、静寂より深い静けさを生み出す。僕はそうっと窓を開けてみた。絶え間なく羽毛のような雪片が音もなく庭に降り注ぐ。
僕はぼんやりと、今日は電車が定刻通り動くのかということに思いを通わせた。今日の計画は淀みなく行わなければならない。雪はまるで想定外だ。
僕の視線は、窓際におかれたローファーに移った。この靴では雪の中歩くことはできない。下駄箱に長靴があったろうか?たとえあったとしても、母に気付かれず取りにいくことができるだろうか?
雪の静寂は深い。何かひとつ物音をたてたら、世界が崩れてしまうかもしれないような恐怖が僕を包んだ。
そんな静寂を破るように、音もなく携帯の背面ランプがけたたましく橙色に光る。皐月からメールだ。
『雪なんて聞いてないんだけど!とりあえずこちらは予定の一時間前には決行予定。会場にて待つ』
要件だけの絵文字ひとつないそっけないメールは、皐月が女だということを忘れさせてくれる。やっぱりあいつからの着信ランプはピンクではだめなんだ。僕は彼女の短い髪型を思い出してニヤリと笑うと、意を決して洋服を着替え始めた。黒のタートルネックのセーターに、ベージュのチノパンを合わせる。厚手の黒いソックスを履くと、僕は部屋のドアをそっと開け、玄関に向かった。
僕はリビングの前のドアではっとした。キッチンの電気が付いているのだ。僕が戸惑っていると、リビングのドアが開いた。
「おはよう、匠。朝御飯、食べていくわよね?」
そこには、何もかもを知り尽くした笑顔のその人がいた。
「…母さん」
「今日は貴方の16歳の誕生日でもあったわね?勇者は誕生日の日に、冒険に出るって相場が決まってるのよ?」
悪戯っぽく微笑む母の背後には、おそらくは16本であろう蝋燭が立てられたケーキと、赤いリボンがかけられたムートンブーツが置かれていた。
僕は観念した。
2032年12月18日、僕はその日、16歳になった。




