魔物
暗闇の中に目を凝らすと、朧な影が浮かんでいるのがわかる。
深い底から聞こえて来るような低い息遣いが感じられる。
「――悪く思うな。人に仇名す存在は生かしておけん」
俺は刀に手をかけた。姿こそはよく見えないが、ヤツの位置なら息遣いから把握した。完全に斬撃の間合いに入っている。
「・・・・・・」
ヤツは反応しない。いや、俺を侮っているのだろう。先制権を取らせてやるということか。
「フン、せいぜい後悔しろ・・・・・・ゆくぞッ!!」
地を蹴った勢いで間合いを一気に詰める。その合間に刀を鞘から走らせ、間髪入れず風すら切り裂く一文字切りを繰り出す。
だが――
「!?」
俺は刀を、ヤツに当てることはできなかった。
「わたしたちをお救いください!」
初めて訪れた名前すらない小さな村で、俺はいきなりそう嘆願された。
「・・・話を聞かせてもらおうか」
俺は刀ひとつ旅する風来坊。守るものは何もない。
それに、世は情けというように、俺ができることなら人の力にもなってやりたい。
「魔物を、退治して頂きたいのです・・・」
そして俺はその依頼を受け、“帰ラズノ森”という、ありがたくもない名の森に足を踏み入れたのだ。
村の者の話によれば、村はずれにある森――この“帰ラズノ森”だが――に魔物が住んでいる、ということらしいのだ。
つまり、魔物がいつ人里へやって来るかわからない。だから退治してほしいのだという。
事の発端は幾十年前、この森を見つけた木こりが森へ入り二度と帰って来なかった事があってからのことらしい。
ただ一人、彼の息子が父を探しに入って生還したが、まるで、獣に襲われたかのような痛ましい傷だらけの体で、結局彼は最後まで何一つ語ることなく死んでしまったそうだ。
それからも何度か、腕に覚えのある村人や旅人やらが森を訪れたそうなのだが、誰も帰ってくる事はなかったという。
この森には魔物が住んでいる――そのような噂が立つのはすぐだったのだろう。
「物の怪か・・・俺の腕を試す、いい機会でもあるな」
むしろ、それが本心だった。俺は武者震いを隠せなかった。
そう。今までも、このような事がなかったわけではない。
ある時は賊を、ある時は戦で、自分の心と関係なく俺は数多の人を斬ってきた。
俺には力がある――もはや、並みの人間相手では満足できなくなっていた。
「しかし・・・不気味な森だ」
森は、生き物が虫一匹もいないのかというほど静まり返っており、風すら吹かず物音ひとつしない。
まるで時が止まってしまったかのような奇妙な感覚を覚え、俺は進んで行った。
さらさらと、心地よい響きが聞こえてきた。
何の収穫もなく、淀んだ空気の不快感に苛まされていた俺は、鬱屈した心を弾ませ音のする方へ走った。
「水だ・・・!」
繁みを抜けるとそこには、きらりと輝く小川が緩やかに流れていた。太陽の光を乱反射させ、目に眩しい。
早速腰を降ろし、その水を掬って口へ運ぶ。水はしんと冷たく、乾いた喉は一気に潤い心まで晴れやかになる。
「このような森に、澄んだ川が流れているとはありがたい」
・・・いや、待て。
何かがおかしい。こんなにも美しい川が流れているのに、何故生き物の存在が全く感じられないのだ。
それに、何故だか胸騒ぎがする。虫の知らせという奴だろうか。
そのときだった。
「!?」
川の色が一瞬にして真紅に染まった。これは・・・血だ!
すると川からは何本もの人間の腕が伸びどこからか苦痛に喘ぐうめきが聞こえてくる。
「や、やめろ!」
なぜか身体を動かすことができず、異様に伸びてきた腕たちが俺の足を掴んだ。どうすることもできず血の水面へと引きずり込まれて――
「・・・はっ」
気がつくと俺は川の前で倒れていた。もうあの血に染まった川ではなかった。
これは一体・・・
「そうか・・・魔物め、小賢しく俺に術でもかけたか?」
俺は立ち上がると川を忌々しく睨みつけ、注意深く辺りを見回した。
すると、対岸の森の向こうにひっそりと、小さな洞穴が口を開いているのを見つける。
「・・・あそこか」
洞穴は、森の中に現れた巨大な魔物の口に見え、早くこっちへ来いと俺を誘っているかのようだ。
待っていろ、今行ってやる。
洞穴の中はひんやりとした涼気が漂い、感覚を鋭くさせる。それは、魔物の出す妖気とも感じられた。
「ちっ・・・灯りを持ってくるのだったな」
自然洞穴らしく、無論、灯りはなく視界は暗闇に閉ざされている。
だが俺は、視覚を除く感覚をより鋭く集中させ、空間を手に取るように把握した。
「・・・どうやらここで人間を喰っているようだな」
嗅覚で異常な腐臭を感じ取る。足元には白骨の残骸が散らばっているらしい。触覚で判断した。
これは、数多の死地を潜り抜けてきたからこそできる業だ。
「――! 見つけたぞ」
暗闇の中に目を凝らすと、朧な影が眼前に浮かんでいるのがわかった。他の感覚もただならぬ気配を訴えている。
「――悪く思うな。人に仇名す存在は生かしておけん」
俺は静かに刀へ手を伸ばした。魔物の姿こそは見えないが、位置なら息遣いから計算し把握した。間違いなく斬撃の間合いに入っている。
「・・・・・・」
魔物は反応しない。いや、俺を侮っているのだろう。“やってみろ”という意志が伝わってくる。
「フン、せいぜい後悔しろ・・・・・・ゆくぞッ!!」
地を蹴った勢いで間合いを一気に詰める。その合間に刀を鯉口から走らせて、隙のない必殺の技・一文字切りを繰り出す。この一撃を躱せた者はいない。俺の勝ちだ。
だが――
「!?」
俺は刀を、魔物に当てることはできなかった。
「どうしたのじゃ。わしを殺さないのかね」
魔物――いや、その老人は無表情に言った。むしろ残念がっているように見える。
「な・・・人間、か?」
斬撃が魔物を切り裂く直前、俺は暗闇に目が慣れた事と、間合いを詰めた事で計らずとも魔物の姿を確認した。
その姿は、異形の姿をした恐ろしい魔物などではなく――どう見ても、ぼろぼろの布切れのような衣服を纏った、ほとんど骨と皮だけに痩せ細っているただの老人でしかなった。
一瞬の判断・・・いや、殆ど本能で察知した俺は、なんとか刀の軌道をずらしていた。
「驚くことはない。魔物は確かにいるのじゃからな」
「なんだと?」
「おぬしの――心の中に、いるよ」
俺は拍子抜けして、ただただ老人の話を聞くことしかできなかった。
老人の話によれば――信じられないことだが――この森の、あの澄んだ川の水を飲もうと近づけば、永遠に森の外へ出ることはできなくなるという。
「なぜならば、それは呪いじゃからな」
かつて、大規模な戦があった。そして多くの死者も出た。彼らの死体は弔われることなく、川へ無雑作に投げ捨てられた。
そう。死体の流れ着いた先が、川の下流にあたるこの“帰ラズノ森”だったのだ。
「この森には亡霊が棲んでおる。おぬしも聞いたじゃろう? 死者たちのうめき苦しむ声を」
亡霊の救済を求める不浄な魂が、迂闊に川へ近づいた者の魂を引き込みこの森へ縛りつけるのだろう。
森の生き物はその呪いの瘴気により、いつしか死に絶えた。
初めて森を訪れた人間――きこりは川の水を飲んだ。そして出られなくなった。
息子がやっと発見した時には、きこりは飢えと恐怖で錯乱していた。自分の子だともわからずに、生きるため息子を襲ったそうだ。息子は何とか魔物と化した父から逃れ、川の水を飲んでいなかったため村へ生還した。
しかし、次に森を訪れた村人や旅人は、やはり川の水を飲んで森をさまよい、飢えたきこりに喰われた。
それの繰り返しだ。
「そのきこりとは、わしのことじゃよ・・・今更じゃが、せがれには悪いことをしてしまった・・・・・・」
それが真実だった。魔物などいなかった。
いや、違う――魔物は俺の心に巣食っていたのだろう。
「・・・・・・・」
「さて、わしは人を喰らい過ぎた。それに、もう長くないじゃろう。次は、おぬしの番じゃな」